第二十一話
「はあはあはあ……」
「ぜえぜえぜえ……」
俺の足から離れ、転がるボール。
名前を知らない彼も、自称天使の司も、膝に手を突いて肩で息をしている。汗が頬を伝い、ガス交換された熱い呼気が二人の肺から排出され続ける。
いい汗をかいたぜ。
「なんで俺から一回もボールを取れねえんだよ。一対二だったんだぜ?」
髪をかき上げて熱のこもる額を夜風にあてると、頭の熱が夜に消えていく。
ただ、体に籠る暑さと汗の不快感は消えて行かない。むしろ、熱帯夜は身体を包み込む不快感を強める。
「お兄ちゃんが上手すぎるんだよ……」
息を切らしながら彼は俺を見上げる。目には尊敬、態度には疑問符が宿っている。
「上手すぎる? 違うぜ。俺はリフティングしかしてねえよ」
「それにしたって上手いよ」
「なら、真似ると良いさ。もっとも、ネットで海外のサッカー選手のプレーを見た方が勉強になると思うけど。バルセロナとかのさ」
「バルセロナ?」
疲れ切って動けない彼を他所に、汗でぐっしょり濡れたワイシャツを脱いで、ブランコの座面に置いたトートバッグの中に入れる。そして、土埃のついたその座面に腰を下ろし、彼が持つ汚れ切ったサッカーボールを見つめる。
あれだけ使い古していても、彼の足元は上手くない。プレー中、彼は司と連携しなかったし。彼は足元と自分に集中していた。あと、サッカー小僧だというのにバルセロナを知らない。
まあ、これは知らなくても良いんだけど。
「キッズ。お前さん、小学何年生だ?」
「三年生……」
小三ねえ……。
なら、すべて年齢のせいとしても問題ないか。
いいや、シャツがめくれて腹部が見えそうになるたび、必死に裾を手で抑えて隠していたんだ。そして、いま、彼は汗を流れるままにしている。普通は服で、いや、品があればしないか……。
予感から目を逸らすために空を見上げると、飲み込まれそうな夜が広がっている。星は街の明かりのせいで満足に見えない。
ただ、見えなくとも夜空に星があると経験的にわかる。
「なあ、キッズ。一つ、聞いていいか?」
「なに?」
見えない夜空の星、そんな存在かもしれない彼はあどけない声を返す。
「お前、親のことは好きか?」
「……す、好きだよ」
彼は自身の親に対する好意を躊躇う。
『恥ずかしさ』ではなく、『怯え』のために。
「そうかい。それなら家に帰った方が良い」
「……」
「嫌でも帰らなきゃいけねえ。諦めるしかない。まあ、いま帰らなくても、お前を見かけた人が通報して、お巡りさんがやってきて、お前は家に帰されるけどな。でも、そいつはお前にとってよろしくない。具合の悪い話だ。だから、マシな選択をするべきだ。もっともマシな選択をさ」
俺は空を見上げながら、ペシミズムに浸って、推定を真実と断定し、馬鹿げた助言をドラマチックに語る。
ちきしょう、恥の炎で炙られる心が痛くて仕方がねえや。
「キッズ、家はどっちだ?」
「……駅の方」
「そうか。それじゃ、まだへばってる自称天使がお前のことを送ってくれるよ」
「……うん」
勝手に約束を取り付けたことに、司は驚く。
けれども、彼女は嫌がらない。彼女は驚きの後に柔らかな微笑を彼に送る。慈しみと愛が籠った天使のような笑みを。
「さて、もう二十時だ! 帰ろう!」
「……うん」
「まあ、落ち込むなって。どうせまた会えるだろうし。俺の家、近いからさ」
「そうなの!」
九歳児の男子がしてはいけない顔を偽善の言葉で俺はぬぐい取る。すると、彼は喜びと驚きの笑顔が浮かばせる。そして、玉のような汗をだらだらと流す少年は、飼い主を見つけた迷子の子犬のように俺のもとまで駆け寄ってくる。
彼の幼い情緒と熱気が、俺を締め付ける。
「ああ、だからまた来ると良いさ」
「うん! 絶対に来るよ」
「ただ、夜はNGだ。あと、家に居たくないときは図書館に行ってろ。あそこなら涼しいし、水も無料だからな。いや、水が無料かどうかは某ウィルス対策に依るけど……。まあ、とかく、図書館は快適だ。だから、駅の近くの図書館に居ると良いぜ。迎えに行ってやるからよ。というか、俺が迎えに来なかったら公園には来るな。熱中症になっちまうからな」
「図書館なら毎日来てくれるの?」
「いいや。俺にだって用事がある。だから、そいつは出来ねえ約束だ」
たった数十分の関わり合いで彼は俺に懐いてしまった。毎日会えないと言うと、肩を落とし、俯いて、明らかに落ち込んで、俺の同情を誘ってくる。
ただ、できないものはできない。
だから、とっておきの詩を教えてあげよう。何時でも希望が持てるような詩を。
「だから、代わりにいつでもお前の味方となる詩をおしえてやるよ。お前が寂しいとき、辛いとき、虚しいとき、口ずさめば勇気が湧いてくる詩をさ」
「詩?」
「そうだ。こういう詩だ」
司は俺と彼とのやり取りに慈母のような微笑を注いでくる。
恥ずかしくてたまらない。穴があったら入りたいぜ。
でも、本当に穴に入りたいのは彼だ。土埃の着いたやつれたあどけない顔の中で、純粋な目を輝かせ、俺の言葉をわくわくしながら待っている彼だ。服で汗を拭うことすら許されず、汗を流し続ける彼自身だ!
俺の恥なんて大したことがねえ。
「『曲がった男、曲がった道行き、曲がった戸の裏、曲がったコイン見つけた。曲がった鼠捕まえて、曲がった猫を買ってきて、曲がった小さな彼の家、曲がったなりに仲良く暮らした』」
「曲がった?」
「そうマザーグースの曲がった男。いま紙に書いてやるから、ちょっと待っとけよ」
彼はうろ覚えの詩を思い出しながらぽつぽつと紡ぐ。
流石は九歳の柔らかな脳みそだ、物覚えが抜群に良い。
優秀な頭脳を他所に、俺はトートバッグから答案用紙を取り出して、その余白部分をちぎる。そして、スマホを下敷きに、目を凝らして詩を丁寧な字で書く。
「優しい」
「うるせえ」
息を整え終えた司は、隣のブランコに腰をかけ、俺の必死な様をジッと見つめている。
「ほら、これ。こいつがあればどんな時だって、安心できると思うぜ」
「ありがとう!」
彼は詩の書かれた一片の紙切れを宝物ように受け取る。そして、目を凝らしながら紙切れを見て、何度も読み返す。
俺は目の前の光景に嗚咽を覚える。けれども、我慢する。彼の笑顔を壊すわけにはいかない。
「そんじゃ、帰ろうぜ。モンテ・クリスト伯爵の言葉を胸に」
恥の上塗りを止めるため、平穏な日常へと戻るために立ち上がる。俺の勢いによってブランコが微かに動く。
「伯爵?」
急に立ち上がって訳の分からないことを言った俺を、彼は首を傾げながら見上げる。
「ああ、伯爵さ! 彼はこう言ったんだ『待て、しかして希望せよ!』ってな」
「どういうこと?」
「いずれお前さんにもわかる時が来るさ。だから、いまはサッカー小僧として運動と勉強に励めよ!」
電波に犯されたような俺の言葉に彼は困惑し続けている。
だけど、少年、安心してほしい。
俺が本当に言いたいことはお前に預けた紙切れに全部書いてあるからよ。だから、俺の言葉は全て戯言だと思ってくれていい。
生暖かい夜風が住宅街から駅へ向けて通り抜ける。砂が舞う、髪がなびく、人が離れた二つのブランコが揺れる。司はグレーのリュックを背負い、彼は脇にボールを抱えている。二人も帰る準備が出来たらしい。
なら、帰ろう。
道から公園へと入ってきた場所へと戻る。そして、二人と向かい合う。彼は悲しげな顔を、司は敬愛と畏怖が混じった宗教臭い笑みを浮かべている。もっとも、直視できるのは彼だけ。
「ほんじゃあな、二人と……。いや、ちょっと待ってくれ」
「どうしたの?」
俺の制止に二人は表情を崩して戸惑う。
大切なことを二つ、思い出せて良かった。別れた後だったら、全力で追いかけなきゃならなかったからよ。
安堵の溜息を吐いて、俺は司を手招きする。俺に対する警戒心を持たない彼女は、手招きにすぐ応じて、眼前にまで近づく。警戒心の排除は配慮も排除してしまうらしい。
それにしても近い! 睫毛の本数が数えられそうだ。
限度を知らない彼女から一歩退く。
適切な距離は保たないと!
「良いか、小僧の家の玄関までは送らなくて良い。あくまで帰る時は小僧一人だ。姿は小僧だけ」
ひそひそと話す俺の声と内容に彼女は首をかしげる。ただ、いつものような二重の問いが生まれることはない。
「良く分からないけど、分かった」
司は頷く。
そして、俺から遠ざかろうとする。
「待て待て、話はまだある」
「なんの?」
「証明だよ」
お前が一番欲していたくせに、どうして首をかしげるんだ?
意味不明な彼女の言動に困惑してしまう。
ただ、彼女は困惑する俺に微笑む。俺が制止する前の敬愛と畏怖が籠った宗教的な微笑を俺に向けてくる。けれど、俺は彼女の笑みを素直に受け入れられない。だから顔を背けてしまう。
「坂本は神様だよ。いまだって人を救った。だから、神様」
「救ってなんかねえ」
「救ったよ。無限の円を観測して、坂本は始点を作った。始まりは神様、終わりは人間。だから、坂本は神様」
「なんじゃそりゃ?」
「分からなくても良いよ。でも、今日は坂本が神様だって思えた。だから、今日の証明はこれで終わり。また、明日ね」
訳が分からない神様の理論をにこやかに語ると、彼女は俺から離れた。そして、阿保面で俺たちを見ていた彼の隣に立った。
「バイバイ! お兄ちゃん!」
「じゃあな」
「明日もよろしくね。神様」
「勘弁してくれ」
わんぱくな小僧には別れの言葉を、天使様には許しの言葉を贈り、俺たちはわかれた。
途端、疲れが体をドッと重くする。
畜生、本来だったら風呂に入ってる頃なのに……。
一日に降りかかった不幸の連続。
明日も続くだろう面倒な天使様とのやり取り。
過去と未来にまたがる面倒ごとは、疲れ切った体をさらに疲れさせる。
「すまねえな。本当にすまねえよ……」
ただ、疲れ切った体にも容赦なく罪悪感がのしかかってくる。
夜風に運ばれ鼻をくすぐる汗臭さは、精神と肉体にかかる重みを証明する。
鬱憤をたっぷり込めた溜息が自然と漏れる。
「『始まりは神。終わりは人間』ねえ……」
幸福ではない円を観測したことは、不幸と言わざるを得ない。
ただ、観測は彼にとっての救済だと司は言った。
訳が分からないよ。
分からないことは語れない。語れないならそもそも知らない方が良い。だから、いまは帰って、風呂に入って、勉強して、寝ることだけを考えよう。
さあ、平坦で、普段よりも長く感じる夜道を行こう。
ご覧いただきありがとうございます。




