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橋を渡り、都へ入ろうとする人混みの中に、いつも通る詰所の裏ではなく、正規の通行所に入ろうとするダンの姿があった。
頭にはいつものように日除け布を被り、額に滲んだ汗を拭いながら順番を待つ。
その後を追うようにして、えらくご機嫌な男と小柄な男が轢く荷車が続いた。
遡ること少し。
部屋に積み上げていた行李を前に、ダンは大きな息を吐く。
華店では下働きとして、御隠居の元では都合のいい駒として働くダンには、また別に請け負っている仕事があった。
元々の出身は名も知らぬ国であり、今の生活に落ち着くまでは、他国を渡り歩く生活をしていた。
そこで身についたのは、逃げ足の速さだけではない。
隣にいる人間が、行く先々で聞きなれない言葉を使っていれば、多少は理解できるよにもなるだろう。
時々、暇潰しのように文字の読み方を教えてくれることもあった。
教え方がよかったとは言えないが、することがそれ以外なかったダンにはとっては、十分すぎるほどの時間がある。
しかし、いくつかの言語を身に付けたとして、大して役に立つ事はあまりないと思っていた。
「金になるなら無駄じゃなかったな」
書物のような高価な品は市場などではあまり出回らず、これだけの量を揃えられる依頼人はかなりの金持ちだったりする。
ただ、好きで集めても読めなければ意味はなく、そこでダンがこの国の言葉に翻訳したものをこうして届けているのだ。
普段なら抱えて運べるくらいの仕事量なのだが、後回しにしてた為にかなり溜め込んでしまっていた。
訳は既に済んでいるので、後は運び出すだけなのだが、さすがに店の荷車を借りた。
全てを積み終わったとき、ダンの額にはうっすらと汗が浮かぶほど、今日の天気は晴々としている。
「いっそ曇りなら……いや、湿気で紙がよれたら駄目か。自業自得だ、仕方なっ……」
天気に対する文句を漏らしながら荷車を轢いて表の通りに出たダンの前に、まるで示し合わせたかのように現れたのが、昨夜も顔を合わせた武官の二人。
しかし、日除けのために被っていた布のおかげか、二人はダンに気付かず通り過ぎていった。
急なことで驚いたものの、わざわざ呼び止めて挨拶する仲でもないので、橋に向かった二人の後に続くように歩いた。
街から橋へと渡る道に差し掛かかった時、ひゅうと吹いた風がダンの日除けを奪い去ろうとする。
「おっと、」
吹き上がる前に掴んだはいいが、咄嗟のことに、片手だけでは荷重に耐えきれず荷台が大きく傾いた。
ゴトッ、バサバサーー
積み上げた中の数冊が、大袈裟なほど大きな音をたてて滑り落ちる。
て急いで拾い上げ、汚れがないことを確認して少し安堵する。
「大変そうだな」
頭上から降ってきた声に顔をあげると、美しい笑みたたえたトキが手元を覗き込んでいた。
「手伝うか?」
次いでその一言があり、頼みもしていないのに半ば強引に荷車を奪われる。
「見回りのついでだ」
「我々も同じ方向に向かっている」
もっともらしい理由を並べられ、結局二人と行動を共にすることになった。
轢き手は当然シユが引き受けて、昨夜の約束通りこれで貸し借りなしとしようと提案してみたが、相手が頑なに受け入れようとしない。
荷車では裏道を通れないため、大通りに行き交う人々の群れの中を足早に進む。
時折思い出したように振り返るのだが、どちらも疲れた様子もなく、重い荷車を轢いて息も切らさず着いてくるシユは流石と言うべきか。
「どうしました?」
シユが何かを見つけたのか足を止め、声をかけた次の瞬間には駆け出した。
荷車ごと行ってしまい、呆気に取られていたダンの耳に何かの水音と少しの間を置いて声が届いた。
同じ通り行く人々はその声に足を止め、騒ぐ様子に興味を惹かれるように裏道に入っていく。
「人が川に落ちた!」
「どうした、動かないぞ」
「誰か! 手伝ってくれ!」
川に落ちたという人は、誰よりも早く異変に気付いたと同時にシユが駆け出して、すんでの所で掴んだお陰で胸から下を濡らしただけだった。
しかし、呼びかけに対して反応はなく、微動だにしない男を引き上げたのだが、陸に上がったその姿に野次馬がどよめいた。
ぐったりと横たわる男の腹は、まるで出産間近の妊婦のように大きく膨らんでいた。
太っていない、むしろ細身の男の体つきには不釣り合いな膨らみに、周囲の空気は驚愕と畏怖に染まる。
その中で、ダンだけが周囲と違う反応しているのを、トキは見逃さなかった。
呼吸の確認をしていたシユが、静かに首を横に振る。
その後すぐに駆けつけた兵によって人払いがされ、居合わせた流れでトキ達が事の処理をすることになり、散っていく人々と同じくこの場を去ろうとするダンを引き止めた。
「何か知っているみたいだな?」
少し身動きするだけで肩に添えられた手に力が入り、これでは簡単には抜け出せそうもない。
同じようなことがこう何度もあると、早々に諦めもつくもので、無駄に足掻いて時間を食うよりもさっさと終わらせた方が効率的だと、自分を納得させるように言い聞かせた。
出過ぎた真似はしないと決めたばかりなのに。
丁寧に肩の手を払い、ゆっくりと切り出す。
「怪我をすれば患部を洗い、清潔にしてから薬を塗りますが、それを怠った場合どうなりますか?」
「なんだ急に、まあそうだな、悪化して化膿する……とか」
ダンは小さく頷くと、そっと自分の腹を撫でる。
「ではそれが、体の中で起こった場合はどうでしょう。見えない場所が損傷し、状態もわからないまま。本人は腹痛か何かだと思ったかもしれませんね」
あそこまで放置していたとなると、大した痛みではなかったのだろうか。
そもそもとして、膨らんでいく腹を見れば、すぐにでも医者にかかりそうなものだが。
余計な考えが浮かび、それを消し去るように目を伏せた。
「損傷した原因は? あの男には目立った外傷はなかったぞ」
当然、見える場所になどないはずだ。
「何かを飲み込んだんだと思います、それが体内に傷を作り、結果ああなってしまったのかもしれません」
「なぜそこまで言い切れる?」
それまで兵に指示を出していたシユは、側で話すダンの話を聞くと、顔を顰めながら割って入った。
「私が知っている原因の一つとして述べたまでです。もちろん違うかもしれませんし、あの方が男性的に見えるだけで女性の可能性だってあります」
見えない場所がどうなっているかなんてわかるわけもなく、聞かれたから参考として答えただけの言葉を鵜呑みにされては困る。
そして、今言った話は、別段珍しい話でもないのだ。
食べ物を買う金がない人間が、普段なにを口にしているのか、きっと不自由のない暮らしをしているトキ達が知るはずもない。
飢え、怪我、病。
持っていれば解決する問題も、持たざる者にとっては簡単に命を奪っていく原因。
「飢えた人間は、たとえくず箱に捨ててあるものだとしても、食べられそうと思えば何だって口にしますよ。それが腐っていようと、異物が混じっていようと腹を満たすために」
それ程までに、飢える苦しみは耐え難い。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、汚れているから、腐っているから、そんな考えはないのだ。
だからこその疑問も生まれる。
「ただ、あの人の身なり、拾い食いをする様には見えませんね」
決して上等とは言えないものの、その装いは物乞いのそれではなく、加えて、男の持ち物に金品が残っていることは確認しているのを知っていた。
川に落ちた時の様子を聞けば、川沿いの木にもたれ掛かるように座っていた男に通行人がぶつかり、地面に倒れ伏すと滑るように川に落ちたのだという。
その時まだ息があったのなら、呼びかけに対して反応があるはずだが、それがなかったとなると既に手遅れだったのかもしれない。
筵に覆われた男の姿を思い出す。
どの道、苦しんだことには変わりない。
人の死を人より多く見てきたからか、死なないように生きる難しさは嫌と言うほど身に染みている。
ほんの些細なことが原因で人は簡単に命を落とす、自分は運が良かっただけで、既に死んでいてもおなしくない人間だ。
「結局のところ、開いてみないと中のことはわかりません」
最後に一言だけ言い添えて、ダンは荷車を轢いてその場を後にした。




