第三十二話
俺たちは乗車すると若干の気まずさから別々の席に座った。
ゆりかごのように心地よい振動、俺と司以外誰もいない車内、疲れた体。そんな環境で、ぼうっと外を眺めていたら意識はすっかり飛んでしまった。
ただ、心地よいうたたねも、それが中途半端なら毒らしい。
それは悪夢を呼び起こす。忘れようと思って、それが無いように振舞っていた複数個の現実を呼び起こす。もっとも、異常な不快感から目を覚ますと、これまで通り悪夢を見たという事実だけが残る。悪夢の光景は記憶から抹消される。
冷や汗でぐっしょりと濡れた体は不快だった。しかし、何よりも人に、俺の弱った姿を司に見られたことが不快だった。心配してくれたのはありがたい。けれど、弱った俺を見ないで欲しかった。
具合が悪そうな俺を心配そうに眺める司とともに降車し、俺たちは帰路に就いた。彼女は『家まで送ろうか?』と心配してくれたが、俺は普段通りの体裁を保てそうになかったから善意を断った。
彼女は悲しい顔をした。
俺は息苦しさを覚えた。
後悔満ちる真夏の夕方。
そんな中、俺は独りで帰った。そして家に帰ったらすぐに、二度と記憶が蘇ってこないように強く願いながら倒れるように眠った。そうして七月二十五日は倦怠とともに終わり、七月二十六日は脳裏から消えない不快感とともに迎えられた。
連続的で普遍的な朝の支度をし終えると、俺はトートバッグに勉強道具を入れ、家を八時半に出て、来栖家に向かった。
そして、現在。
俺は優の部屋で勉強を教えている。
「……クソ」
教えているというものの苛立ちの中で均衡が保てない精神は、ノースリーブの黒いワンピースを着た優を考慮できない。俺は自分本位になって、どうでも良いと吐き捨てた過去に感情的な呪詛を唱えてしまう。
「どうしたんですか慎一さん?」
「いや、何でもねえよ。とりあえず勉強を続けてどうぞ、優」
過去に対する苛立ちは、何も知り得ない優への悪態と変わる。そんな大人げない態度は彼女の顔をしかめさせる。
「何でもなくないでしょう。何かあったんですか?」
「何かはあったよ。だけど、何もなかったと言っても良い」
「なんですかそれ?」
優は語気を強めて追及しようとしてくる。
……この場合、俺が折れた方が、いや、俺が悪いのだから俺が事態を収めるべきだ。
「つまり、聞かないでくれってことさ」
「頭を下げるなんて珍しいですね」
物珍しい俺の言動に優は驚く。
「慎一さんがそこまで言うなら聞かないですよ」
「ありがとさん」
「……本当に珍しいです」
優、俺が安堵の息を吐くことの何が珍しいんだ?
もしかして俺に宿る憂いの魅力に気付いたか! 良い趣味してるぜ、優さんや。
あ、違う。
そっか。
うん。
早いこと情緒を取り戻そう。優の機嫌を損ねないためにも、俺自身の平静のためにもな。
「優。その問題、もうちょっと簡単に解けるぜ」
「えっと、問四ですか?」
「そうそう、問一で与えられた与式を変形して、問三で導いた式に代入すれば、問四の答えはさ……」
解答としては正しいが、エレガントではない解答をした優に簡単かつ明瞭な別解を説明する。
代入と変形で方程式はあっという間に解ける。こんなふうに人間も変数と係数で出来ていれば良いんだけどな。
「ほら、綺麗に出るだろ」
解がすんなりと導かれると、優はパッと明るい顔になる。
問題が綺麗に解ける嬉しさはいつになっても変わらねえよな。
「本当ですね! 頭がおかしくなっても、やっぱり優秀なんですね」
「ぶっ飛ばすぞ」
「ふふ、冗談ですよ。大体、慎一さんは私を殴れないでしょ?」
手を口にあてがって、さも貴婦人のように微笑む優の姿は質問のバイオレンスさと相まって滑稽だ。
思わず口角が上がっちまう。
「お前だけじゃなくて、女子を殴る気はねえよ。いや、そもそも人を殴る気なんてねえよ」
「本当ですか?」
優はクスクスと笑って、俺を煽る。子供らしい笑みは芯を食った苛立ちを俺に与えてくる。
段々、兄に似てきたなあ……。
ただ、苛立ちも彼女の表情にちらちらと現れる来栖の面影にかき消される。
「今日は司さん来ないんですね」
「連絡してねえしな」
「なんでですか?」
優は身を乗り出して、司に連絡を入れていない俺を非難する。
お前は何で司に懐いているんだよ?
「別に要らねえだろ。あいつだって用事があるだろうし」
「聞いたんですか?」
「聞いてねえけど……」
「スマホ、貸してください」
「嫌だよ」
「貸してください。お昼ご飯作りませんよ」
「昼飯くらい買ってくるさ」
「……」
暗に昼食を一緒に食べることを否定された優は、肩をがっくりと落として俯いてしまう。
本当に感情が豊かだな。
ただ、感情を向けるべき相手が違うぜ。お前のそれは俺じゃなくて、同級生の男子あるいは女子、もっと真っ当な先輩後輩諸兄に諸姉に向けるべきさ。
「じゃあ、ほら、やるよ」
「って、ロックかけてないんですか?」
スマホを手渡された瞬間、ロック解除の操作をしようとした優は俺の無防備さに呆れる。そして、机に頬杖をついている俺をジトっと見つめる。
「見られて困るもん入ってねえしな」
「プライベートの問題とかないんですか?」
「ねえよ。大体、俺にプライベートなんて無いし」
「まあ、LINEの友達が五人なら不味いプライベートも無いですよね」
「そう言うことじゃないんだけどなあ……」
優は俺の失言を見事に勘違いしてくれた。
しかも、ポロっと漏れてしまった言葉もまた無視してくれる。
嬉しいぜ、優。
「それじゃ、司さんに連絡入れましたんで」
「あいつ、既読つくかどうかわからねえよ」
「多忙なんですか?」
「さあな」
「さあなって、水族館デートした仲なんですよね?」
不機嫌に頬を膨らませる優は、ムキになってスマホを俺に向かって放ってくる。もっとも、軽くキャッチできる程度のピッチングだから問題はない。
そう、問題なのは、俺と司の一日を優が知っている件だ。
「『なんで知ってる?』って顔してますね」
「お前は超能力者か?」
「違いますよ」
「ということは野郎か」
思い当たる節なんてただ一人しかいねえ。いや、別れるとき『優には言うな』なんてダジャレめいた忠告が出来なかった俺の落ち度でもあるが。
余計な世話しか焼かない雇い主の一人に青筋を立てていると、けたたましい音を立てて扉が開かれた。
「はい! そうです! 犯人は俺でーす!」
そして、お調子者としての来栖が現れた。
よれた白の半袖シャツと紺色短パン姿は、野郎の滑稽さを演出している。
「出て行ってください、兄さん」
いきいきとした登場に反し、来栖は俺たちに歓迎されなかった。歓迎ムードと真反対の雰囲気に野郎はがっくりと肩を落とす。だが、野郎が失せる気はないらしく、部屋に入ってくると、扉をそうっと閉めて、フローリングの上にあぐらをかいた。
「良いじゃん。世間話の種の一つとしては上等でしょ?」
「上等じゃねえよ。下等も下等、低俗も低俗、最低な話題だ。大体、俺と司の間にそういう関係はねえ」
「断言するねえ」
「ああ、断言するね!」
へらへらと知ったような口を利く野郎に、本気で苛立つ。
平静が保てないせいで、俺の声は低く、重くなってしまった。しかも自分の感情に伴う言動に気付いたのは、俺の声が部屋に浸透しようとする瞬間だ。
つまり、時すでに遅し。
来栖はしきりに「落ち着いて」と言い、優は俺ではない誰かを俺の中に見ているようだ。
「いや、悪い。感情的になりすぎた」
照れと罪悪感の中で頭を下げると、来栖は頭を上げるように言う。そして、言われた通り頭を上げると、今度は野郎が頭を深々と下げていた。
「そうだね、感情的になりすぎだ。でも、今回は俺も悪かったよ。不躾だった」
「ならこれで両成敗か」
「さっすが、話が分かってらっしゃる」
来栖は指をパチンと鳴らすと、軽妙な口ぶりでそう言う。
「学校のお前と、プライベートのお前が、同じ来栖聡なのかって疑いたくなるぜ」
「嫌だなあ。俺は俺だよ。ただ、慎一や優、あと司さんの前じゃ取り繕っていないだけ。心を許しているからね」
未だ俺に怯えを抱いている彼女を安心させるため、来栖は兄らしく微笑む。すると、呪文が解けたみたいに、優の怯えは無くなる。
「俺もお前みたいに、器用に生きたいよ」
「慎一は真面目が過ぎるんだよ。人生なんて肩の力を抜いて、限りなく利己的に生きなきゃ。俺が母さんや父さんと話して、慎一を家庭教師として雇った理由も俺のエゴだし」
「そうだったか?」
「忘れたの? 憎たらしいねえ」
嘘だよ。
覚えているさ。
お前を助けた次の日の放課後、俺の中間考査の結果を知り合い伝手に知ったお前は悪評塗れの俺に接触し、『君の勉強時間を削る代わりに、俺の妹に勉強を教えてあげてくれ。それなり勉強した俺が、不良の慎一君に負けるのは嫌なんだ』と、訳の分からない頼みごとをしてきた。そんな春の夕暮れ時の教室で起きた印象的な出来事を忘れるわけがねえ。
「ああ、忘れたね。全部忘れたさ」
「ちぇ」
不機嫌を抱える来栖は口を尖らせ、おどけて見せる。
「けど、忘れるくらいどうでもいい出来事だったんだろ。お前も利己的な過去から目を背けて、いまを見ろよ」
「嫌だよ。昔もいまも慎一は俺の友達であり、ライバルだよ」
「そうかい。ただ、ライバルなんて大層なことを言って競っても、大して変わらないと思うぜ?」
「いいや、違うよ。慎一は生まれ持っての頭の良さを持っている。それに対して俺は努力を怠らない秀才だ。つまり、俺と慎一の競争は天才と一般人の競争だ。それって、ロマンだ。凡人が天才に勝つかもしれないんだ。あと、普通に俺が誰かに負けるなんて俺自身が耐えられない。だから俺は競争を辞めないよ」
来栖が俺との点数競争に執着している理由は単純だ。
そうだ、こいつは負けず嫌いだ。
「そうでござんすか。でも、その努力は間違ってると思うぜ」
「どうして?」
「てめえのためにならねえからだよ」
「まっ、そうだね」
俺の忠告に来栖は聞く耳を持たず、さらりと認める。
なるほど、こいつは俺どれだけ言ったって意味がねえな。
「はあ……」
俺が呆れと諦めの溜息を吐くと、来栖はにんまりと笑う。
「慎一は黙って勉強してくれればいいんだよ。俺が超えるその時までさ」
「へいへい、俺は俺のために勉強しますぜ」
「そう来なくっちゃ! だから、ほら、勉強しようよ。俺たちと一緒にさ」
「いや、兄さんは出て行ってください。邪魔です」
「お兄ちゃん、悲しいぜ……」
立ち上がっていざ勉強と言った調子で宣言した矢先、来栖の熱意は優にへし折られた。そして、がっくりとうなだれ、壁際で膝を抱えて座り込んだ。どうやら、熱意が折られても、優の部屋に居座るらしい。
凄い根性だな。
人様に見せるにはあまりにもみっともない兄の姿に、優は頭を抱える。けれども、来栖を部屋から追い出そうとはしない。
結構な根性ですこと。
「案外、似てるんだな……」
「そりゃあ、もちろん。兄妹ですから」
「てめえのそういう態度が俺に血縁の齟齬を生じさせてるんだよ」
俺の独り言を聞きつけた来栖は極めて苛立たしい笑みの貼り付いた顔を上げると、サムズアップしてきた。
阿呆極まった兄とは似ても似つかない秀でた優は、俺たちと関わる無益さを理解して売るらしく、俺たちを無視して勉学に取り組んでいる。
「やるんだったらやるぞ。そんで十二時半になったら休憩だ」
「あと、三時間もやるの?」
「俺に追い越したいんだったら文句言うな」
「はーい」
ふざけた態度から一変。
来栖は落ち着いた雰囲気となって立ち上がる。
本当に、どうして、こいつは真面目と不真面目をいとも簡単に切り替えられるんだろうか。精神構造を見てみたいぜ。
「それじゃ、頃合いになったら俺に教えてよ」
「了解。頑張れよ」
「もちろん。じゃ、三時間後。優も頑張ってね」
「わかりましたから出て行ってください」
「ええ……」
励ましを悪態で返された可哀そうな兄は、しょんぼりと肩を落としながら部屋から出て行った。
本当にやる時はやる馬鹿な男だ。そして、そんな尊敬すべく男に売られた喧嘩であれば買うのが道義だろう。
「それじゃ、続きを始めますかな」
「はい。よろしくお願いします」
「よろしくお願いされますよ」
馬鹿だと揶揄した来栖の競争意識を俺は受け取る。そして、俺と優は快く、精神の平行を保たれた状況で、勉強を再開する。
ご覧いただきありがとうございます。




