46 御隠居の文
題名変えます
彼は絵師の息子だった。
生まれた時から、身の回りにさまざまな芸術品が溢れていた。
幼いながらに芸術を理解した彼を、周囲は口を揃えてこう言った。
「この子はきっと、絵師になる」
いつかは父親に並び立つ絵師になるはずだ、と期待するのは当然のことだったのかも知れない。
しかし、そんな期待も虚しく、現実は厳しいものだった。
彼は、絵が描けなかったのだ。
物心つく前から兆候はあった。
芸術品には興味を見せるのに、父親が絵を描く姿には見向きもしない。
壊滅的なほどに下手、とかであれば諦めもついただろう。
しかし、彼の場合は少し違い、絵を描く行為が果てしなく難しく、何をどうすればいいのかがどうしても理解できなかったのだ。
いざ筆を取ると、どう描けばいいのかわからなくなる。
幼いながらも、それが許されないことであると、理解していた。
何とかして描かなければ。
手を変え品を変え、絵を描くために色々な手を尽くした。
そしてある日、彼は父を前に緊張した面持ちで立っていた。
手には、彼が描いた絵を持って。
一つだけ、絵を描く方法を見つけたのが、もうすぐ二十になろうとしていた頃だった。
彼が見つけた唯一の方法。
幼い頃から幾百幾千と見続けてきた誰かによって描かれたもの、それを色も構成も寸分違わず同じに描く。
名の知れた絵師の絵であろうと、同じ弟子仲間の絵であろうと、色の濃淡、筆の毛一本の掠れさえも、見れば本物と全く同じに描くことができた。
そして、彼が描いたのは父の代表作とも言える絵。
彼が幼い頃に一度だけ目にしたその絵を、父本人でさえ自分の絵だと思うほどそっくりに描いてみせた。
精巧な模写。
それが彼の才能だった。
褒められた技術ではないことはわかっている。
それでも、何かを描けることは、彼にとって喜び以外にない。
しかし、父は彼の絵を目の前で燃やした。
弟子達が枯れた落ち葉を掻き集め、他の塵と一緒に燃やしていた中に、絵を投げ入れる父の姿を、彼はただ見ていることしかできなかった。
「二度とするな」
彼に怒りや哀しみはなく、父のとった行動の意味に、激しく後悔した。
もし、父と同じ画材を使っていたら。
もし、同じ時期に描いていたら。
それは、この世に存在してはいけないものだ。
その日から、彼が筆を取ることはなかった。
もう一生、自分が何かを描くことはないと、心に決めていた彼の前に、一人の男が現れた。
西の砂漠地帯にある街を治めているという男は、いい儲け話があると彼に持ちかけた。
誰から聴いたのか、男は彼の描く絵のことを知っていた。
「宝の持ち腐れじゃないか」
父が危惧していたことが起こってしまったのだ。
絵は燃やした。
しかし、彼が描いている姿を誰も見ていなかったとは限らない。
落ち葉焼きをしていた弟子達はどうだろう。
火炎の中にある絵を見て、師匠がかつて描いたものがなぜここにあるのか、息子に言った言葉が何を意味していたのか。
他にも、この事を知っている人がいたら。
彼は恐れ、逃げ出した。
西から遠ざかるように、東に向かう。
あてもなく、放浪者のような生活をし始めてひと月経とうとした頃、運悪く物取りに遭い、よそ様の家の軒先で雨風を凌ぎながら、身を丸めて寒さに耐えていた時だった。
「こんなところで寝たら風邪ひくぞ」
ある男に拾われた。
男はリコウといって、最近名の売れ始めた絵師であった。
リコウに拾われた日から、数日が過ぎても彼はそこに留まり続けていた。
持ち金を増やすために仕事を探すと言ったところ、ちょうど人手を欲していたリコウに半ば無理矢理雇われることになったのだ。
元々作品に惚れていたこともあり、彼が自らの意思で出て行くことはなかった。
名も売れ、いくつかの得意先も持っているはずなのに、生活能力が皆無で、おまけに金遣いの荒いリコウとの生活は、決して楽ではなかった。
絵師として名が売れ始めてからは、忙しさも相まっていくらかマシになったと、昔を知る人は言った。
若い時は賭博ばかりで、有り金を溝に捨てるような生活を送っていたらしい。
その時作った借金も、まだ返済しきれていなかった。
それなのにまだ借金を増やそうとするリコウを一喝し、時々やってくる取り立ての対応はいつからか彼の仕事となる。
その日も追い返す勢いで家の戸を開けた。
そこには取り立てと一緒に、かつて彼を誘った男が笑みを張り付けて立っていた。
「こんなところにいたのか」
言葉に反して口調は確信を持っていた。
「まだ、気持ちは変わらないかい?」
男の話を受けるつもりは毛頭ない。
彼が拒否すると、男は笑った。
「今はいい、しかし、いつか君の方から僕の元にやってくる」
その言葉を残して男は帰っていった。
男はリコウに仕事を依頼した。
一部の客にだけ作っている絵札を、自分たちにも売って欲しいと男は言うが、リコウはそれを拒否した。
そしてその日から過度な取り立てと、悪質な嫌がらせが始まった。
定期的にやってくる男の話はいつも同じ、それをリコウが追い返すとまた嫌がらせ。
次第に周辺の住民にまで被害が及び、二人はその土地を離れた。
逃げては、見つかり、また逃げる。
こんな生活がいつまでも続けられるはずがないことは、火を見るよりも明らかだった。
無頓着なリコウはそこまで深く考えていないようだが、このままでは絵師としての評判にも影響が出てくる。
その日、男が残した言葉の通り、彼は男を訪ねた。




