8 赤い滲み
ダンが一人、裏口から入って行く。
着いて行こうとしていたが睨み付けられ、苛立ちを表すような冷たい空気を纏うダンの背中を追いかけることは出来なかった。
トキは一人残されて、どうしたものかと表に回る。
夜道は危ないから送ってやったのに、何で怒ってるんだ。
ダンは表情は乏しいが感情は豊からしい。
特に機嫌が悪いとわかりやすく、怒ったり面倒くさくなると途端に態度が悪くなる。
表に回れば入り口に立つ二人の男。別に何か悪い事をしたわけではないが、彼等の視線から逃れたい。目を合わせる事なく店に入れば、トキの姿を見つけたタンバが微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
ゆったりとした仕草は見入ってしまうほどに美しい。これで店主となると、客の期待も高まるだろう。
昨日は楽しむどころでは無かったし、今日は思う存分堪能しよう。
「これで頼む」
トキは指を二本立て、クルクルと二回宙に円を描く。
タンバは一瞬驚いた表情を浮かべ、口元を手で隠した。だが隠しきれない口角がゆるりと上がり、目尻が下がる。
「お部屋にご案内しますね」
トキを見た華女達は皆頬を染め、目が合えば歓喜した。それに応えるようにトキは微笑み、密かに品定めする。
大店であっても抱えている華女はそこまで多くないらしく、それがまたこの店の良さなのだろう。
案内された部屋の扉を叩き、タンバが声を掛ける。出てきたのはまだ若い華女、首を傾げながら頬に落ちた髪を耳にかけた。
見た目は申し分ない、寧ろ期待以上だ。
「ごゆっくり」
マオシャの腰に手を伸ばす、トキの横顔は満足気だった。
マオシャの味を知ってしまえば、もうそこらの華女じゃ満足出来ない身体になる。あの若さで中官の職に就いているなら将来有望、しばらくは搾り取れると踏んだ。
いい金蔓が出来たと、昂る気持ちを抑えられずにタンバは小さく声を漏らして笑った。
部屋を出たタンバは真っ先にダンの元へ向かう。
今の話をして、どんな反応をするか想像した。この話を聞けば、またマオシャに変な虫が付いたと言って不機嫌になる筈だ。
すれ違う客に挨拶しながら裏へと向かう。
客の出入りが激しいこの時間は、裏の方が慌ただしい。
部屋を覗けば帳簿を眺めるダンの背中、悪戯心が抑えられずそっと手を伸ばした。
「何ですか?」
視線は帳簿を向いたまま、ダンは後ろにいるタンバに聞く。
返事が無いので振り返ってみれば、不服そうに見上げたタンバが腕を伸ばしていた。
何をしようとしていたのか丸わかりだ。
「何ですか?」
もう一度聞く。
「確認は?」
今のは無かった事にしたのか、タンバは逆の手を出し、帳簿を寄越せと言っている。
本来帳簿はダンのような下働きが触れていいものではないが、どう言う訳かその辺の価値観がタンバは他とは違う。
「終わりました」
少し酒が値上がりしているが、この都ではそう珍しくない。
注文のあった酒を倉庫に取りに行くと、思い出したようにタンバが中を覗いた。
「マオシャのお客に何か準備してくれる?」
「誰ですか?」
酒樽を抱えて戻れば、タンバが何やら楽しそうに笑う。いい歳してこういう所はまだ子供だ。
「トキ様」
タンバが指を二本立て、手首を二回クルクルと回した。それを目にしたダンの気分は一瞬で下がる。
ダンの嫌そうな顔を見て、タンバは満足そうに微笑んだ。
別に金を払ってくれる客に文句は無い、ただ今はその名前を聞きたくなかった。
だが、二百とは羽振りがいい。
今の時点でその額が出せるなら将来は良い客になる、その為のマオシャなのだろう。金払いの良い客は、いくらいても困らない。
客足も落ち着いて、戻ってきたタンバと休憩を取ろうとした時、リャオの姉付きが窺うように部屋を覗いた。
何かポカをやらかしたのかと思えば違うらしい。
「リャオさんがお酒を持って来いって」
その声は微かに震えていた。
リャオは今朝、マオシャの妹に手を上げた。昨日に続いて店に出る事を禁じられ、部屋に閉じ籠もっている。
一体、何考えてる。
タンバを見ても同じ事を考えているようで、頷いて部屋の外を見る。行ってこいの合図だ。
裏とは違い表では華女達が客を待つ、その雰囲気が苦手なダンは目立たなように端を歩いた。
階段を登っていると上の階先から怒鳴り声が聞こえてくる。
それは確かにリャオの声で、続いて何かが割れる音。
おい、何壊した……。
階段を駆け上がり、リャオの部屋に向かう。
部屋の中では二人の姉付きが抱き合うようにして部屋の隅を見つめ、その先には蹲るリャオがいた。
この匂い。
閉め切ったリャオの部屋は、微かに香の煙が漂っていた。
ダンに気付いた姉付きが唇を震わせる。
「急に暴れ出して……手を」
手がなんだと、駆け寄って姉付きの手を掴んで見たが、特に何かがあるわけではない。
リャオに視線を向ければ、膝を抱えて小さく蹲ったまま。
ふとリャオの着ている赤い服に目が行った。
袖の部分が違う赤色で染められているのかと思ったが、その赤は少しずつ広がっている。
最悪が脳裏を過ぎった。
掴んでいた姉付き腕を放り投げ、リャオに駆け寄る。何かを呟いているようだが、顔を埋めているせいでよく聞き取れない。
近くに寄ってわかったが、リャオからもキツい香の匂いが漂っている。膝を抱える腕を引き剥がすがらリャオは何の反応もしない。
「なんで……なんで……」
明らかに様子がおかしい。
顔を覗き込むと目は泳ぎ、焦点は合っていない、掴んだ腕も震えている。
ぬるりとした感覚に視線を落とすと、掴んだ手首とダンの手が赤く染まっていた。
リャオの左腕は血で濡れ、傷口は小さいがかなりの血が流れている。
周囲に散らばるガラスの破片が視界に入った。
腕を、切ったのか?
「医者」
後ろに居てもダンの声は聞こえていた。姉付きの一人は部屋を飛び出し、残った一人は何をすべきか分からず戸惑っている。
「清潔な布出して」
弾かれたようにもう一人の姉付きが駆ける。
別に咎めているわけじゃ無いが、彼女はひどく怯えていた。
渡された布で傷口を押さえ、きつく縛る。
大怪我ではないようだが、ここに置いておくわけにもいかない。
とりあえず下に運ぼうと部屋の入り口を見れば騒ぎを聞いた客や華女達が、部屋の外に群がり好奇の目でリャオを見ていた。
群衆を見るダンに気付いた姉付きが、小さく悲鳴を漏らす。
リャオはピクリとも動かない。右腕をダンの肩に乗せて左脇と膝裏に腕を回せば、軽いリャオの身体は簡単に持ち上がった。
別の部屋に運ばれ、医者に手当てされている間もリャオの様子はおかしいままで、不気味がった医者は傷だけ診ると帰っていった。
寝台で眠るリャオの顔は酷く青白い。腕に巻かれた包帯が嫌に目に着く。
偶然の事故か、或いは…。
冷静になるために深呼吸をした。
リャオから微かに匂う香。それに覚えがあったが、確かめる手段を今のダンは持っていない。
最近リャオの様子がおかしかったのは、マオシャではない他の原因がある。それを確かめる為、ダンはマオシャの部屋の扉を叩いた。
タンバが言った通りならまだ居るはずだ。
出迎えたマオシャの後ろでトキは茶を飲んでいる。
部屋の中を見ている事に気付いたマオシャは、身体を避けてダンの視界を空けた。来客がダンだと気付いたトキが二人へと近付く。
「お願いがあります」
この際だ、使えるものはなんでも使ってやる。