第二十三話
優は玄関で無理やり司に茶封筒を渡した。
けれども、天使様は本当に金銭を俗悪だと本気で思っているらしい。しかしその曲がった信念も優の必死の説得を前には屈してしまった。
結局、高潔な司様は聖なる少女から俗悪を受け取った。
かくして、俺と司は外に出た。
外は窓から見えていた通り暗い。
驚くほど空は暗いが、星々はほとんど見えない。
街の明かりが星の光を消してしまっている。見えるとすれば、他の星よりも極端に明るいベガとアルタイルとデネブくらいだ。
そんな街は星だけじゃなく、心地よいはずの夜風さえ生暖かい風に変えてしまっている。
「そんじゃ、また来週な」
「うん、さようなら慎一。それと司さんも」
「……さようなら、優ちゃん」
「はい、さようならです。司さん、慎一さん」
来栖と優はわざわざ家から蒸し暑い外出てきて、俺たちを見送ってくれた。
司は相変わらず来栖に対して嫌悪感を抱いているようで、意識して野郎を無視した。ただ、優は気に入ったらしく、彼女には屈託のない笑みを送った。
俺たちはいつものように、二日前と同じように、暗がりの道を歩く。
俺たちが歩く道は俺の帰路。彼女はキッズと出会ったときと同じように、水曜日から始まった日常と同じく俺の後ろを歩く。
慣れは安心できるが恐ろしい。分かり切った理由があったとしても、赤の他人に等しい女子が、自分に付きまとっていることを常識としてしまうのだから。しかも、常識とするまでに要した時間はたかが二日だし。
「そう言えば、今日の証明はまだしてなかったな」
「うん、してない」
神様ではない証明をしなければ、俺が契約を破った事実が残る。地に落ちた世評をいまさら高めたいわけでもないが、契約は守らなきゃならねえ。
俺的に不純だしな。
とはいえ、今日は丁度良くあのキッズがいるわけじゃないだろうし……。
何か考え付くだろうと他人行儀な期待をしながら、何も考えずにぼうっと歩く。
すると、例の公園に着いてしまった。
もう、家まで間もない。
何も考え付いていないのに。
「うん、でも、今日は良いよ。今日の坂本の態度を見ていれば、貴方が神様だって思えたから」
司は微かに嬉しそうな声で、俺の背中に語る。
俺からすれば彼女の言葉はなにも嬉しくない。今日も一日中付きまとわれて、俺を神様と断定するに至ったのだから。
明日も付きまとわれて、いや、明日は流石に無いか。というか、付きまとわれる以前に明日から夏休みか。
なら、もうこいつを考えずに平穏な日々を送れる!
最高じゃねえか。最高だぜ、本当!
一日中寝れるし、クソ暑い外に出なくて済むし、めんどくせえ先生方の話も聞かなくて良いなんて天国じゃねえか。
でも、司との契約を残したままで良いのか?
いいや、良くない。
自分を天使と自称する電波少女を生活の懸念として残すは、楽しい楽しい夏休みを台無しにする。俺とこいつの間に結ばれた契約は早いうちに解除しないと、つまり俺が神でないと証明しねえとだな。
「お前さんが今日に納得してくれたなら、俺としては何の問題もねえよ」
「うん、だから今日はここでお別れ。また新学期ね」
約一か月の勝ち逃げは許さねえぜ、司さん。
俺は振り返って、立ち去ろうとする司の肩を掴む。力は入れず、こちらに注意を向かせるために。
肩を突然掴まれた彼女は体をびくっと震わせる。そして、顔を俺に向けて阿呆な表情を見せつけてくる。
「勝ち逃げは許さねえ。だから、夏休み中に、少なくとも盆に入る前に、俺はお前に俺が神様ではないと自覚させる。つまりだ、お前さんと俺の別れはいまじゃない」
「ど、どういうこと?」
分かっている癖にわかっていないふりをしているのか、本当に分かっていないのか、どちらとも取れる戸惑いを彼女は見せる。
「つまり、夏休み中も証明してやる。俺は俺であると、俺は人間であると、俺は神じゃないと」
彼女は俺のとてつもなく青臭い言葉に、さらに目を丸くさせる。二重の驚きというべきか、想定外に想定外が重なったのか、脳と直結しているグレーの瞳は小さくなる。
驚きは言葉を消して、静けさを彼女に与える。
「そ、そっか。うん、嬉しい。ありがとう!」
「って!」
俺の宣言が余程嬉しかったらしい彼女は満面の笑みを浮かべる。そして、躊躇いなく俺の右手を両手で握りしめる。急に右手を支配した彼女の手はほんのり汗ばんでいる。なおかつ、柔らかくて、しなやかで、すべすべしている。
……あいつの手とは全然違う。
……ちきしょう。
甘酸っぱいはずのそれは葬ったはずの感覚をよみがえらせる。
不快で、不快で、仕方がない、あの感覚を。
「きゃっ」
身の毛もよだつ嫌悪から反射的彼女の手を払いのけてしまう。俺は一瞬間前まで純粋無垢な彼女の笑みを消し去ってしまった。
「ご、ごめん」
払いのけられた自身の手をもみながら、彼女は勢いよく頭を下げる。
「いや、いまのは俺が全面的に悪い。すまねえな」
「坂本がなんで謝る? いきなり手を握られたのが、不快だったから払いのけたんでしょ。だったら私が悪いよ……」
彼女は慌てふためいて俺を擁護したかと思うと、次の瞬間には目を伏せて自分を非難する。
自分の都合の良いように解釈する傾向は、向けられる悪意にも見られるのかい、司さんや。
「悪くねえさ。ああ、悪くねえよ。だから顔を上げてくれ。そして、俺と連絡先を交換してくれ。スマホくらい持ってんだろ?」
「う、うん」
「じゃあ、これLINE交換しといて」
「って、ちょ!」
覚えなくても良い後ろめたさを覚え、狼狽えている彼女は俺が投げたスマホを慌ててキャッチする。それから自分の手にスマホが収まっていることに一息吐く。
「危ないよ」
彼女は俺の乱暴な行為に非難の視線を浴びせる。
重畳重畳。
さっきまでの感情は今すぐにでも忘れちまいなよ。
俺は自己満足を隠すため、すっとぼけた調子で黒いだけの夜空を見上げる。おおよそ、わざとらしさはないはず。全部自然な言動になっているはず……。
「はい、これ」
「あーい」
少し怒っている司からスマホを受け取って、画面を見ると四人しかいなかったLINEの友達欄に司のアカウントが追加されていた。
初期アイコンで、名前は司。とてつもなく淡白なアカウントだ。
ともあれ、これで面倒な契約を解除する準備ができたな。
「そんじゃあ、俺が神様ではないという証明が欲しくなったら連絡してくれ」
「連絡してくれたら証明してくれるの?」
「可及的速やかにやるつもりだよ」
俺の感情ありきの条件を理解せず、彼女は目を輝かせる。おおよそ、眼帯で隠されている左目も等しく輝いているんだろう。
ただ、両目が輝いているにしろ、いないにしろ、彼女の反応は俺の予想を優に超えてしまっている。
「わかった! でも、証明の方法は私が考えて良い?」
「え?」
何で、お前が考えるんだ?
まあ、でも、自分で考える手間が省けるのか……。
疑問と契約にかかる労働を心の天秤にかけた時、どちらに傾くのか。
答えは簡単、後者だ。
働くのは苦痛だからな!
「良いぜ。今後はお前が考えてくれ」
「うん!」
理屈からして神と天使どちらが上かと言われれば、神だ。受胎告知もガブリエル、つまり天使が聖母マリアの下に遣わされた。おおよそ、親父である神は天国で寝ていたんだろう。だから、関係的に俺が働かないのは当然? いや、この理屈を受け入れたら逆説的に俺は神様って言っているようだ!
でも、働くのが面倒だし、考えるのも面倒だし、司は満面の笑みを浮かべてる。なら、全部司に任せよう。
「じゃあ、またいつか会おうぜ」
「うん! 連絡するよ、神様!」
「あんまり大声で神様って言わないでくれ」
人気のない住宅街に自称天使の明るい声は響き渡る。
ご近所さん、俺を誤解しないでくださいよ。
俺は少年一人救えない人間なんですから。
かくして、俺の話を聞かずにるんるん気分で歩みを躍らせる司と別れた。
その後姿は俺を辟易とさせて、溜息を吐かせる。全くもって不安な未来と今日という日に倦怠を覚える。そんな二重の疲労が蓄積された体を引きずって、俺は彼女と反対方向の帰路に就く。
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