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9 蘇りの香




 身体が酷く軋み、その痛みでダンは目を覚ました。

 椅子の背もたれが食い込んでいた背中が嫌な音を立てる。


 固まった身体を解すダンの側で静かに眠るリャオ。


 あの騒動があってから三日、リャオは一度も目を覚さない。

 もう一度医者を呼び診てもらっても、ただ眠っているだけだと言った。


朝餉あさげ食べてきなさい」


 部屋に入って来たタンバが、また椅子で寝ようとしているダンの肩を揺らす。

 目は開いているのに何も見ていない、まだ半分寝ている、とため息をついた。

 夢見心地なダンは、促されるままに部屋を出ると厨房に向かった。


 朝の店はとても静かだ。

 昨夜までの華やかさは無く、その静けさは別の場所だと錯覚してしまいそうになる。


 暗く肌寒い廊下を歩くダンは、交互に動く自分の足を見ていた。合わせて左右に振れる頭が壁にぶつかれば、その鈍い音は静かな廊下によく響く。

 壁に身体を預けなんとか炊事場に辿り着き、中に入ると大きな背中がゆらゆらと動いている。

 その立派な身体の持ち主は、ダンがあくびをすると振り返った。


「おうダン、おはよう」


 よく通る低音の声が鼓膜に響く。

 未だ覚醒しないダンは、調理場に立つ男に歩み寄った。

 返事がないのはいつものことなので、男も気にせずに鍋をかき混ぜる。

 この店では基本的に飯を作るのは華女達だが、時間が合わない者達は自分で作るのが決まりだ。


 夜番のウルジはいつも店で朝餉を食べる。

 料理の出来ないダンは、大量にまとめ買いされたパンの山に手を伸ばした。


「お前も食べるか?」



 ぐう。



 はっきりしない頭でもそれが自分の腹の音だとわかった。返事をするより先に身体が空腹を訴えている。


「よし、食べるんだな」


 頭上で低く控えめな笑い声が聞こえ、二人分のスープとパンが机に並ぶ。


 ウルジは店で働くの男衆の一人だ。

 当然だがどこの華店にも男はいる。その多くは豪と呼ばれる店の警護をする男たち。女だけでは身を守るのにも限界があり、妥協と需要によって彼等は存在している。

 豪の素性は元兵士が多いが、店によっては傭兵や元罪人まで雇うところもある。

 後者のように何かしらの事情を抱えた豪は、店に対する恩義があるのかよこしまな感情は持たない。例外もあるが頼れる存在だ。


 この店の豪もタンバが時々どこからか拾って来ては、いつの間にか雇っている。


 硬くてほとんど味のないパンが、不思議な事にウルジの作ったスープに浸すと蕩けるように美味しくなる。

 誰もウルジの前職を知らない。ダンも気になっていた時期があったが、時々こうして食事を分けてくれる彼を詮索しようとは思わない。

 ウルジに懐いているのも、その理由が大きかった。


「お前は、ほんとによく食べるな」


 皿に盛られたパンに手を伸ばすダンを、正面に座るウルジは呆れたように笑う。

 ほとんど味も無く、ただ堅いだけのこのパンを好んで食べる者はそういない。人によっては、一つ食べ切る前に手を止めるほど不味い。


 それをダンは既に六つ平らげていた。その食べっぷりはいっそ清々しい。

 腹が満たせれば味など気にしないダンは、腐ったものや毒入りのもの以外ならなんでも食べる。


 それに今はウルジが作ったスープがある。

 特別美味しいスープのおかげでダンの食欲は倍増し、自然と手が伸びた。


 手に取ったパンを戻せば、ウルジは無理するな、と言ってパンの入った皿をダンに寄せる。七つ目を取り千切ってスープに浸した。

 妹がいるためかウルジは年下を甘やかす癖がある。この程度ならいいのだが、時々度を超えてタンバにどやされることもあった。


 一足先に食べ終えたウルジは片付けを済ませるとダンの横を通り、大きな手で頭を包み少し乱暴に撫でていく。


 相変わらずだな。


 目の覚めたダンは部屋を出ていくウルジの背を見送って、あと一つだけ、とパンに手を伸ばした。



 その日は、いつものように仕事を片付けながら、時々リャオの様子を見に部屋を覗いた。

 何度見てもリャオが目を覚ましていることはない。


「ダン、リャオの体を拭くから交代よ」


 本来ならリャオの姉付き達の仕事だが、ダンとタンバが交代で看病している。

 腫れ物に触れるかのような彼女達に任せるつもりはない。

 タンバの抱えた桶からは湯気が昇る。席を立ったダンの鼻腔をかすめたのは知った香りだった。

 桶の反対の手に握られている小瓶には覚えがある。


 じっと見つめていると、タンバがその視線に気づく。


「ああ、あの子が使ってくれって。この香油、リャオが気に入ってたらしいのよ」


 調香師に特別に注文したその香油はマオシャのもの。机に置いた桶に香油を垂られば、華店では珍しい爽やかな香りがふわりと香り立つ。


 なぜお湯に垂らしているのか不思議に思っていると、タンバが思い出したように振り返る。


「トキ様がいらしてるわ」


 随分と早いな。


 久しぶりにその名前を聞いたが、以前のような不快感はない。きっと待っていたからだろう。


 部屋を出た時、誰かに見られているような気がした。


 周りを見れば少し離れた廊下の角から、こちらを伺っている一人の華女。リャオが腕を切った時にいた姉付きだ。

 ダンが見ている事に気が付いた華女は、パタパタと逃げるように走っていった。




 扉を叩けばマオシャが出迎え、トキが椅子に座っている。机に置かれた皿を指で弾けば、中の香が転がった。


 リャオの部屋にあった香の燃え残りの一つ。

 香炉で焚かれていたものを、トキに調べてもらっていたのだ。


「お前の言った通りだった」


 トキが王宮お抱えの香具師から聞いたという話。


 かつて妻を亡くした王がその悲しみから毎夜妻の使っていた香を焚き、生前の妻を思い出していた。妻の香を練っていた香具師がそれを知り、哀れな王の為に秘術と霊力を用いた香を送った。

 そして、その香を焚くと煙の中から妻が現れる。


 死者を蘇らせる香。


 これは説話だ。しかし説話には必ず人々が信じるだけの何かが存在する。

 リャオが持っていたのがそのうちの一つ、幻覚を見せる香。


 願望や不安、人の中の強い思いが膨らんであたかも現実であるかのような夢を見せる。使い過ぎれば夢と現実の区別がつかなくなり、錯乱状態になる。そうなった人の末路がどんなものか。

 使い方一つで桃源郷を見ることも、死を切望するほどに精神を追い詰めることだって出来る。


 最近では治療の為に使われることもあるが、一般で出回ることはない。故にその存在を知る者も少ないのだ。


「でも、どうしてお前はこの香がどんなものか知ってたんだ」


「……昔、知り合いがその香を持っていたので」


 そんな事より、問題はどうやってこの香を手に入れたか。

 店に出入りしている商人が持ち込んだものでは無いのは確認した。リャオ個人の注文にもおかしなものは無い。

 基本的に華女は店から出ることはないから、外で自分で手に入れることは出来ないはずだ。


 そもそもリャオさんがこんなの使うはずないんだよな。他に持ち込む方法が有るとすれば…


 コンコン。


 マオシャが扉を開けると、両手を握り締め小さく震える姉付きが、部屋の入り口で立ち尽くしている。

 顔を上げた彼女は涙を浮かべていた。先程リャオの部屋を見ていた姉付きだ。


「あら、どうかしたの?」


「あ、あの…」


 彼女はゆっくりと部屋に入るとマオシャの前に両手を差し出す。

 そこにはリャオの部屋で焚かれていたのと同じ香が袋いっぱいに詰まっている。






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