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〔ライト〕な短編シリーズ

なぜ日本には激辛料理が存在しなかったのか

作者: ウナム立早


 激辛料理というのは、人によって好き嫌いの激しいジャンルでありながらも、日本で確かな市民権を得ているジャンルの一つだ。


 1980年代に激辛ブームというものが発生してから、日本人の舌は徐々に辛さへの耐性を獲得し始めた。今や世界各国ほとんどの激辛料理を国内で堪能することができ、辛さをウリにしたスナック菓子はスーパーの棚にも、コンビニの棚にも、必ず一つは置いてあるような状況である。


 ところが、このように定着するまでの間は、日本には辛さをメインとした料理が存在していなかったのだ。


 食料保存のために香辛料をあまり使う必要がなかったから、他のアジア諸国と比べて気候が穏やかであったから――その理由には諸説あるが、今回は江戸時代のとある農村のお話と一緒に、私独自の考察をしてみようと思う。



********



 ここ、雲名うんな村は、西日本の平野部に位置する集落である。さほどの広さではないものの、穏やかな気候と豊かな水源をもち、獣たちの住処である山々からも適度な距離がある場所であったから、稲作が盛んに行われていた。


 そんな雲名村ではあるが、ここ数年は様々な天災によって不作が続いていた。


 この地域一体を治めている代官の立川たちがわ克右衛門かつえもんも、例年の年貢をほとんどまかなっている雲名村の不作に頭を悩ませていた。


「ええい、また不作か。今年も3割程度の年貢しか納められぬとは」

「冷夏や嵐のみならず、今年は虫害まで蔓延はびこっております。3割の年貢が納められただけでも上々ではないかと」


 克右衛門の屋敷には、村の指導者である庄屋しょうやが招かれていて、収穫された作物の配分について話し合っていた。


「庄屋よ、いくら天の御沙汰に文句はつけれぬと言えども、こう何年も続くと唾でも吐きかけたくなるものだな」

「へえ、全く同感にございます。それはそうと、代官様はやけに疲れているように見えますが」

「む、それは……このところ食が進まぬだけだ。気にせずともよい」


 庄屋が指摘したとおり、克右衛門の顔はまるで痩せた大地のようにくすんだ顔色をしていた。それも無理のないことで、度重なる年貢減免の申し出を領主が看過するはずもなく、代官である克右衛門の俸禄ほうろくは減る一方であった。当然その影響は日々の食事にもおよんでいる。


「ところで、おぬしの村の農民たちはちゃんと働いておるのか」

「勿論でございます。今年こそ不作から抜け出さねばと、みな精を出して働いておりますぞ」

「ふーむ、不作にも関わらず精が出る、か。大したものも食っていないのによく力仕事ができるものだ。よもやわしらの目を盗んで上等の米をたらふく食っているのではあるまいな?」

「ま、まさかそんな、御冗談を……」


 庄屋は本気で冗談を言っていると思っていたが、克右衛門のたくらみに満ちた眼差しと、不自然に上がった片頬を見るやいなや、額から冷汗が流れ落ちていった。


「はっはっは、不作にもくじけぬ立派な民を持ってわしは幸せ者だ。その労をねぎらって、わし自ら激励をしに参ろうではないか」

「ええっ、もしや、今からですか」

「そうだ、もちろん数人のともをつける。おぬしは道案内だけしておればよいぞ」

「か、かしこまりました。すぐに支度をします」


 あまりにも急な代官の提案が入り、屋敷の中は大慌てであった。一方の雲名村ではそんなことなどつゆ知らず、ある一家が晩飯の支度をしている最中だった。


「あーあ、今日も米は無しか、たまには米ばかりのにぎり飯を食べたいなぁ」

「わがまま言うんじゃないよ。ほら、お前も漬物の仕込みを手伝うんだよ」

「でもおっかあ、腹が減ってりきが入らねえよ」

「もう、それでも男かい。これでもかじっとき」

「ちぇ、また()()()の干物か」


 不作といえば悲惨な飢饉を連想しがちであるが、江戸時代の農民ともなると食料の保存や流通の技術が発達しており、米が食えなくても他のもので代替したり、海や山に近い土地から食料を分けてもらっていた。


 そして、この()()()――鹿肉の干物のように、普段は食べてはならぬとされている動物の肉を()()()だの()()()()だの隠語をつけて、こっそり食していることもあった。


 息子が干物に歯を立てようとしたその時、一家の主である父親が血相を変えて家の中に飛び込んできた。


「おい大変てえへんだ。お代官様がお供を引き連れて村にやってくるぞ」

「ええ、あんた、本当かい。いったいどうして」

「ようわからんが、どうもわしらの働きぶりをじかに見たいと言っとるそうだ」

「へえ、代官様が」


 のんきに干物を齧っている息子をみて、父親が怒鳴り散らした。


「あほう、こんなときに()()()を食っとる場合か。お代官様に見つかったらしょっ引かれるぞ。はよう隠せ」




 村社会の情報網もなかなか侮れないもので、代官来訪の噂はたちまち村中に広がり、克右衛門一行がやってきた時にはすでに万全の体制であった。


「お前たち、お代官様の視察であるぞ、くれぐれも粗相のないようにな」


 先行していた庄屋が村人たちに声をかけていく。それから少し離れたところで克右衛門とお供たちは村を悠々と練り歩いていた。


「ふむ、雲名村へ来たのは久方ぶりだ。さあて、今の頃合いでは晩飯の支度をしている家が多いのだろうな」


 そう呟いて、克右衛門はひそかに口角をあげる。


 食肉が禁忌タブーとされる風潮は1000年以上も昔から続く日本の伝統であったのだが、江戸時代ではそのような意識も薄れていて、武士から農民に至るまで食肉の記録は存在しており、いわば公然の秘密として知れ渡っていた。


 当然そのことは克右衛門も承知していたのだが――


――雉の肉もなかなか美味と聞く。猪は臭みが強いそうだが。まあ肉でなくとも、干し魚でもよい。あわよくば酒でも飲んでいる者はおらんだろうか――


 克右衛門は今更になって食肉が禁忌だの、代官より上等なものを食って贅沢だなどと糾弾し、農民の風紀を正すつもりなど毛頭なかった。そのようなものを見つけたら適当に叱りつけ、没収するというていでせしめようという魂胆だったのである。そんな世故セコい方法を取るほどまでに、克右衛門は野菜や穀物だらけの質素な食事に嫌気が差していたのだ。


 しかし、村人たちの民家を手当たり次第に訪問しても、すでに彼らは対策済み。手前味噌や漬物の仕込みをしている者、かまどに火をくべる者、農具の手入れをしている者、冬支度をしている者、誰も彼も克右衛門にへつらいの笑みを浮かべ深々にお辞儀をするばかりで、こっそり精力の付くものを食らっている雰囲気はまるでない。


「うむ、おぬしは丹念に農具の手入れをしておるな」

「へへえ、お代官様、ありがとうございます」

「飯の支度はせぬのか」

「へっ、ああ、あっしはまだ独り身で、今夜は漬物や菜っ葉ですまそうと考えておりまして」

「そうか」


「庄屋よ、あれは何という食べ物だ」

「あの茶色いものでしょうか。あれは大根の味噌漬けでして、平助のかみさんが得意としている漬物でございます」

「大根。肉ではないのか」

「はあ」

「む、わかった、もうよい。さっさと次の家に参るぞ」


 村人たちの真っ当な振る舞いに反して、克右衛門の機嫌は悪くなる一方であった。このままでは骨折り損のくたびれもうけ。腹も空くばかりである。庄屋も、お供の者たちも、なぜ克右衛門が渋い顔をしているのかまるで見当がつかなかった。


 粗方の民家を訪問し終わり、日も傾きはじめた頃合いに、克右衛門は奇妙なものを見つけた。


「おい、あれは何だ」


 一つの民家の窓から、灰色の煙がもうもうと立ち昇っていた。


「あっ、あの家は、辛次郎からじろうの……」


 庄屋が小声でつぶやいたその瞬間から、克右衛門は我先にと駆け出していた。


「ひょっとしたら火事かもしれぬ、わしが直接確かめてくる」

「だ、代官様。待ってください」


 庄屋の制止も聞かず克右衛門が家に上がり込むと、そこには赤黒い肉のかたまりに、何やら粉のようなものをばらばらと振りかけている男の姿があった。


 その男、本当の名前は早次郎そうじろうというのだが、彼は有名な変わり者で、辛い味のする木の実や野菜――すなわち香辛料を大変好んでいた。だから辛次郎というあだ名が付いている。その執心ぶりは相当なもので、時に町へ出向いて商人たちと香辛料を交換し合ったり、未知の辛さを求めて隣村の山奥まで入り込んだりといった有様であった。


 その辛次郎には、運悪く代官来訪の噂は届いていなかったらしい。さらに始末の悪いことに、辛次郎は隣村で仕留められた猪の肉をおすそ分けしてもらい、それに大量の香辛料を振りかけて焼いている最中だったのだ。


 これを見て克右衛門はとうとう本心を隠し切れず、にやりと口角を上げながら言い放った。


「おぬしも悪よのう。数年も不作が続いておきながら、こんなものを食っておるとは」

「お、お代官様。なぜここに……」


 困惑する辛次郎であったが、次々に家の中に入り込んでくるお供のものに加えて、庄屋が慌てた様子で横から顔を出しているのに気がついた。


 ご、ま、か、せ。


 庄屋は口だけを動かして合図を送った。辛次郎は動物的な()()で何をすべきなのかを察した。瞬時に千の言い分が辛次郎の頭を駆け巡る。


「これは獣の肉であろう。そしておぬしは、今まさに肉を焼いて晩飯の支度をしていたのだ、違うか」

「いえ、滅相もねえです。代官様」

「では、なんだというのだ。こんなに良い匂いは今まで嗅いだことがないぞ」


 克右衛門も克右衛門で、目の前にある茶色い肉に今すぐがぶりつきたくてたまらない様子だった。


「実は、これは、えー、動物用の罠でございまして」

「何、罠だと」

「は、はっ、この肉には毒をたんまり振りかけてましてね。こいつを食ったししや鹿を驚かせて、人里に寄り付かなくさせるものでごぜえます」

「たわけ、ししはともかく鹿が獣の肉を食うか。もうよい。この肉はわしが直に食して確かめることにする」


 すると克右衛門は懐から箸を取り出し、辛次郎が肉を焼いている囲炉裏へと近づいて行った。この奇行には供をしていた武士たちも顔を見合わせている。


「ま、待ってくださいなお代官様。とてもとは言いませんが、人が食えたものじゃねえですよ」

「毒といってもしょせん獣除けであろう。それとも何か、おぬしは人が死ぬような毒を常日頃持っておるのか」

「い、いえ、そういうわけではなく……それはそれはものすごい味でして、はい」

「すごい味、とはなんだ」

「口に入れたら、それはもう、火を口に放り込んだようなことになりますんで。それから、鼻がつーんと痛くなって、涙がほろほろと……」

「ええい、まどっころしい、一口食えばわかることだろう。食うぞ」

「ああ」


 とうとう克右衛門は、串にさしてある肉を一切れ取って、箸で抜き取り、そのまま口の中へ放り込んだ。


「ふっ、くっ、むぐう」


 瞬時に、数種類の香辛料が克右衛門の口の中を刺激し始めた。


 主に使っているのは粉にした和辛子で、肉の水分と唾液に反応してつんとくる辛さを発揮している。そしてもうひとつは隣村の山で採った山椒、豊かな香りが口の中だけでなく鼻まで刺激を与えてくる。とっておきは商人から分けてもらった、京の唐辛子を使った七味だ。これはわずかな量でも、まさに火の出る刺激をもたらす逸品である。


「ぐ、ぬ、ぬ、くううううっ」

「か、克右衛門様……」


 お供の一人が心配して克右衛門の元へ駆け寄った。顔は真っ赤になり、口はへの字に折れ、脂汗を垂らしつつ苦悶の声を挙げるその形相は、まるで腹を切っているがごとし。お供の何名かは困惑した様子であったが、庄屋や辛次郎を含めた他の者たちは、必死に笑いをこらえていた。


 克右衛門も必死である。皆の前で食うと言った手前、辛いからといって吐き出すような粗相はできない。口元を手で押さえながら、ほとんど味のわからない肉を咀嚼そしゃくし、やっとの思いで飲み込んだ。


「かはっ、ぶはあっ」


 大きく息を吐きだし、ようやく辛さから解放された克右衛門の目から、涙があふれ出た。


「だ、誰か。ごほっ。水を持ってまいれ」


 辛次郎は慌てて井戸へ向かうお供たちを見ながら、不思議と鬼の首を取ったような気分になっていた。


「だから言ったじゃねえですか。これは人様が食えるようなものじゃございませんて」

「わかった、わかった、もうよい。ぐふっ。今日はもうここまでだ、水を飲んだら帰るぞ」


 そして克右衛門は大量の水を口に含みつつ、逃げるようにして屋敷へと帰っていった。




 その夜、克右衛門は屋敷の中で口をもぞもぞとさせながら、夕食が出来上がるのを待っていた。


「くそう、何かしら珍しいものが食えるかと期待して損したわ。しかも、まだ口の中がひりひりしておる。いったいあの男はどういう毒を使っておったのだ」

「克右衛門様、今夜の夕膳でございます」

「うむ、入れ」


 配膳係の女中が克右衛門のいる部屋に入り、夕食を眼前へと持っていく。その内容を見て克右衛門は肩を落とした。


「粥に漬物、根菜の入った汁物か。たまには米ぐらいたっぷり二合は欲しいのう」

「は、はい、申し訳ございません」

「いや、なに、ただの独り言だ。下がってよいぞ」


 克右衛門はまず汁物から手をつけた。克右衛門は幼少のころから根菜が苦手で、いつもは渋々ながら口の中に運んでいたのだが……。


「む、これは……」




 その翌日の雲名村、昼休憩で駄弁だべっている村人たちの話題は、昨日の辛次郎のことで持ちきりだった。


「辛次郎のやつ、あのすんげえ辛いやつをお代官様に食わせたってよ」

「本当かよ、あいつ、よくしょっ引かれなかったなあ」

「代官様ときたら、辛次郎の焼いた肉を食べて、顔真っ赤にして泣いて逃げたそうよ。可笑しいったらないわ」


 和気あいあいとしていた村人たちであったが、突然、一人の男が血相を変えて村中に叫びまわった。


「おい、まずいぞ。代官様がまた来てる。今度は一人らしい。どうやら辛次郎のところへ向かっているらしいぞ」


「ええっ、お忍びでか」

「やっぱりしょっ引かれちまうのか。辛次郎もこれで見収めかあ」

「まさか斬られるんじゃないでしょうね……」


 陽気な村人たちの会話は一瞬にして不穏な憶測に包まれてしまった。そして当の辛次郎は、ちょうど山へ出向いて香辛料を採りに帰ってきたときに、家の前でうろうろしている克右衛門と出くわしてしまった。


「だ、代官様」

「おう、おぬしか。おぬしはこの村では辛次郎と呼ばれておるらしいな。どうじゃ、猪用の罠は作っておるか」

「い、いえ、その。代官様は、一体どういうわけであっしの家まで」

「ん。ああ、そんなにかしこまらなくともよい。今日はおぬしに折り入って頼みがあってな」

「頼み、といいますと」

「昨日の晩、肉……ではない、罠に振りかけていたすごい味の毒とやらを、わしにも少々分けてくれんか」

「えっ、あれをですか」

「わしの屋敷の庭にもな、このところ鹿が入り込んできて、草木を荒らすので困っておるのだ」


 今度は辛次郎の顔が真っ赤になって、脂汗が吹き出るばかりであった。


「いや、鹿には、ちょっと効かないかもしれませんで……ほら、鹿は肉など食べぬと、代官様も言ってたじゃねえですか」

「ものは試しとも言うぞ。それともなんだ、あの毒は意外と貴重なもので、わしに分けるのが惜しいと申すのか」

「め、滅相もねえ。家の中には沢山ありますんで、好きなだけ取っていってくだせえ」




 そしてその夜、克右衛門は屋敷に帰り、部屋の中で夕飯が来るのを待っていた。運ばれてくるのはいつも通りの質素な献立だ。しかし今夜の克右衛門には秘策があった。懐に忍ばせていた、辛次郎の毒を詰め込んだ巾着袋。それを、食事の上にさっと振りかける。


 料理を口に運ぶと、あれほどうんざりしていた根菜中心の質素な食事が、みるみる腹の中に入っていくではないか。


「これはしたり。やはり、あやつの毒のおかげだったのか。あの毒を振りかけた肉をたべてからというもの、妙に食欲が湧いてきおる。腹の動きも元気になっているようだ。そして何より、この毒の()()()が、つまらぬ料理を新鮮なものに変えてくれる」


 今夜の克右衛門は料理を完食しただけでなく、お代わりまで頼むほどであった。これには台所の女中たちも仰天した。


 次の日も、また次の日も、克右衛門は農民に生まれ変わったかのように、質素な料理をうまそうに平らげていく。顔色も日に日に良くなっていった。その様子が、女中たちのみならず、武士たちの間でもひそかな噂になっていた。


「克右衛門様ったら、いつの間にあんな大食漢になられたのかねえ」

「根菜は嫌いだって仰ってたのに、今ではどんなに太く切っても平らげてしまわれるわ」

「克右衛門のやつ、最近どうも調子がいいらしいぞ、どうも、不思議なものを飯に振りかけておるとか」

「私見たわ、克右衛門様が、懐から袋のようなものを出して、料理の上にかけていらっしゃったの」

「なんなのだそれは。もしや、食欲を増す妙薬か何かではないのか」




 そのような噂が千里を駆け巡り、一か月半ほど経ったある日のこと、今度は家の中で冬支度をしていた辛次郎の元に、克右衛門が血相を変えて訪ねてきた。


「辛次郎はおるか」

「ひえっ、だ、代官様。いきなり何事ですかい。あっしがなんか粗相でも」

「辛次郎よ、まだ例の毒は残っておるか」

「へ、へえ。あっし以外にこの村で使うものは少ねえんで、まだたんまりとありますが」

「心して聞けよ。この藩の領主がな、おぬしの毒にたいそう興味を持ったそうで、城へ出向いて息子に食べさせてみせよとおおせられたのだ」

「え、ええっ。領主って、お殿様のことですかい」

「そうだ」

「お殿様の息子に毒を飲ませるんで」

「人聞きの悪いことを大声で申すな。これからこの毒は毒ではない、薬と呼べ。それから、できるだけ沢山のど……薬をわしの屋敷まで運んできてくれぬだろうか。頼む、この通りだ」

「は、はあ」


 さすがに城の殿様が絡んでいるとなると、辛次郎も嫌とは言えなかった。




 後日、克右衛門は領主の城へと召し上げられ、本丸の大広間へと通された。


 大広間には平伏する克右衛門と、がっちりと恰幅のよい佇まいの領主、そして、それとは対照的に瘦せ細って顔色も悪い領主の若様がいた。


「克右衛門よ、面を上げい」

「ははーっ」

「おぬしは最近、粗末な食事でも実においしそうに食べるようになったと噂になっておるようだな」

「はっ、その通りでございます」

「聞くところによると、それはおぬしが持つ奇妙な粉のおかげだそうだが」

「それはわしが友人から譲り受けた、食欲を増し、なんでも美味しく食べられる働きをする妙薬にてございます」

「おもしろい。余の息子を見てみよ。こやつは生来から食が細く、野菜など見るのも嫌だというほどだ。おかげでこんなに痩せこけてしまっておる。そこでひとつ、その妙薬の力を借りて、息子に精をつけさせてやりたいのだが」

「この薬を若様に食していただけるなど、ありがたき幸せにございます。すでに城の台所へ薬を持って行って、しかるべき料理をこしらえている最中ですので、しばしお待ちください」


 しばらくして、三人のもとへ料理が運ばれてきた。魚がなく、米も少ない。野菜が中心の質素な内容だ。とても藩を治める領主の子が食べる食事には見えなかった。ただ、皿に盛りつけられたそれぞれの料理に、克右衛門が持ってきた辛次郎の香辛料が、上品に振りかけられていた。


「さ、一口食べてみよ。心配するな、毒など入っておらぬ」


 領主は若様に箸をつけるようにうながす。若様は渋々ながら、薄切りにした根菜を一切れ、口の中へと運んでいく。克右衛門はこのやりとりを静観しつつも、心中では上手くいってくれと緊張の極みであった。


 若様はのろのろと口の中の物を嚙み続けていたが、やがて噛む速度が速くなり、ついに一息で飲み込んだ。


 同時に、克右衛門の緊張も頂点に達しようとしていた。そして、若様がゆっくりと口を開く。


「こんな不思議な味は初めてだ。うまいぞ。こんなに野菜がうまいなんて、余は知らなかった」


 克右衛門は思わず飛び上がって喜んだ。


「そうでしょう。うまいでしょう」



********



 このように、当時の香辛料は現代と比べて、料理に味をつける調味料というよりも、食欲を増進し胃腸の運動を活発にする、『薬』としての側面が強かったのである。和食に添えられている香辛料の類は薬味と呼ばれていることが多く、今回の例のように、食事に辛みをつけて、権力者たちの食の細さを改善させるといった逸話も残っている。熊本県の名物として知られる『からし蓮根』もその一例であろう。


 香辛料は大変有り難いもので、そのようなものを使って料理を作るのは恐れ多いという気持ちが強かったのではないだろうか。そのため、香辛料を大量に使い、辛さを存分に楽しむ激辛料理の発想が日本では生まれなかった。これが理由の一つではないかと考察している。


 ただ、もしかしたら――




「おうおう辛次郎よ。おぬしの薬のおかげで、わしの俸禄はうなぎ登りだ。年貢もあと数年は減免してくださることになったぞ。さあ、飲め飲め」

「いやーっはっはっは、まさかあっしの好きな辛いものにそんな力があったなんてねえー。お代官様も、すっかりあの味が好きになっちまったんですねえー。おっとっと、そりゃあ少しかけすぎじゃねえですか」

「なあに、今夜は宴だ。薬のほうもたんまりご馳走になろうではないか。これ、庄屋よ、おぬしもこっちに来て食べてみろ、うまいぞ」

「い、いえ、わたしはその、辛いものはどうも苦手でして」

「遠慮するなよ、庄屋どの。それい」

「あああっ、そんな山盛りに」


 その後、克右衛門の屋敷では庄屋のほか数名が招かれ、宵越しの馬鹿騒ぎが行われていた。中心にはあの辛次郎もいる。その傍らには、辛次郎特製の数種類の香辛料を混ぜ合わせた、『薬』の入った壺が鎮座していた。


「「「くううううっ、辛いっ。たまらん」」」




 もしかしたら、どこかの屋敷の中で、ひっそりと激辛料理を楽しむ人々がいたのかもしれない。



最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 辛いもの大好きです(*´艸`*) なるほど辛味は食欲を亢進させますよね(*´﹃`*) 若様の御口にも合ったようで、よかったよかった(*´∀`*) [気になる点] 現実には、なぜあれほど…
[良い点] 香辛料は肉の臭みをとるのにも使うので、肉食が少なかったから香辛料も少なかったかもしれないですね。 暑くて食欲の衰える夏は、熱くて辛いカレーで乗り切りたいところです。
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