第三十話
熱帯に生息する水生生物の展示か。
これまでの日本的な海の趣とは正反対で、色鮮やかな水生生物が展示されている。通路の明かりも薄暗い照明ではなく、夏の明かりのようになっている。
彼女は目的の展示があるらしく、るんるん気分で突き進んでいく。そして、展示を見ていた僅かな人たちは、泳ぐ色鮮やかな魚を見ず、通り過ぎていく眼帯少女に視線を向ける。
俺はあれが自分の連れだと思うと、ひどく恥ずかしい……。
「はあ……」
どうやら俺が辺りをキョロキョロと眺めている間に、司は目的の展示を見つけたらしい。彼女は歩みを止めて、一つの水槽を食い入るように見ている。
巨大水槽の展示室で見せた幽玄な少女の姿は、俺の目には映っていない。俺の目には周囲から浮いている一人の天真爛漫な少女が映っている。
「……エンゼルフィッシュ」
水槽を独占するように前かがみになった彼女が見ているのは、矢じりみたいな形をした黄と黒の縞模様をした小さな熱帯魚だった。展示の迫力で言えば、水族館の入場口付近にあった淡水魚の展示と同じくらい地味だ。
いや、青いコンクリート壁に長細い水草しか入っていないから、この展示の方が地味か。
「うん、これが見たかったんだ」
「なんでまた」
「小さいころお父さんがくれた図鑑で見たから」
図鑑で見たとはまた殊勝な。
しかも、父親から貰った。なるほど賢い親父さんだな。どっかの誰かとは違って、真面目で勤勉な人なんだろうな。
……そう言えば、司の家族ってどうなってんだ? 自称天使の娘を抱えた家庭はどんな形をしているのかしら?
「お前さんの父親は優秀なんだな」
「うん。ALTの先生だったんだ」
「ああ、だから髪と目が」
「うん……」
天使の声は沈んだ。
水槽のガラスに反射して見える彼女は、表情を曇らせた。
彼女にとって父親の話は快くないらしい。
なら、これ以上は追究しない。というよりも、家族について追及しようとした俺が馬鹿だった。
「……坂本はさ、さっき魚の世界は小さな水槽でしかないって言ってたでしょ」
「確かにそう言った」
「じゃあ、水槽の中の魚が、もしも外の広い海を知れば、魚の世界は広がる?」
「物理的には広がるさ。ただ、認識としては変わらねえ。魚にとってはいまある世界が、世界のすべてだからな」
「それじゃ、魚も人間も変わらないんだね」
水槽から顔を離した司は身をくるりと翻し、俺の目をジッと見つめる。
「変わらない?」
「だって、人間の認識が変わったって世界そのものは変わらないもの」
「物理的な世界はな。けど、認識が変われば、対象を知れば、世界は広がるさ」
俺はすかした笑いを浮かべて得意げになる。我ながら痛々しいと思う。しかし、そんな自分への嘲笑を許さない様に、彼女は雰囲気を変える。
それは神と天使の約束を結んだ屋上で纏った雰囲気。
それは来栖家で『世界は死んでいる』と呟いた時に纏った雰囲気。
それは俺の素性を掴んでいると錯覚させる雰囲気。
「世界が広がるって喜ばしいことなの?」
彼女は笑顔で首をかしげる。
「世界が広がるって絶望が広がると同意義じゃないの?」
そして、間を開けずに別の問いを投げかけてくる。
彼女の二つの問いは、俺を底冷えさせる。
「だって、世界は死んでいるんだからさ」
「……世界が死んでいる?」
「うん。だから、形而上の天使と神様は肉体を手に入れて、こうして存在しているんだよ」
司は微笑みの内で勝手に納得する。その瞬間、彼女は雰囲気を一変させ、普段の阿保っぽくて子供らしい純粋な満面の笑みを浮かべる。
俺はそれに安堵する。
気付けば背中は冷や汗でぐっしょりしている。
何が、どうして?
「とりあえず、出よ。もう飽きちゃった」
「……そうだな」
「元気ないね」
『お前のせいだろ!』と、俺の痙攣する心は発せなかった。
ごく自然にニコニコと笑う司。
こいつに体の芯が冷える恐怖を抱くことは絶対にないはずなのに、俺は恐れおののいている。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。大丈夫。さあ、行こう」
明らかな動揺を抱えたまま、俺は彼女に不格好な笑みを注ぐ。そして、彼女を見ないために出口に向かって独りで駆け出す。
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