第二十九話
チケットを買ってもなお怪訝な顔を向けてきた失礼な受付さんを尻目に、微かな期待を胸にして入場した。
水族館は空いていた。駅のバスターミナルと同じように人はまばらだ。
入場口からしばらくは、淡水魚や汽水域に生息する魚や両生類の水槽、多種多様なクラゲの水槽、ミズタコやコウイカなどの軟体魚類の水槽が続いた。その地味な水生生物たちは、本当に地味で全く目をひかなかった。印象を強いて挙げるとすれば、ミズダコが大きかったことくらいだ。
感受性が薄いせいか、あるいはこの水族館の展示が悪いかのか、あるいは両方か。ともかく、水族館という空間に対する興味は入場してから十五分程度ですっかり薄れた。
ゆえに水槽を見ずに、俺は俺を呼びだした張本人を探している。
さて、この深海生物の薄暗い展示室の先は、水族館の目玉である巨大水槽の広々とした展示室だ。
「でけえな……」
銀色の鱗を輝かせ群れを成して泳ぐ鰯や鯵、地味な色で泳ぎ方を忘れた様に岩礁の上で休むカサゴ類、悠々と回遊する茶色のエイたち、水を切るように泳ぎ回る元気なサメと、サメと競うように泳ぐ魚雷みたいなブリやカツオ、その他いろいろ。数えきれない魚たちが、人工的な海を快適そうに泳いでいる。
どこまでも人工的に青い巨大な水槽には虚しさを覚える。それは魚たちが本来は自由な海を泳ぎ回れるのに、水槽に閉じ込められているのが可哀そうとか、動物愛護者的な理由じゃない。近くに綺麗? な海があるのに、自然をあえて作り出し、巨大な施設の中で展示しているにもかかわらず、水族館に人が訪れていない侘しさだ。
そんな少し左に偏った思想のもと、水槽を見上げる。
人が百人入っても余裕のある大きな水槽。水槽を満たす海水、泳ぎ回る魚。人が居ないせいで、あるいは人が居たとしても、だだっ広く見える観覧スペース。それらは海中の幻想の楽しさよりも、現実の中にある虚構の寂しさを突きつけているような気がする。
場違いなリアリズムを抱きながら観覧スペースを水槽に沿って歩いていると、見覚えのある後ろ姿を捉える。後ろで結んだブロンドの髪、華奢な背中、初めて見る白いひらひらとしたワンピース、体に掛けた黒のミニバッグ、左目を覆う白いガーゼの眼帯。
なるほど、司さんは眼帯の弊害で左隣に立つ俺が見えていないのか。
彼女は食い入るように水槽を見つめている。彼女の白くて綺麗な横顔は、いまにも水の中に吸い込まれそうな雰囲気を漂わせている。それはミレーが描いたオフィーリアの如き憂いだ。もっとも、ミレーのオフィーリアは病人をモデルに描いた。つまり、この比喩において司は病人のような雰囲気を纏っているということになる。
縁起でもねえ……。
さて、相手が集中しているとき、声をかけて良いものか? しかも俺は一時間弱彼女を待たせた側だ。
まあ、悩んでも仕方がねえか。
俺は躊躇いながら、彼女の肩をちょんちょんと指先で突く。彼女は体をびくっと震わせると、恐る恐る振り向く。
「……神様」
「開口一番それかよ……」
ガラス玉のように透き通った目で、司は変わらない世迷言を言う。しかし、申し訳なさと世間体のせいで俺はいつものように否定できなかった。
「待たせて悪かったな」
「いきなり連絡した私が悪いよ」
彼女は首を横に振って自分に非があると言う。
いや、今日に限っては俺が悪い。というか来栖が全部悪い。
「それで、今日はどうして水族館に?」
「気分だよ。ここだったら神様が神様だって信じてくれるような気がしたから」
彼女は水槽を見上げ、優しく微笑む。
「神様ねえ……。いまのところ俺は自分のことを人間だと思ってるぜ。俺の存在は人間に固定されてる」
「そう? でも、いまの状況は神様でしょ?」
司は首をかしげる。
「いまの状況?」
司の言葉を全く理解することができない。
現状と俺が神であることに等式が成り立つとはまったく思えない。
「そう、いまの状況。こうして水槽を眺めている状況。魚たちは小さな海を泳いでいる。そして、私と神様はその小さな海を一方的に眺めている。魚の世界を私と神様は見つめている。それって天上から地上を見下ろす神様と同じ。一方的に生活を眺めて、天使と語り合い微笑む神様と」
「……理解に苦しむが、言いたいことはわかるぜ。けど、箱庭の世界を眺めているのは他の人間も同じだ」
「でも、坂本はさっき他の人とは違うことを思ってたでしょ?」
「見てたのかよ」
自分の顔に熱が帯びていくのがわかる。
俺の内側を恥が焼いてくる。
「うん、見てたよ。この水槽の前に来た時からずっと」
「嘘吐け」
「嘘じゃないよ。ただ、坂本が気付かなかっただけ。私じゃなくてこの世界を見ていたから」
「世界?」
「そう、世界。魚たちにとっての小さな小さな世界。きっと絶望で満ちている世界。自由な海に出られず、誰かの手につくられた狭くておぞましい世界」
司は水槽のひんやりとしたガラスに掌をのせる。
彼女は真摯な態度で諦観を呟く。そして、それは冗談なんかではない。本音だ。
「おぞましいねえ……」
「坂本はそう思わない?」
「思わねえ」
「どうして?」
今まで現実から遊離しているような雰囲気を漂わせていた司は、地に足を着けて水槽から俺に視線を移す。真面目な彼女の表情は俺の衒学の箱を開ける。
「こいつらにとっての世界はこの水槽だ。水槽がこいつらの世界、そして、こいつらはそれ以上の世界を知らない。あるのは海水と自分、そして子孫を残すという機械的な意思。絶望も何もなく、ただ生きているという事実だけがこいつらにはある」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「霊長の頂点に立つ人間しか絶望することができないからだよ」
司は意味がわからないと訴えるように首をかしげる。
「例えば鶏だ。鶏は自身の卵が人間に取られても絶望しない。そして、卵が孵ってヒヨコが産まれ、ヒヨコが死んだとしても絶望しない。どうしてか? 簡単だ。鶏には記憶を想うことができない。自分が産まれ、存在し、卵を産んで、それがヒヨコに孵り、ヒヨコが死んだ事実だけが断片的にあり、瞬間的に情緒を獲得し、瞬間的な感情を発露するだけだ。だから、鶏は絶望しない」
「そんなの鶏にしか分からない。鶏だって絶望するかもしれない」
「そうかもしれねえな。けど、それは俺たち人間の世界がそうであるからだろ。人間は感情を持っている。そして、記憶を想って未来を想像する。だからこそ、過去、現在、未来の連続的な時間をもってして世界を捉え、そこに想いを馳せる。なるほど、じゃあ鶏は、いや動物はどうなんだ? 動物に記憶能力があるのか? それはイエスだ。ただ、記憶を用いるだけの力があるのか? それはノーだ。彼らは現在しか生きていない。あるいは現在から微かに拡張された過去と未来、非連続の時間を生きている。だからこそ、彼らの世界に絶望は無い。彼らの世界にあるのは永遠の幸福だけだ」
「……屁理屈だよ」
「ああ、屁理屈さ。こんなのは人間様が考える彼らの世界に過ぎないからな。でも、俺たちが彼らになれない以上、動物の行動を考えるときはそうすることしかできないだろ?」
「それじゃあ、人間の場合も?」
「ああ、そうだ。俺は俺でしかないし、お前もお前でしかない。だから人は人を完全に分かり合えない。人は人の世界を共有できない」
「坂本、それは違うよ」
「違わねえよ。俺たちは非連続な存在だ」
「違う。私たちは言葉で世界を共有できる」
「そうかねえ……。言葉は誤解の塊だと思うぜ」
「そんなことない!」
司は鬼気迫った声で否定する。
広い空間に彼女の声は良く響き、注目を集めてしまう。
視線が集まったことで、ようやく自分が大声を出したことに気付いた彼女は慌てて口を手で抑える。
「まあ、なんでお前が言葉の誤解を否定して、世界の共有を肯定するのかは分からねえ。けど、俺は俺の世界、お前はお前の世界しか持てないのは事実だ。現に俺はお前の世界を理解できてねえ」
「……坂本の世界は私を含まないの?」
恥じらいか、それとも苛立ちか、司は顔を伏せて肩を震わせる。
「お前という存在、お前という対象は含んでいるさ。ただ、お前の世界は含んでねえ」
途端、司は顔を上げる。
彼女は嬉しそうに笑っている。それは処世術のもとで来栖の浮かべるような笑みではなく、自然な笑みだ。
「そっか。でも、坂本の世界に私は居るんだね」
「ああ、それがどうしたんだよ?」
「ふふ、嬉しいんだよ。一介の天使が神様の中に居るのがさ」
背中をこちらに向けて、司は嬉しそうに笑う。
気が付けば俺たちしかいない巨大な展示室に彼女の小さな笑い声は木霊する。
おしとやかなであどけない天使様は、続く展示室に跳ねる足取りで向かう。そんな俺を考慮しない自由気ままな少女を追うために、何をしでかすか分からない少女を見守るために、世話好きなお馬鹿さんは倦怠に鞭を打つ。
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