第三十三話
チクタク。
チクタク。
チクタク。
あれから一時間半経った。
頭の中では本来聞こえないはずの時計の針が動く音が鳴り、現実ではシャーペンが紙の上を走る音が聞こえる。心地よい静けさが俺たちを包み込んでいる。
合間合間に見る優の解答はその大半が正しい。間違っていても、間違っていること自体を俺が指摘する前に、回答を見て自分で解決している。
この調子なら気張って勉強する必要はない。
だが、彼女は勉強をする。
真面目に、万が一を潰すために毎日勉強をする。
遊びたい気持ちを押し殺し、目的に向かって一途に取り組む誠実と勤勉が宿った精神をもってして努力を怠らない。お前さんは素晴らしい人間だよ。
「集中切れてますよ」
「ん? ああ、ちょっとお前のこと考えてたんだよ」
おっと、口が滑った。
顔を真っ赤にした優はシャーペンをノートの上に放り、口をわなわなと震わせる。
「な、な、な……」
「七?」
「ち、違いますよ!」
俺の言葉を真に受けた動揺する彼女は、身を乗り出して怒りを訴える。
俺は純情を弄んでるつもりじゃないんだが。
「とりあえず落ち着こうぜ。俺がお前を考えていたのは事実だけど、お前がいま頭で想像しているようなことは考えてねえ」
「な、なんですかそれ?」
期待がまだ裏切られていないと考えているのか、優はちょこんと座りながら言葉を詰まらせる。
ちきしょう、やっちまったよ。
図らずとも面倒ごとに発展させてしまった自分に呆れる。自分では空気が読めてると思っていたが、これじゃあ司と同じだ。
「はあ……」
「何の溜息ですか?」
自分への溜息を吐く俺に、怒り冷めやらない優は突っかかってくる。なんだか小型犬みたいだな。鬱陶しく、キャンキャンと吠えるさ。
……面倒だ。
ピーンポーン。
あら、これは思いがけない助け船。
「司、来たみたいだぜ」
「え、ええ、わかりましたよ。慎一さんはそういう人だってわかってましたよ」
怒りながら二つの了解を示した優は、机をバンッと叩いて立ち上がる。そして荒々しく扉を開けて閉めると、音をわざと立てて階段を下りていく。
「すまねえなあ……」
天井を見て謝ったところで何にも変わらねえ。優の心を遊んじまった事実は残る。
今度、叶えられる範囲でなんか一つだけ叶えてやらねえとだな。
まあ、勉強でも続けるか。
溜息を吐いてシャーペンを握った矢先、スマホが震える。
通知を見ると、『今度はなにしたの?』と来栖からのメッセージが届いていた。
今度って、俺は一度たりとも優に変なことしてないぜ。
けれど、知らないうちにやっていたのかもしれねえ。自分の身の振り方さえ客観視できなくなるほど、俺は耄碌しちまったのか?
まあ、いいや。いまは『さあな』とでも返しておこう。
いまは勉強だ。
「おはよう。坂本」
「ん」
「何ですか、その適当な挨拶は……」
再び握ったシャーペンを握った瞬間、司の荷物であろうトートバッグを持った優と、昨日と変わらないノースリーブの白いワンピースを着た司が部屋に入ってきた。
優は相変わらず怒っている。そして、司はそんな優に困惑している。
優は頬を膨らませながら俺の反対側に座り、使い古されたトートバッグと肩に掛けた黒のミニバッグを傍らに置く。司は苦笑いを俺に向け、事態の説明を求めてくる。
「まあ、察してくれ」
「何を?」
彼女はニマニマと笑う。
天使様は状況を一瞬で把握したらしい。
「それを察してくれ」
「坂本。難しいこと言うね」
「分かってるんだったら、黙って勉強を始めろ。もとはと言えば……、いや、違うな」
「何が?」
「何でもねえよ。お前も来栖に似てきたな」
「似てない。絶対に似てない。あんな奴と一緒とか心外」
それまで俺をからかってたのに、来栖の話が出た瞬間、彼女は表情を消す。
どうやら本日二度目のやらかしをしてしまったらしい……。
不幸は連鎖していくようだった。その象徴するようにスマホが再び震える。滅多に来ないLINE通知は、珍しく二回目だ。
ただ、それは来栖のそれと違って見ない方が良い代物だった。
スマホにはおぞましい女の名前が表示され、『慎ちゃん、元気にしてる? 仕送りは全部使ってね』と一言。
『仕送り』なんて善良な言葉を誰が使ってるんだ?
スマホが再び震える。
画面には『まだ、綺麗な髪のまま? 私好みの長い髪』と。
途端、全身から血の気が引いて行く。
「坂本、大丈夫?」
「ん? ああ、まあ、うん」
「慎一さん。顔色悪いですし、汗もすごいです」
「ん? ああ……」
二人から向けられていた不満はいつの間にか不安に変わっていた。
俺に対する不安、心配。
優が言うように俺の様子は瞬間的に、劇的に悪くなったんだろう。実際、悪寒がするし、背中はぐっしょり濡れている。
「大丈夫だ。本当に大丈夫だぜ」
「『大丈夫』って、問題ない人は言わない」
「じゃあ、察してくれ」
「……神様も人間みたいなんだね」
司はボソッと呟く。
「俺は初めから人間だよ。どこまでも汚い人間様だよ……」
「二人とも冗談はやめてください。慎一さん、お茶を持ってきますんで」
困惑しながらも俺を心配する優は、開けた扉も閉めずに部屋から慌てて出て行った。
「人間らしい感情もあるんだね」
司は俺の背中をさすりながら、耳元で無感情に囁く。
「……そいつはてめえにもあるだろ」
「当たり前だよ。人間の肉体を手に入れたんだから」
「相変わらずの電波か?」
「電波じゃない。事実。私は人を幸せにしてる」
「わけがわからねえよ……」
本当に意味が分からない。
どうしてこいつは人のことを慮れねえんだ? いや、慮ってこの始末か?
優はドタドタと音を鳴らしながら二階に上がってくる。そして、部屋に着くや否やお茶が注がれたガラスのコップを二つも載せてるお盆を床に置いて、そのうちの一つを俺に突き出してくる。
「これ、麦茶です」
「す、すまねえな」
冷たい麦茶は乾き切った喉を潤し、精神的に痙攣する俺に落ち着きを与える。
「……はぁ。ありがとう」
「一気に飲むとは」
司は目を丸くして俺を見つめる。
「別に良いだろ。というか、てめえは手を離せ」
「……わかった」
「なんで不服気なんだよ」
俺の背中から手を離した司は、開けっ放しの扉をぶすっとしながら閉める。
しかしその瞬間、扉が勢いよく開く。
「なんかあったの!?」
大声とともに現れた来栖を司は部屋の外に押し返そうと、再び扉を閉めようとする。だが、来栖も来栖で彼女に抵抗して扉を何とか開けようとする。
「ちょっとちょっと、一応俺も家主の一人なんですけど!?」
「うるさい。黙れ。どっか行け」
「司さん、なんで俺にだけ冷たいのさ」
「嫌いだから。嘘吐きの貴方が」
「いまは嘘吐いてないよ。だからさ、ねっ、扉から手を離してよ」
開きかけては閉まりかける扉越しに、二人は騒々しい口喧嘩をする。優は頭を抱えて、その様子をため息交じりに見つめている。
本当に苦労を掛けるな、優……。
「あっ、そう言えば」
あれ、この状況で話を始めるんですか優さん?
ぺたんと座る優は目の前の騒動に構わず、熱っぽい視線とともに会話を始める。
「慎一さん、八月三日って暇ですか?」
「まあ、暇だよ」
八月三日、花火大会の日。
やることなんて何にもない。
「じゃ、一緒に花火大会行きません?」
肉体の運動せいか、精神の動揺のせいか、あるいはその両方か。
顔を赤らめる優は、指遊びをしながら、言葉を若干詰まらせながら、もじもじと花火大会のお誘いをしてくる。
お誘いはありがたい。そして、お前さんがこみ上げる恥じらいを抑えて勇気を出したことも称賛に値する。
「ああ、良いぜ」
「本当ですか!?」
優は飛び跳ねるように喜ぶ。
そんな無邪気な優に俺は笑みをこぼしてしまう。そして、無垢の喜びを半減させる言葉を口に出すことに胸を痛める。
「ああ、来栖も連れて三人で行こう」
「……そうですか」
優は明らかに落胆する。
だが、安心してくれや優。俺は朴念仁じゃねえ。お前さんの心は把握してる。だからこそ、俺は来栖と一緒に来て欲しいんだ。
「じゃあ、司さんも連れて行きます」
おっと、それは予想外。
でも、まあ、来栖に押し付ければいいか。いまもなんか仲良さそうだし。
「わかった。じゃあ、そうしよう」
「はい……」
落胆の溜息とともに立ち上がった優は、恨めしそうに俺を見る。
分かってるさ。
だから、どうか、許してくれよ。
お前のためなんだから。
「優! 開けて!」
「優ちゃん、こんな奴の言うこと聞かないで!」
落ち込む優の気持ちを知らないで、二人は扉を挟んで仲良く喧嘩をしている。
とりあえず、黙らせねえとだな。
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