第十二話
ひんやりとした教室は、熱にやられた体を癒してくれる。騒々しさもおとといの出来事を忘れさてくれるようで心地が良い。平穏なる日常こそが安寧を享受できる最も貴いもんだな。
そんな安らかなる空間と時間は人間の頬を自然と緩ませる。
「おはよう。昨日は酷い様だったけど、今日は少しマシになったみたいだね」
「昨日も今日もかわらねえよ。怪我が一つしてねえんだからよ」
憎たらしいほど爽やかな来栖は、俺の悪態をクスクスと笑う。そして、隣の自席に着くや否や頬杖をついて辛気臭い溜息を吐く。表情の変化が豊かなことで。
「本当によかったよ。昨日の調子だったら優と会わせられなかったからね」
どうやら溜息の正体は安堵だったらしい。
はて、昨日の俺はそんなにひどい調子だったのかしら?
平常運転のつもりだったんだけどな。ゴブリンAに『真面目になれ』と言って、自分がやらないのは示しがつかないから、授業も全部出て全部寝たし、寄り道せずに帰って高二の予習と高一の復習をやって、〇時前には床に就いたし、万事は日常通りだったと思うぜ。
とはいえ、名は体を示す聡い来栖が言っているんだから、間違ないんだろう。
主体は主体を捉えられないのは理だしな。
「お前がそう言うくらいだからよっぽど酷かったんだろうな」
「まあね。正直、荒んでたよ。目はギラギラしていたし、ずっと体は強張ってるしさ」
「そいつは恐ろしいな。まるでアル中だ」
「実際に見たことあるの?」
ああ、もちろん見たことあるさ。
そんな場を凍らせるようなことを言う必要はない。
朝日が差し込む爽やかな教室という空間に、穏やかな微笑とともに疑問を投げかけてくる来栖、平穏な二つを台無しにするわけにはいかないからな。
「ねえよ。比喩ってやつさ」
「そっか。ところで慎一、おととい言ってた天津さんだけど……」
来栖が何か言おうとした瞬間、始業のチャイムが鳴る。
そして、チャイムとともに我がハンプティダンプティ先生が教室に入ってきて、うるさい音が鳴り終わった瞬間、教壇に立つ。
太っちょの体とだらしない顔立ちのせいで、威厳も何もないけれど、一応先生が来て、教壇に立ったということで、日直が号令をかける。やる気のない俺たちの間延びする挨拶に対し、先生もまたやる気のない適当な返事をする。
だから、尊敬されないんだよ。
おおよそ、誰からも。
尊敬されるべきでない人の話から目と耳を逸らして、海を見つめる。穏やかな波のまにまに、飛沫は輝いている。その下にはきっとタコでも住んでいるんだろう。人間が海に落としていった貴金属を集めて、綺麗なお庭をつくってるんだろう。
「……慎一」
ビートルズの曲を頭の中で記憶を頼りに再生していると、ばつの悪い顔をした来栖が、右腕を突っついてきた。どうやら、俺の知らないところでハンプティダンプティ先生は俺を呼んでいたらしい。
「坂本、西高の先生から連絡があった。お前、またやったんだな」
不幸な先生、いや、卑しくて貧しい幸福しか獲得し得ない先生は俺に冷笑を浴びせる。他の生徒の目には、もしかしたらそれが親切として映っているのかもしれない。
つまり、暴力騒ぎを起こした生徒をなだめる教師Aって風に。
「まあ、はい。それで、なんかあるんですか?」
「昼休みに社会科の職員室に来い」
「えぇ……」
俺の態度を反抗的だと捉えた先生は、ギロリとこちらを睨みつける。
情けねえぜ、先生。
俺に対する二三言の嫌味を結びとして、ショートホームルームは終わりを告げた。ちなみに教室の空気と言えば最悪で、親愛なるクラスメイト達はちらちらと嫌悪と慄きの視線を送ってくる。
さて、どうすっかなあ……。
「慎一。あれ、君の正当防衛じゃなかったの?」
クラスメイトの視線を気にしながら来栖はそっと囁く。
「防衛の曲解なんて、誰でもできる。あと、防衛手段としての暴力を成立させるなら、日ごろの態度が必要だ。模範囚と他の囚人、労働者と労働忌避者、そいつらが対等な権利を主張できるのは甚だおかしいからよ」
「けど、それじゃあ……」
『お前さんには関係ない』と言って突き放すこともできる。
けれど、唯一の友人らしい友人に素っ気ない態度は取れない。
ただ、来栖の名誉のためにも、来栖のメンタルのためにも、会話はここで打ち止めだ。
少し恥ずかしいけど、自分の唇に人差し指をあてがう。そして、何かを紡ごうとする来栖の右肩を二三回ポンポンと叩く。すると、ジェスチャーの意図をバッチリ受け取った来栖は、意地悪な笑みを浮かべる。
余計なお世話だよ、馬鹿野郎。
「そういうわけだ。だから、俺はせめてもの反抗としてサボるさ」
「正直になればいいのに」
「気付いている奴の前で、それを言葉にするほど俺の言葉は安くねえよ。それじゃ、またそのうち会おうぜ」
野郎はクスクスと笑いながら、自席から離れる俺を見送る。苛立たしいはずのそれも、一歩、また一歩と歩むたびに教室中から送られてくる視線の中では心の支えになってくれる。
本当にありがたいよ。
まあ口には絶対、出さないけど。
かくして一匹狼は友人を守るため、教室から廊下へと出る。
まず間違いなくおっさんは屋上にいるだろうからそこに行きますかな。というか、始業時間はとっくに過ぎてるのに、おっさんはどうしてこの時間に油を売れてんだ? 毎日、サボっていればすぐバレるだろうに……。
まあ、考えても仕方がねえか。
おっさんのサボり癖にほんのりと世話を焼きながら、人の多い廊下を行く。
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