第二十話
十九時二十分。
世界は黒く染まって、労働は終わる。俺はいつも通り対価を受け取り、来栖家を去る。日常は普段と変わらずに過ぎていくはずだった。
「それじゃ、また後日」
「優ちゃんと来栖聡。バイバイ」
しかし、七月十九日は天津司を俺の日常に放り込み、俺と司は揃って優と来栖に別れを告げている。
「じゃ、また明日」
「またよろしくお願いします」
礼節を欠いている俺たちの別れに二人は丁寧に扱ってくれ。
こいつらが俺なんかと付き合ってくれるのか、疑問はますます深まるばかりだ。俺なんざゴブリン軍団に入るべき存在なのに。
『蛙の子は蛙だよね』
柄にもないことを考えていると、昼休みの馬鹿の声が頭に再生される。
「坂本。大丈夫?」
「うん? ああ、ちょっと牛丼を食い過ぎたせいでな、胃がちょっと」
「……」
違うだろう。メンデルの法則は人間の精神まで決定しない。人間の精神を決定するのは、個人の努力とそいつが置かれていた環境だ。ゆえに違う。俺は違うさ。
動揺している場合じゃない。
今日という一日が終わったんだから、家に帰って、復習と予習をして、風呂に入って寝る。安寧な一日を過ごすんだ。そして、一日の終わりと明日への第一歩を呪うんだ。それが俺の一日だろう?
「坂本の家ってどっち?」
「ああ、この奥だよ。住宅街の奥の方にあるアパート」
俺は何を混乱しているんだ?
冷静になれよ。
羽虫と蛾が集まる街灯に照らされた家路を指さす。司は俺の指先に視線を向けると、心配そうな顔をして見上げてくる。俺の中の混乱を見通しているかのように。
「坂本、大丈夫? やっぱり人間の体は神様と合っていない?」
「だから、俺は神様じゃねえって」
来栖家に居た時は優と仲を深めた一女子高生としか認知していなかったのに、いまは妙に苛立たしい。
いや、何を感情的になってるんだ。
馬鹿だろ、俺は。
「神様じゃないの?」
「神様じゃねえ。ただ、そいつを判断するのはお前自身だ。俺はお前に証明し続けることしかできない。例えば、いまの苛立ちだってさ」
「神様だって感情的になるよ。世界を洗った大洪水に、ソドムとゴモラ」
「……まあ、そうか」
世迷言を聞き流し、空を見上げながら、駅と反対方向の家路を歩み出す。住居の灯りと街灯のせいで、雲一つない夜空に輝いているはずの星々は見えない。深い暗闇がただ空を覆っている。
というか、あいつの言っている神様って言うのは、アブラハムの宗教の神様のことなのか。一神教、聖四文字、偶像崇拝の禁止、救世主、鳩、いずれをとっても俺と神様の間に等式は成り立たない。
じゃあ、何をもってしてあいつは俺を神様と?
形而上の存在の形而下に投影しているんだ?
天使様の頭の中になる神様理論。
奇天烈で理解不能な神様理論さえ求められれば、あとは解明し、その結果に則った行動を取れば良い。勉強と変わらない。理論の内で、定理を用いて、解を求める。必要なのは試行回数と時間だけ。時期が良いのか悪いのか、今週の金曜日で学校が終わって夏休みが来る。だから、金曜までに理論を求めれば……。
「おいおい、なんでついてきてるんだ?」
「だって、教えてくれるんでしょ?」
「時間が遅いだろ」
「関係ないよ」
別れたとずっと思ってた司は、俺が止まると同時に俺の背後で止まった。そして、アナーキーな態度を堂々と示す。社会常識から離反するのは一向にかまわないが、俺に迷惑を掛けるのはよろしくない。
「いい加減に……」
溜息とともに振り返ると、そこには光を失った少女が居た。
優と別れた時は朗らかに笑っていたのに、いまの彼女は酷く冷たい。屋上で俺に約束を結ばせたときの表情と同じだ。
「関係ない。永遠の円の中で生を享受しているんだから、夜も朝も同じ時間でしかないんだから。瞬きを気にするの?」
「永遠の円?」
「そう、観測しなければ円は無限。始点も無ければ終点もない」
そして、冷たい表情を作ると決まって世迷言を言い始める。
「……訳が分からねえ」
「分からなくても良いよ。けど、証明はしてよ、神様。私は約束を守ったよ?」
確かに俺との約束をこいつは守ってくれた。来栖と嫌々ながら会話をしたし、俺のアルバイトを邪魔しなかった。
でも、だからっていま証明をしろって?
司は僕と言いながら我が儘を振りかざしてくる。俺は『ノー』と拒絶したいが、有無を言わせない光を失った目が、俺の意思を消失させる。司の我が儘を聞かなければならないと、神ではない証明をしなければならないと。
熱帯夜の暑さによる汗ではない汗が頬を伝う。
明らかに俺よりも脆い少女の見えざる手が、俺の首を絞めつける。息苦しくて、いますぐ逃げ出したい。けれど、こいつは逃亡を許してくれない。
「ああ、わかったよ。わかりましたよ。それじゃ、神様じゃない証明をしてみせますよ」
「本当!?」
ただ、俺が我が儘を了承すると司の見えざる手は俺の首から離れる。緊張と戦慄から解放される代わりに、疲労感がどっとやってくる。そして、俺の疲労を知ってか知らず、司は飛び跳ねて喜んでいる。
無邪気。
無垢。
けど、恐ろしい……。
「とりあえず行こうぜ」
「うん!」
「やりずれえ……」
満面の笑みを浮かべながら司は俺の隣を歩く。
恐れをなして啖呵を切ったのは良いけど、神ではない証明をするって何をするんだ?
まあ、いいや、家に着く前には考えつくだろ。
「そういえば、なんで眼帯してるんだ?」
「これ?」
司の美少女以外の特徴で最も目立つ左目の眼帯。白いガーゼのそれを指し示しながら、彼女は首をかしげる。
「左目は神様がくれた特別な目だから」
寂しげに肩を落とし、司は懐かしむように言葉を紡ぐ。
「世俗で汚しちゃならないと」
「流石は神様!」
「……でも、俺はてめえに目玉をやった覚えはねえよ」
「……違う神様だよ」
違う神って。
じゃあ、こいつの神様理論は一神教の神じゃねえのかよ。
「でも、神様と同じ神様」
俯いていた司は顔を上げて、朗らかな笑みを浮かべる。ただ、理論が論理に則っているのか、分からない言葉は明晰な俺の頭脳を困惑させる。おかげ様で苦笑いを浮かべる他ない。
何度目の苦笑いで、俺は何度こいつに気を遣ったんだ?
傍若無人が俺のアイデンティティじゃ?
疑問は疑問を呼んで疑問を深める。
「堂々巡りなんざ、御免被るぜ」
「どういうこと?」
「いや、お前さんが気にすることじゃねえ。こいつは俺個人の? 違うな、前言撤回だ。俺とお前を含めた問題だ。けど、俺個人でも解決できる」
「全能だから?」
「思索できるからだよ」
都合の良い解釈を許す問答を止めるために、言葉をあえて端折る。ただ、司は満足そうに俺を見上げている。
「カッコいい言い回しだね」
「逆だ。カッコ悪いんだよ」
やっぱり、こいつは中二病をこじらせてらっしゃる。
俺の物言いなんざ、衒学的でしかないのに。
とはいえ、狂気? を孕んでいた彼女が朗らかで柔和な表情を浮かべているのであれば、安心だ。心の平穏が一番だ。
平静を無駄な会話の中で取り戻すと、体は自宅へ向かって自然と前進する。一刻も早くこいつと別れて、家に帰りたいと本能が喚き声をあげている。ゆえに歩みは早まる。ただし、後ろに着いてくる司の歩みもまた同じく早まる。
走ってしまえば、こいつのことを置いてきぼりに出来るだろう。
でも、走らない。
だって、汗をかくのが嫌だから!
おかげさまで、普段よりも早く、来栖家とアパートとの中間地点であるゴブリン軍団と出くわした公園に到達する。心もとない街灯の明かりは暗闇を微かに払いのけている。
暗がりを前にすると本能的に恐怖を覚える。そして、恐怖はまだ神様ではないと証明する方法を何も考えていなかった事実を俺に突き付けてくる。放り投げた面倒ごとは、俺の足に絡みついて歩みを止めさせる。
やべえ、どうしよう?
立ち止まった俺に続いて彼女もまた歩みを止める。同じようなリズムを奏でていた靴音も、乾いた土の匂いの中に消えていく。
「いきなり止まってどうしたの?」
「いや、まあ……」
背後から聞こえてくる疑問符に俺は言い淀む。
そして、公園から転がってきたボロボロの青いサッカーボールに幸運を覚える。
「サッカーボールがあったからよ。ついな……」
「サッカーボール? どうしてこんなところに……」
司は背後から覗き込むように、俺が指さすサッカーボールを見る。
どうしてこんなもんが? ついさっきまで蹴られていたような真新しい土の跡があるし。まさか、公園に潜む幽霊が夜な夜なサッカーを!?
自称天使様なら幽霊を引き寄せる力があるのかもしれないしな。
「いや、なんでボールが転がってくるんだよ、十九時だぜ?」
オカルト思考に飲まれる前に現実を見つめよう。
サッカーボールについている足の痕跡から察するに、ボールを蹴っていた力は強くない。土は『ベタっ』て感じではなく、『ふんわり』って感じで付着している。敷地が遊具で占められているような小さな公園だから、当たり前かもしれない。
ただ……。
「足跡、小さいね」
俺の右隣に来た司は腰をかがめてボールに残る小さな跡を指さす。
「ああ、ガキの足跡だ」
可愛らしいガキの足跡。
そして、導き出されるのは。
「それ、僕のボール」
「……そうかい」
明晰な頭脳が解を弾き出した瞬間、公園から男の子がひょっこり現れる。ぼさぼさの髪、やつれた頬、着尽くされて汚れた真ん中にスーパーカーがプリントされた赤い半袖のシャツに裾がほつれた緑の半ズボン、汚れ切ってほとんど靴底が残っていない蛍光色のスニーカー、そして線が細く、背は俺の腰より少し高いくらいで男子にしては小さい。微かな異臭を漂わせる特徴的な男の子が、俺と司が注目していた青いボールを求めて公園から現れた。
縁起でもねえ、いつかの幽霊みたいだぜ。
認識のベクトルの方向が曖昧なまま、俺はボールを拾い上げ、幽霊少年にボールを投げ渡す。急に投げられたボールに彼はワッと驚きながらも、見事にキャッチする。そして、虐めぬかれた捨て犬の怯えた目で、俺と司に視線を送ってくる。
「お前さん、夜なんだから家に帰れよ」
「……ごめんなさい」
「謝らなくて良いさ。暑いし、不審者が出るかもしれねえし、早いこと家に帰りな」
「……ごめんなさい」
怯える彼は、俺が唱える一般常識に声を震わせながら謝る。そして、決して俺の目を見ない。足元を見て、右腕の二の腕を左手ギュッと掴んでいる。
「どうしてお家に帰れないの? もしかしてお家に悪魔が居るの?」
「あ、悪魔?」
ただ、男の子は腰をかがめて自分と視線を合わせてきた眼帯少女の電波発言に目を丸くさせる。
「そいつの世迷言は聞かなくて良いさ」
俺が世迷言だと切り捨てると、司は俺に顔を向ける。頬を膨らませ、不満を訴えてくる顔を。
「世迷言じゃないよ。悪魔は人にだって、動物にだって憑りつくんだよ。そして、誘惑して堕落させるんだよ」
「やっぱりセム系の一神教じゃねえか」
「等式はいつだって成り立つよ?」
まあ、いいや。
こいつと喋っていると頭がおかしくなる。
いまの問題は、目を丸くして俺たちを見つめている彼だ。ただ、彼もまた天使様と同じように堂々巡りの押し問答しかしてくれない。
俺たちに怯えるのは理解できる。小学生? から見れば中学生ですら大人に見えるんだから。
とはいえ、質問に対し、反射的に謝罪し続けるのはおかしい気がする。ガキであれば怒られたとき反論したり、泣きじゃくったり、あるいはこいつのように自分の悪さを認めて謝ったりする。
けど、こいつにはどの反応もない。謝っているけど、それも問題から視線を逸らすその場しのぎの謝罪だ。いじけるわけでも、心の底か反省するわけでもなく、自分の身に降りかかるだろう問題から逃れるためだけの……。
……馬鹿か、俺は。
何を勘違いしているんだ?
「まあ、いいや、俺たちは……」
言葉が詰まる。
俺は家に帰りたいんだ。いや、帰る前に俺が神様ではない証明の方法を考えなきゃならねえか。ともかく、俺は忙しいはずなんだ。
だから、『俺たちは帰るぜ』って言葉にすればいい。
だのに、声帯は震えない。
俺は、俺と司を見上げるガキの視線に囚われている。汗と土ぼこりに塗れたガキの視線に。
「坂本?」
「ああ、ちきしょう……」
彼と彼女の眼差しは、俺の欲求に則した行動に歪みを与える。
「おい、キッズ」
「……ごめんなさい」
純朴な瞳をしている彼は、俺の言葉に怯える。司は俺の語気を非難するように目を尖らせる。
「ああ、いや、謝らなくて良い。ちょっと言葉が強すぎた。すまねえな」
「……」
溝の澱みの中で光るガラス片のような目を丸くした彼は、俺の言葉に沈黙を返す。驚きの中で言葉を失う彼を司は心配する。
「とりあえず、なんだ、サッカーでもするか」
「え?」
「まあ、いいから、とにかくサッカーするぞ! 目指せ、リオネル・メッシ!」
汗で濡れている触り心地の悪い彼の背中を押して、俺と彼は公園に入る。誰も居ない暗がりの孤独な公園に。
『汗をかきたくないんじゃ?』
心にそう問いかける。
俺の答えは『例外もある』だ。
というか、司は?
「お前さんも来いよ。球くらい蹴れるだろ?」
公園の入り口で立ち止まっている司を手招きする。
さっきまで俺について回っていたのによ、そいつはねえぜ。やるんだったら徹頭徹尾やり通さねえと。
「う、うん」
何をもってしてあいつは立ち止まり、言い淀んだのか。暗がりのせいで表情は見えないし、たった一言で感情は汲み取れない。顔が明瞭に見える頃には表情を作るだろうし。
視線を推察できる材料から暗がりの公園と、左隣の彼に向ける。
「それじゃ、やろうぜ」
「は、はい!」
「ちょっと待ってよー」
彼の妙に大人っぽい返事と間延びした司のクレーム。
駆け寄ってきた彼女に荷物を預け、ブランコの座面に置かせるよう指示した。表情は用通り作られた困り顔だ。
一体何が彼女を躊躇わせたのか。
こんな疑問、いまは置いておこう。
さあ、キックオフ!
夜のボール遊びがいま始まる!
ご覧いただきありがとうございます。




