(2)
全ての始まりは篠ノ井家の顧問弁護士である磯村からの電話だった。
『誠一さんのお子さんが見つかりました』
皐月としては「ああ、そう」な案件。いままであの兄に私生児がいないことの方が不思議だったから。
『ご当主様たちはお孫様を家に迎えたいと仰っております』
「そりゃあ、そうだろう。あの兄の子どもだからな」
『皐月さんに交渉を頼む、とのことです』
磯村の言葉に皐月は「なんで俺が?」と思ったが口にはしなかった。すぐに「俺しかいないな」と察して理解したからだった。自分の意見が通らないとすぐに癇癪を起こす両親は問題外、姉の優花は他家に嫁いだから篠ノ井のいざこざには巻き込めない。
「俺だけ、だな」
『皐月さんだけです』
皐月の頭に「あんたの一生はあいつの汚物の片付けなのよ」という優花の言葉が浮かんだ。
◇
「帰れ! あんたたちに日向は渡さないわよ!」
ただし、皐月に連絡がきたのは母親がやらかしたあとだった。『クソババア』の掛け声とともにバケツいっぱいの水がぶっかけられ、続く『クソババア』でコンビニのおにぎりより大きな塩の塊をぶつけられた。思い返してもひどい仕打ちだと思うが、あの母のあとでは仕方がないと毎回納得してしまっている。
「母が大変申しわけなかった」
皐月の交渉はまず謝罪から始まった。出だしは悪い。しかし皐月は己の家族のことをよく分かっていた。擁護できる点は一切ない。
結局その日は謝罪だけ。「こんなことになると思いまして」と車で迎えにきた磯村を睨んで終わった。
「先日は娘が申しわけないことをしまして。私に似て気が強くて喧嘩っ早いのが玉にキズでしてね」
二回目の皐月の訪問は相手、水をぶっかけてきた美月の父・辰治の丁寧な謝罪から始まった。思い返してもあの温和な辰治のどこにも『気の強さ』や『喧嘩っ早さ』は見当たらない。
「日向の親権は渡せないけれど、君が日向の叔父さんとして交流することには賛成するよ。人生何があるか分からない。日向の保険は多いほうがいい……美月」
父親に名前を呼ばれた美月は姿勢を正し、「話も聞かずに水をかけてごめんなさい」と謝った。初回は水爆と滴ってくる水が邪魔でしっかり見えなかった美月だが、きれいな女だと皐月は思った。
(顔がいいって得だよな。不貞腐れた表情も絵になるというか、むしろ人形めいた顔に感情が宿って愛嬌みたいのが加わって可愛くなる)
皐月は辰治の言葉に甘えることにした。
まずは日向と交流し、日向がどうしたいのか探ることに決めた。日向との交流には美月も同伴することになった。日向がそれを望んだこともあったが、皐月も小さな子どもとの交流をしたことがなかったため美月の同伴の申し出はありがたかった。
むしろ美人と交流できてラッキーくらいの気持ちもあったが、その頃の美月は皐月を蛇蝎のごとく嫌っていた。
皐月とてあの姉を見てきた。女に二面性があることなど知っていた。しかし美月は阿修羅像張りの三面持ちだった。正面を向いた表情が人形のような無表情で、日向に向けるのは慈愛に満ちた優しい聖母の顔で、皐月に向けるのは敵意むき出しの怒れる鬼女の顔だった。
(あの鬼女の面が好ましかった俺はきっと変なのだ)
◇
篠ノ井家直系の皐月は常に人に囲まれ、誰もが皐月に好意的であったが皐月は彼らが裏で自分のことを嘲笑していることに気づいていた。あんな父親で可哀そう。あんな母親で可哀そう。あんな兄をもって大変ね。そればかり。
「好きです」と言われても、その裏の顔は分かっている。誠一さんよりマシ。誠一さんは無理だから妥協しよう。家族はやばいけど金はある。そんなとこ。
そんな周りに対して素の自分を出すなんて馬鹿げている。それを悟った皐月は『周りの悪意にも思惑にも気づかない鈍感なゲームヲタク』を演じた。あの兄の弟っぽくないと笑われたが、皐月にとっては褒め言葉。
放っておいてくれる人はそのままに、御しやすいと自分に近づいてくる者だけ対応。人間付き合いは激減し、これは楽だと味をしめた。ついでにゲームもやってみたら楽しくて一石二鳥だった。
思春期になって異性に興味はもったものの反面教師がたくさんいる篠ノ井家。外見だけ整えた女性は母親と同じに見えるし、割り切って遊ぶにしてもあの父親と兄と同じ人種に成り下がる気がした。
結局、お試しと社会勉強という感覚で先輩相手に初体験をして童貞ではないもの、あんなののなにがいいのだろうかと皐月は冷めた思いに至る。
同級生たちが楽しそうに語る視覚的興奮も恋愛のドキドキも分からない。ゲームを通じて知り合った者たちからは男の理想を詰め込んだエロゲーの魅力を語られたてやってみたがいまいち。
10代男子にしては枯れていたからか、同級生、先輩、先生、ゲーム仲間と、父親と兄以外の男という男にこぞって「大丈夫か?」と皐月は心配された。
そんな風に薄口で生きてきた皐月にとって、例え『嫌い』という感情であっても感情を隠さず心を無防備に晒す美月は新鮮な存在だった。
新鮮過ぎて、最初は演技だと思ったほど。
男女によくある駆け引きの一つで、嫌うふりをして興味を引いているのかとも思った。恋愛シュミレーションゲームの影響に違いない。
「日向を奪っていく人を、嫌い以外にどう思えと?」
美月の軽蔑した副音声は、『日和った脳内お花畑な気ちがい野郎』と言っていた。皐月は恥じた。
皐月は美月と辰治は何も分かっていないのだと、このままずっと日向のそばにいられると思っているのだと皐月は誤解していた。
美月も辰治も、いずれ日向の親権は篠ノ井の奪われることを分かっていた。
日向自身がそれを拒んでも、日向の親権は叔母よりも祖父母のほうに優先権がある。それが日本の法律。篠ノ井家の裏が分かれば子どもを養育するのに相応しい環境ではないと分かるが、表向きは瑕疵のない家なのだ。
「みっちゃんとずっと一緒にいたいけれど、仕方がないよね」
美月と辰治だけでなく、それを日向もちゃんと理解していた。美月と辰治はちゃんと理解させていた。恐らく辰治の癌が見つかってから。辰治の癌は彼の体のあちこちを蝕み、皐月が会いにいった時点で余命一年と彼は申告されていた。
だから辰治は皐月を受け入れた。
篠ノ井に引き取られたあと、皐月が日向の保険になるように。皐月が日向と交流する時間は、日向と美月にとっていずれくる別れのときまでの準備期間だった。
そんな神聖な時間を、自分の気を引くための策略かと穿った見方をした皐月。己の馬鹿さ加減を恥じたが、言ってしまったものは取り返しがつかない。
ぎりぎりの、辛うじて均衡を保っていた美月の精神を逆なでした皐月に日向は溜め息を吐いた。当時の日向は小学生だったが、人生何回目だろうってくらい深いため息だった。
「叔父さんは一回誰かに真剣に、マジで、徹底的に怒られたほうがいいと思う」
そう言われ、日向は先に帰ると宣言して去っていき、皐月は美月と二人きりになった。そして、「どうしよう」と思う間もなく皐月は右頬に鋭い痛みを感じた。平手打ちされたと気づいたが何も言えなかった。
「この悪魔! 殺してやりたい! お父さんが死んじゃうたけでもつらいのに、日向も奪っていくなんて!」
感情を爆発させた美月は美しく、脆く儚げだった。
「何もできない気持ちがあんたに分かる? わかんないでしょ? 私の気持ちも、日向の気持ちも、あんたは何もわかってない。日向は泣かずに頑張ってるんだよ。まだ小学生なのに……だから私も頑張らなくちゃって思っているのに……」
「ごめん!」
飛び出た謝罪は、皐月が初めて心から感じた謝罪の気持ちから出てきたものだが……。
「許さない!」
謝罪は秒で却下されたのだったが、こうなると皐月の知っている社交のマナー的なものは吹っ飛んで、美月への謝罪に何をしたらいいかと焦っていたら、マンガやアニメで聞きかじった情報が脳内に雪崩込み……。
「気がすむまで俺を殴れ!」
懐かしアニメのワンシーンのような言葉が飛び出た。言った皐月もあれだが、それに対する美月の反応もあれだった。
「それは、どうも、ありがとう」
じゃりっと砂利を踏む音がしたと思うと同時に腹部に衝撃が走る。体の中の空気が逆流し、反射的に体を折ると顎に思いきり拳が打ちつけられた。
ここは平手打ちとか、可愛らしく「ばか……」と言うところではないかと恋愛シュミレーションにありがちな設定を思いながら、想定外な攻撃に膝をついた皐月が見たのは――。
「日向は絶対に取り返すから。どんな手を使ってでも。日向は私の大切な家族だもの』
自分を睨みつけながら、大粒の涙をボロボロと零す美月。その猛々しい瞳に、流れる透明の涙に、皐月の心は鷲掴みにされた。
この女が欲しい。
そして、この女に欲しいと言わせたい。
皐月の本能が初めて吼える。琴線に触れるなんてかわいいレベルではない。
この熱く潤む目に自分だけが映れたら、そんな想像に皐月は欲情した。これまで女性になにも感じなかったのが嘘のように、背中を駆け上がる熱に皐月は――。
「俺と結婚してくれ!」
「バカにするな!」
衝動のままにしたプロポーズは左頬への裏拳と共に断られた。
しかし、これで完全にネジが飛んだ。
秒でふられた皐月だったが、『これ以上落ちるところはない』という謎のポジティブ思考で美月に猛アタックを開始した。
日向と辰治は皐月の味方だった。
『裏切り者』と嘆く美月だったが美月もバカじゃない。全ては一人にしてしまう美月のことを思って。
思い返せば皐月の20代半ばは、時間を作っては美月たちに会いにいき、美月を見るたびに「好き」とか「愛している」と叫んでいた。
(若いってすごいなぁ)
ゴリ押しが効いたのか、美月は「好き」も「愛している」も受け入れなかったけど彼氏と彼女になることは受け入れた。
美月が諦めの表情を作っていたから、皐月は美月の顔に安堵があったことには気づかないふりをして、「よろしく」と皐月は美月にキスをした。
拒まれなかったから、調子に乗って舌をいれたら引っ叩かれた。
「初心者相手になにしてくれてんのよ!」
羞恥と怒りで顔を赤くしながらの美月のカミングアウトに皐月は笑い、もう一回キスをした。
皐月は浮かれきっていた。
初めての恋愛に浮足立っていた。
だから父親が突然命じた仕事を不思議に思わなかった。
ある国の政治中枢に関わる仕事だから。守秘義務があるから篠ノ井の者にしか任せられないから。
そんな理由を疑わず、プロジェクト完了まで外部と連絡がとれなくなるという仕事を引き受けた。
不思議に思うどころか、『押してばかりは脳なし。たまには引こう』という恋愛シュミレーションゲームの言葉を試してみるかなんて思っていた。
しばらく連絡できなくなることを美月に説明し、『またな』と言った皐月に『別に連絡できなくても寂しくないし』なんて応えた美月を、皐月はこれがツンデレかとも感慨深く噛み締めながら皐月は日本をたった。
皐月はいまも、あのときの能天気な自分を殺してやりたいと思っている。
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