第二十二話
過ぎ去る日々は美しく、
いつまでも浸っていたかった。
夏の日差しの中で、
貴方と共に。
朝が来て、昼が来て、夜が来る。
日々はつつがなく過ぎる。
変わったことと言えば、学校で司に絡まれるようになったくらいだ。
ギリギリの時間に登校しているのに、あいつは校門の前で俺を待っている。
昼休みになったら屋上に来る。
放課後になったら俺と来栖の待ち合わせ場所で佇んでいる。
これじゃあ司はストーカーと変わらない。
だが、司は俺との契約関係にある。
ゆえに司はストーカーじゃない。
じゃあ、なんだ?
自分のことを天使と自称する彼女の存在は俺にとって?
「ねえ、司さん。この二次関数と直線の問題の問三なんですけど……」
「この問題はね、二次関数の曲線と直線の交点座標を代入してあげて……」
「あっ! なるほど、それで三角形の面積が求まるんですね!」
「そうそう、よくできたね」
「これも司さんのおかげです」
少なくとも今は優の部屋で俺に代わって優に勉強を教えている。
現時点での関係は、俺の代役。
つまり家庭教師代理A?
「違うだろ」
優は不満そうな顔で俺を見る。その小さな背中越しに、困惑した司の顔がうかがえる。そんな彼女の後ろには、蘇芳色の空をコンパクトに収めた窓が見える。
「何がですか? というより、なんで慎一さんは司さんに任せて、自分は寝転がって本を読んでいるんですか?」
司がやりたいっていうから……。
終業式を終え、来栖家に向かっていると司もついてきた。流石の俺もストーカーもどきで、一応の雇い主である来栖を嫌悪している相手をなし崩し的に家に入れるのはよろしくないと思って『ついてくるな』と言った。
ただ、司は『神様についてまわるのが天使』とか言って、注意を聞かずに来栖家までついてきた。だから、『この家の敷居を跨ぐなら、俺の代わりに優に勉強を教えろ』と言った。来栖は『別に良いよ』とか処世術に頼り切った苦笑いを浮かべていたが、家主が許しても、役割がない人を家に招き入れるのはよろしくない。
ゆえに俺は司に選択を迫った。
そしたら、彼女は『やる!』と一言。
つまり、俺が仕事をサボっているのは司のせい!
だから、優が非難の視線を俺に送ってくるのは間違ってる!
「成り行きと契約だ」
「意味が分かりません!」
「優ちゃん、良いんだよ。かみ、いや、坂本が望んだんじゃなくて、私が望んだことだから」
そうそう、全ては司のせいだ。
うんうん、だから俺はこうしてサボれているわけだ。
新しく生まれた余暇に満足を示す小さく頷く。すると、頬を膨らませた優が立ち上がってこちらに近づいてくる。そして、勢いよく俺から文庫本を取り上げる。
「ちょいちょい、何がご不満で? 見聞きしてる限り司の教え方は上手いんだから良いじゃねえか」
「それとこれとは別です」
語気を強める優は、奪い取った本をしおりも挟まずに閉じて、道に落ちている犬の糞を見つめるように俺を見下ろす
「何が別なんだよ? 与えられるものは同じになるんだから良いだろ。あるとすれば経験の違いだけだ。俺から教えられたのか、それとも司から教えられたのかの違い。でも、結局は残るのは兄と同じ高校に通う同級生から勉強を教えてもらったという事実、それだけだ」
「はあ……」
優は完璧な理屈を唱える俺に溜息をもらす。
「どうして私は……」
頭を抱えながら、自分では誰にも聞こえていないだろうと思い込んでいる言葉を優は呟く。もっとも、『どうして私は』以降の言葉は実際に聞こえてないけど。
でも、何となく予想は出来る。
ただ、お前の心が弾き出して、お前の頭に浮かんでいる言葉は間違っている。親不孝な言葉を思い浮かべるもんじゃないぜ、優さんや。
「ともかく! ここでリラックスされると気が散ります! だから自分の勉強でもしててください!」
「ええ……」
「給料、払いませんよ」
「いや、今日は貰うつもりねえよ」
他人にさせた労働で賃金を貰うなんて鬼畜所業だぜ。
「え?」
『え?』って、優は俺を何だと思ってるんだ。
善良で知的な俺に、お前はどうして目を丸くするんだ。
「お前の中の俺はどれだけろくでもない奴なんだよ」
「人間としては結構ひどい人だと思います」
「率直に言われると中々傷つくねえ……」
純粋な心を持っていて、社会の汚れを情報として知っている優から言われると胸が痛くなる。柔和な態度で接していた自覚がある分、余計に痛む。
「まあ、でも、信用はしていますよ」
でも、率直な態度で、しかも俺の目を真っすぐと見て、自分の言葉を言ってくれると傷も治るってもんだ。誠実な態度はなによりも効くね。
自分としても酷い言葉を俺に掛けた自覚がある優は、言葉の威力に反して表情を和らげている俺に首をかしげる。
「噂を鵜呑みにせず、自分の目と耳で判断する態度。俺は好きだぜ」
「す、すきって!」
動揺するなよ。
あと、俺が言ったのはお前の態度だ。顔をほんのりと赤らめて、唇をわなわなと震わせるお前さんじゃない。
「とりあえず、勉強を続けてくれや。集中が途切れるんだったら俺は座って本を読むからさ」
「は、はあ……」
「坂本は意地が悪いんだね」
個人的には憎いやり取りを眺めていた司は、他人行儀な態度で俺たちに微笑む。果たして、自分が問題の中心だと自覚しているのだろうか。
「ああ、俺は意地悪さ。間違っても優しい人間って間違えるなよ」
「それは嘘。坂本は優しいよ」
「だまらっしゃい。良いから優に勉強を教えてやってくれ」
「ところで何の本を読んでいたの?」
二日間、司に付きまとわれて分かった。こいつは自分の世界に熱中しすぎる癖がある。だから、俺の話を聞いているのに、自分の話を優先する。そして、自分の話が満足に消化されない限り、俺の会話に付き合おうとしない。聞き分けのないガキみたいに、あるいは甘えん坊のガキみたいに。どっちにしてもガキだ。もっとも、頭は良いし、人が本当に嫌がる線を弁えている。
なんてやり辛い人間なんだ!
でも、質問には答えてやろう。好きなものを問われるなんて滅多にないからな。
「ジッドの『狭き門』。宗教的禁欲とそこに伴う恋愛を克明に記した名著さ」
「面白いの?」
「読者による」
「坂本としては?」
「面白いと思うぜ。もっとも、俺は無神論者だから主人公の持ってる宗教の価値観はさっぱりだ」
「神様に、神様の教えと崇高さを説いても、無意味だもんね」
いままでの日常会話の雰囲気をぶち壊す一言を、司は会話に挟んだ。
電波な一言に優も動揺を忘れ、ぽかんと阿呆な表情を浮かべている。けれども、優の視線に司を不審がる様子はない。『何を言っているんだろう?』という純粋な疑問だけがある。
「ああ、まあ、そう言うことで良いや」
「うん」
「それで良いんですか?」
「良いんだよ。深入りしないのが一番なの。だから、優。お勉強しようぜ」
「は、はい」
一連のやり取りの中で俺がサボっている様を忘れたらしく、優はおとなしく司の対面に座る。呆けている小さな優の背中越しに、優がシャーペンを持ったことがわかる。と言っても、本は奪われたまま机の上に置かれている。
それじゃ、ひと眠りでもしますかな。
「慎一さん」
ちぇ、思い出しやがった。
仕方がなく体を起こして、俺は司の隣に座る。勉強道具も何も持ってこなかったのが、悔やまれるぜ。
「それじゃ、ここでボケっとしてるから、わからない問題があったら聞いてくれや」
「坂本。それ、私の仕事」
ただ、右隣の司は頬を膨らませて不満を訴える。
「分業制だ。俺とお前でさ」
「……わかった」
「……」
俺はいい加減な理論で司を納得させる。
司は俺の理論でしぶしぶ納得する。
優は俺を睨みつける。
そして、時刻は十七時半を迎える。
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