5 勘違い
妻は最近夫の帰りが随分と遅くなっていることに気付いていた。
気になってその理由を聞いてみれば、夫は橋に行ってきたと話す。
夫の様子はいつもと変わらず、嘘をついているようにも見えない、妻もそれ以上は問い質すことはしなかった。
堂々と浮気をできるようような性格でもないため、夫の言葉を信じた妻はいつものように帰りを待つ。
そんな日々を過ごすうち、遂に妻は不安を抱き始めた。
何のために橋に通っているのか、本当は別の場所に行ってるのではないのか。一度考え出すと些細な事も疑わしい、何かを隠しているのではないかと思えてならないのだ。
このままでは夫を信じる事ができなくなる、そう思った妻は友人に相談してみることにした。
話を聞いた友人は、夫の行動の真意を確かめると約束を交わす。
「それが中官様ですか」
「人の話は最後まで聞け」
話を聞く気がないのかと疑ったが、どうやらそうではないらしい。寧ろトキの話に興味を持っているようにも見える。
友人は優秀な部下にその任を与えた。
優秀な部下の働きにより、夫が毎日橋に出入りしていることがわかる。夫は嘘をついてなかったと証明され、残るはその目的。
しかし、そこで問題が起きる。
彼が橋に入ると、なんとも奇怪。一瞬にして姿を消してしまうのだ。
「見失っただけでは」
まるで物語を語るかのようなトキにダンは冷静に答えた。
優秀と強調するのが自尊ではなく、冗談だと言う事はダンもわかっている。
言葉と同じく冷ややかな視線がトキに向けられるのは、決して悪意からではない。
「橋の上だぞ?」
それもそうか。
この街に続く道がある以外、川の上にあるただの橋。その規模が大きいとは言え、人が隠れるような場所はない。
やっぱり見失ったんじゃないか。
少し考えてみたが、出た答えは同じだった。
「出入りしているのは確認した、ただ橋に出ると姿が消えているんだ」
橋に入るためには通行証を提示する必要があり、その為に皆が列を作る。
列と言っても一つの通路に人がごった返しているだけ、夫はその人混みに入って行くとそのまま姿を消す。
どれだけ見渡してもそれらしい姿はない、先に出て行ったのかと橋に出てもどこにもいない。
何度同じことを繰り返したことか、トキは橋で夫の姿を一度も見ていないのだ。
話を聞いていたダンは、この件に関して自分が何か知っていると感じた。それが何だったのか、ダンは当てもなく記憶を探る。
「何かの術ではないだろうか」
その一言で、ダンの今までの思考は全て消え失せてしまう。
真剣な表情で突飛なことを口にするトキに、冷たい視線を向けた。
トキの言ったそれは、ダンが嫌悪しているものだったからだ。
「遠く離れた場所に一瞬で移動する術、術師の中にはその様な術を使う者もいると聞いたことがある」
本気か冗談かわからないが、少なからずその可能性があるという口ぶりが酷く癪に障る。
「術師ねぇ……話には聞くけど本当にいるのかしら」
「西の国では、術師が国を統べていると噂もあるくらいだ」
嫌に冷静になった頭では、トキの語る事全てが馬鹿馬鹿しく思えてならない。
気付けば抑え切れない苛立ちが、嫌悪を込めた言葉になって声になっていた。
「ねぇよ」
その呟きは酷く擦れて言葉としては不完全で、良く聞き取れなかったが、先程とは何処か違うダンの様子にトキは戸惑いを隠せない。
中途半端に開かれた瞼から覗く、どこか遠くを見つめた大きな瞳がゆるりと流れ、トキの視線を捉える。
「尾行が気づかれていた。中官様は目立ちますから」
指を差されたトキは思わず自分の肩を抱き、急に戻った声色に混乱した。
それが探し人の話だと理解するのに時間はかからなかったが、返すべき言葉が声にならない。
「なんですか、ジロジロと」
ダン自身、気まずくなった事は分かっていた。
それをなんとかしようとしてみたが、逆効果だったようだ。
「いや…なんでもない」
今のは気のせいか。
言い聞かせるが、見たものが変わるわけではない。
何かを呟き、虚空を見つめるダンの瞳が酷く恐ろしいと思ってしまった。
「浮気はしなくても、女遊びをしないとは限りませんけどね」
金を持った男がこの橋に来る理由、それは極上の女とひと時の夢を過ごす為ではないかと、タンバは口にした。
例え妻子がいても華店に通う男はいる、酒を嗜みながら芸を楽しむのだ。
華女が身体を売るだけじゃないのと同じに、客の楽しみ方もまた違う。
この街は土地柄か商人が多く住む町ではあるが、華店が多く軒を連ねている事でも有名だ。
かつて街にいた者の中には違法に商売をしていた娼婦も多く、その事が問題となっていた。
そんな彼女達を取り纏める者が現れ、遊戯や舞を教えて今の華店ができたとされている。
「私もそう思って目に付いた店に入ってはいるんだが、それらしい情報が無い」
腕を組み、ため息をつくトキを見て、ダンは関係ない事を考えていた。
今は外しているが顔を覆っていた大きな布、そして端正な顔立ちと服の上からでもわかる程よく鍛えられた身体。
トキの容姿は、リャオ付き達が話してくれた噂の男とよく似ていた。
あの噂、本当だったのかも。
「この店には来ていないか?」
「申し訳ありません、お客様のことは…」
店にとって客は大事な存在、どう言う理由であれ客の情報をおいそれと話すわけがないとわかっていた。
他の店でも同じだったこともあり、それほど期待はしていなかったとはいえ、ここまで情報がないのは苦しい。
「いや、無理を言った」
なんの進展のない調査に多少の焦りはある。しかし事を急いでしまえば必ず何か支障が生じ、全てが無駄になってしまう。
一見ただの浮気調査のようなこの任務は、妻とその友人が誰なのかを知っているからこそ失敗は許されない。
「あちらも変装しているからか、なかなか見つからないんだ」
「……変装」
あちらも?
その言葉に違和感を覚えたダンは、椅子に座ったトキを頭から足先まで舐めるように見回した。
全体的に暗い服は華やかさこそ無いが、見る人が見れば、高級品だとわかるだろう。
布地は綿、造りは丁寧で、汚れどころか着古したシワもなく、綺麗に洗濯されている。
トキからは上質な洗剤と香の匂いが漂い、髪は男というのに艶やかだ。
平民にとって綿が高価だって知らないんだろうな。
図らずもトキの変装は華店に通うには適切だったと言える。これが最低限だとしても、派手すぎると逆に疑う要素にしかならない。
身なり一つで店の敷居すら跨げない事だってある。
わざわざ言うことでもないか。
トキは値踏みするようなダンの視線に気付いていたが、いつもの事だと受け入れた。
決して自信過剰なわけではない、良くも悪くも彼が人目を集めるのは事実であり、ダンの刺さるような視線も当然だと思っている。
年頃だ、仕方ない。
まだ誰も、その勘違いに気付いていないのだ。