第二話
あれは地球儀、あれは世界地図、デカいコンパス、そして頭に焼き付いて離れないのはさっきの少女A……。
記憶以外はどれもこれも年代物だ。逐次購入されているはずの図書室の本さえ、年季が入ってるから学校の備品も年季が入ってて然るべきだな。
流石、県立湊高校。
いや、この高校に限らず県立高校なんてそんなもんか。だとしても、ソ連と東ドイツ、ユーゴスラヴィアが載ってる世界地図は処分した方が良いと思いますぜ。今年の教科書が入ってる棚も埃かぶってるし。
「おい! 坂本、真面目に話を聞いてるのか!」
「聞いてますよ、聞いてます……」
冗談はさておき、見事にサボりはばれてしまった。
サボりは義務の放棄。
つまり後に待っているのは、四十代中盤の担任教師からお説教。椅子に座りながら実のないことを並べ立てる先生からのありがたいお説教だ。
言われるうちが花というように説教はありがたい。だが、俺の耳に先生の言葉は定着してくれない。
さて、このお手本のような先生のバーコードヘアーは、果たしてストレスのせいなんだろうか。それとも、クーラーの利いた社会科準備室で、ハンプティダンプティのような体型に現れているだらけた生活を送っているせいなのか……。
「えーと、だから、あれですよね、授業をサボったのはいかなる理由かっていう、そういう話ですよね?」
予測は前者。
そして、ストレスを生み出している主たる要因を俺なんだろう。
指示を聞かず、カリキュラムに反した行動をとる生徒を受け持っているのは本当に辛いと思う。俺だって先生の立場になったら辛い。手が出る自信がある。
でも、昼休みを返上し、授業準備や事務作業に追われている他の先生方を考慮せず、怒鳴り散らすような真似は絶対にしない。俺は相手の迷惑を考えられないような自堕落な人間じゃないですぜ。
「ああ、そうだ。よくわかってるじゃないか。いや、よくわかっている訳じゃないな。これで十八回目だぞ! 何度やったら気が済むんだ!」
「いやー、何回やったら気が済むんでしょうね。俺もわかりませんぜ」
「ふざけるのも大概にしろ!」
『ふざけてるわけじゃないんです。授業が退屈過ぎるんです』。
なんて言っても、火に油を注ぐだけだ。
いま必要なことは、話を纏め、会話を切り上げ、教室に戻って寝ること。
「はあ……、これだから坂本、お前みたいな奴は嫌なんだ」
ハンプティダンプティ先生は課題プリントが積まれたデスクの片隅に頬杖を突いて、失望の視線を俺に向ける。ついさっきまでの血走っていた目は、倦怠に落ち着き、黄ばんで濁っている。
「お前みたいな奴というと?」
「家庭環境が滅茶苦茶な奴のことだよ。そういった奴は大概けしからん。これもそれもお前らの父親、母親が馬鹿で世間知らずのせいだ。いいか、家庭教育のしわ寄せは俺たちに来るんだ。真っ当な教育の現場にな」
「……」
言わねえのが花だと思いますぜ、先生。
思ってても、いくら怒りに駆られてても、そいつは言っちゃいけねえ。
ほら、話を耳にしている他の先生たちを見てくださいよ。
すっかりひいちゃってる。
後先考えず、感情に流されて発言するからですよ。
「先生……」
「なんだ、ろくでなし?」
「いまのご時世、思ってることをそのまま言うのは、止した方が良いですよ。言葉は魔力を持ってますからね。先生の世間的な評価を上げたり、下げたりする不思議な力を。だから、直情的にならず、深く考えてから言葉を発すると良いですよ」
自分の発言のラディカルさに気付けていない先生は、疑り深く俺を睨みつける。太っちょな身体に、その醜い顔の造形はよく似合ってますぜ。
ひたすらに愚鈍な先生に現状を伝えるため、優しい俺は息を吸い込む。
大声を出すには肺に息を、心に強さを。
「ねえ、他の先生方!?」
かくして俺は他の教育者に大声で呼びかける。
封鎖された学校という社会でのみ評価される素晴らしい大人たちに。
「なっ!?」
ハンプティダンプティ先生は、自分の立場をようやく理解したようだ。
ただ、塀から落ちかけていることに気付けていない。
もっとも、これを教えるのは俺の仕事じゃない。先生方の仕事だ。だから、その仕事と他の仕事の邪魔しないように、俺は颯爽と立ち去ろう!
身を翻して、扉を開け、第一歩!
「ではでは、俺はこれで」
「待て! まだ、終わってないぞ!」
「確かに終わってないですけど、終わりにした方が弁明に時間をつかえますよ。時間が経てば経つほど誤解ってやつは深まりますからね。俺は別に気しちゃいないですし、聡明な先生がそんなことを口走る人だとも思ってません。だから、そう、誤解を解くための時間があってもいいと思うんですよ」
生意気極まった小僧の発言が、先生の表情をどんな風に変えたのかは分からない。
でも、これは先生の名誉を守るための発言だから憤らないで欲しい。俺は本当に先生を思ってるんだから。
「まっ、まあ、そうだな。お前みたいな優秀で物分かりが良い生徒が保証してくれるんだから間違いない」
「いえ、俺なんて所詮は点数しか取れないカスですから気にしねえでください」
「いや、決してそんなことはないぞ! お前は優秀な生徒だ」
「ありがたいお言葉をどうもありがとうございます」
言いたくもない言葉を口にするって言うのは中々なストレスだ。産まれてから慣れ親しんだ髪が、三十代辺りで寂しくなるのも納得できる。きっと、このやり取りで俺の毛根もいくらか死んじまったはずだ。
でも、教室に帰って、寝て、リフレッシュすれば復活するはず。
「じゃあ、俺はこれで」
「ご、午後の授業は受けるんだぞ!」
「先生の名誉に誓って受けますよ」
他の先生の呼び止める声が後ろから聞こえる。
けど、残念。
呼びかけに止まるほど意志薄弱な人間ではない。あと、耳障りな音に耳を傾け続けられるイエスや聖徳太子ほど殊勝な人間じゃない。
ごく一般的な感性にしたがって、背後の静止を無視する。そして、扉を閉め、薄暗くてほんのり涼しい廊下を行く。
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