55 片付けと押し付け
いつもの仕事場、そこから続く貯蔵庫の入り口で棒立ちになったダンは、その有様に呆然とするしかなかった。
その背後では、ホンファが居心地が悪そうにつま先で床を突く。
かろうじて人ひとりが通れる隙間を残して、乱雑に積み上げられた酒樽。
種類、銘柄で整理していた棚は、もうどこにどれがあるのかわからないほどごちゃ混ぜに置かれている。
その棚には銘柄を書いた札を吊るしてあるのに、そこには別の酒が並び、なかには札すらも消えてしまっているものまであるではないか。
「元あった場所に戻すだけだと、あれほど言いましたよね」
こうなると予想できなかったわけじゃない。
最初から、ホンファの仕事ぶりは文句のつけようもないほどに完璧で、一人で任せても問題ないと思われた。
しかし、昼間の仕事を交代で担当する頃から、使った物が出しっぱなしだったり、いつもと配置が変わっていたりといったことが起き始めた。
「何度も聞いたわよ、でもわざわざ奥まで取りに行くのも面倒じゃない、こうして近くに置いてたらすぐ用意できるわ」
何度も聞いた、同じような言い訳に、頭を抱えたい気分だった。
酒を出しては、手近なところに種類関係なく放置する、ホンファの姿がありありと目に浮かぶ。
酒の管理と発注、客の注文に一番適した酒を選び出せること、酒を盗むこともなく、その仕事だけは完璧と言っていい。
問題は、ホンファという人物に、元あった場所に戻す、その至って簡単に思える行動の意識が低過ぎることにある。
最初こそ気にならなかったそれは、ホンファがこの仕事に慣れてくると同時に顕著に現れた。
おそらく始めは気を張っていたからできていたものが、慣れて意識から抜け落ちたのだろう。
ダンが別の用で顔を出せなかったたった数日で、ここまで散らかせるものかと、むしろ感心してしまう。
「あなたがよくても、他の人には使い辛いです」
長く働く華女であれば、声だけ掛けて自分で勝手に準備することもしばしば。
ただ、入れ替えが激しく置き場所もその都度変わる貯蔵庫の中身を完璧には把握できないこともあり、基本ダン達以外は立ち入らない。
だからこそ銘柄ごとに札を吊るし、常に整理して誰が見てもわかりやすくしておく必要があるのだ。
「前にも聞いたわよ、その方が効率いいのよね、はいはい、元通りにすればいんでしょ」
口ではいい加減な返事をしながらも、動かす手元は手際良く片付けを始めた。
やろうと思えばできるのになぜやらないのか、と疑問も残るが、年下であるダンが注意しても、文句を言いつつやってくれるので根は真面目だ。
日が傾きだした頃に始めた片付けは、橋街の灯りが着くまでになんとか終わった。
少し肌寒くなってくると、夜を長く感じるようになる。
この時期、川にあるこの街の夜は一段と冷え込むのだ。
「あら、随分片付いたわね」
他の華女達に紛れてタンバが顔を覗かせると、跳ねるように驚いたホンファが、ダンの背後に回り込むように移動する。
その表情には緊張の色が見え、どこか落ち着きもない。
茶を飲みにタンバが顔を出す度にこんな調子で、逃げるほど苦手なのかと思えば、そうでもなく、大半が愚痴の長話を興味深そうに聞き入っていたりする。
ただ、そんなこと今はどうでもよく、まだまだ忙しいこの時間に、タンバが現れた理由の方が気になった。
「ちょっといいかしら」
そうして呼び寄せたダンに、タンバは煙管を吹かしながら言った。
「何か見繕ってくれる? それから、マオシャの部屋まで届けて欲しいの」
「私がですか?」
はっきり言って、それは姉付きの役目だ。
ただ、その事情を聞いてはいけないような気がして、喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。
きっと手隙の華女がいないのだろうと、適当にマオシャの好む酒を用意する。
後のことはホンファに任せて部屋を出る。廊下を忙しなく駆ける姉付き達を避けるように、壁に沿って歩いた。
マオシャの部屋までなら、一度広間に出てから大階段で上の階に行く方が近いのだが、それだと客待ちの華女達の側を通らなくてはいけない。
しかし、今日のように客入りがいい日の彼女達には、極力近づきたくなかった。
獲物を狙う猛禽類のように、眼光は鋭く研ぎ澄まされ、男と見れば狙いを定める彼女達の迫力がとにかく苦手なのだ。
中階段を使い、華女の部屋を避けるように大きく迂回してマオシャの部屋へと向かう。
部屋の前で呼びかけ、マオシャの返答を待った。
しかし返事はなく、少しして静かに扉が開かれた。
「ご苦労」
この部屋にすっかり馴染んだトキが、下人がするように開けた扉を押さえている状態のまま、ダンは室内の状況に目を奪われ、ただ立ち尽くしていた。
「遅かったじゃない、また遠回りしてきたのかしら」
部屋の中央にある椅子に座ったマオシャが、上品に笑う。
「女性が苦手なのは相変わらずね」
マオシャとは卓を挟んだ向かいの椅子では、人を小馬鹿にしたように笑うリャオがいた。
この二人が並んだ姿を見たのはいつぶりか。
かつて、本当の姉妹のように親しかった二人は、互いに高みを目指して一人は壊れかけた。
その後、復帰する際に一度だけ二人は同じ部屋に入ったが、いち下働きのダンがその光景を拝むことはできないのだ。
だからこうして、美しい正装を纏い、凛として以前より貫禄のある二人を前にすると、えも言われぬ特別感がある。
そんな特別な二人に挟まれるようにして、元から小さい背を更に丸め、居心地の悪そうな表情を浮かべるシユの姿。
しばらく動かないダンを見かねてか、トキが部屋の中に押し入れる。
シユのことも、こんな風に背中を押して、連れてきたのだろうか。
考えるだけで気の毒に思える。
彼等のような人種か、余程の自信家かでもない限り、今の状況は耐えるにかなり厳しいだろう。
「いつまでそこで突っ立っているの? 早くいらっしゃい」
マオシャの手招きに引き寄せられ、持ってきた酒を四人が囲む卓に並べると、一歩下がって礼をとり、即座に踵を返す。
「あら随分と急いで帰るのね」
自分の仕事は終わったと、何食わぬ顔で部屋を出て行こうとするダンの背に、マオシャの穏やかな声が鋭利な刃物となって突き刺さり、足を止めさせた。
当然、ただの下働きが店の顔に等しいマオシャに、客前で呼び止められたら、無視などできるわけもない。
「なんでしょう」
ダンは振り向いて礼をとりながらも、一歩後退り、扉に近付いた。
顔を上げたダンに、まず声をかけたのは、意外にも、少し落ち着きを取り戻したシユだった。
「先日の礼をしに薬屋に行っても、姿がないと思ったら、本当はここで働いていたんだな」
言葉の理解に少し時間がかかったが、そもそもシユに素性を話していないし、その必要もなかった。
薬屋で手伝いをしていた時に居合わせたことで、見習いかなにかと勘違いしていたようだ。
ただ、先日の礼がなんのことだか、さっぱり検討がつかない。
何かしたか?
その疑問の答えが、シユの次の言葉だった。
「お前のおかげで、賊を捕まえることができたんだ。あの助言がなかったら、我々はその存在すら知らないまま、いもしない獣を警戒するただの無能に成り下がっていただろう。だから何か、礼をさせてくれ」
一気に言い切り、大きく息を吸い込むと、今度は期待の眼差しを向けてくる。
おかげで思い出したはいいが、あれは怯えるリコウからシユを遠ざけたかった下心あっての言動で、まっすぐ向けられる感謝の居心地の悪さに逸らした視線が、トキと交わった。
「今回の成果は大きい、お前の助言に感謝しているんだ」
悪いようにはしないから、受け取ってやってくれ、とでも言いたげだが、丁重に断りたかった。
「賊を捕らえられたのは、シユ様がご尽力なされた結果ですよ」
無関係とまでは言わないが、過大評価が過ぎるのは良くないのである。
せめて、道の小石を先に蹴飛ばしたおかげで通りやすくなった、程度と思って欲しかった。
「いいや。あの時、お前は全てを見抜いていた」
「買い被り過ぎです」
それからなにを言っても、シユははっきりと、そして大袈裟に言い返す。
頑固な性格なのか、表情からもシユが諦めるとは思えず、先にダンが折れた。
押しつけられる好意は時に、悪意よりやっかいだ。
「わかりました」
辟易に歪んでしまいそうな顔を隠すように、深く頭を下げたダンは、相手が待っていたものとは違う言葉を口にする。
「ただ、今すぐ求めるものはありません。いつかあなたを頼る時、少しばかり力をお貸しいただければ、幸いに存じます」
簡単に言って、こちらから求めるまでは必要なし、という意味だ。
相手が役人なだけに、反故にしてしまうのは少し勿体ない。
それでも、今後は出過ぎた真似を慎もうと心に決め、それぞれの理由で引き留めようとするトキとシユに、面白がって便乗するマオシャとリャオをなんとかいなし、部屋を後にする。
仕事場に戻ると、あれだけ散らかっていた部屋が元通りになり、ホンファが酒器を一つひとつ丁寧に磨いていた。
「ついさっき、あなた宛の伝言を預かったんだけど、明日どこかに行くの?」
「はい、少し荷物を届けに行ってきます。それでなんと言ってました?」
一人では多すぎる荷物を運ぶのに、店の荷車を借りられないか頼んでいたのだ。
そして、返事は昼間なら使っても良いという事なので、明日は忙しくなる。
「あとは私に任せて先に休みなさいよ、もう散らかしたりしないから」
その言葉に「今日は」と付け加えるべきだろう。
呆れながらも、明日のことを考えると、言葉に甘えて先に休むことにした。




