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44 獣の気配



 意志が強く真っ直ぐで、目が眩むほどに純真。

 最初、警戒心を剥き出しにしてきたかと思えば、今度は、よく知った仲のように接してくる。

 お互いに知っていることなど僅かで、まともな会話をしたのは今が初めての相手に、ここまで距離感を無視してくる者がいただろうか。


 慣れない距離の詰め方に少しの戸惑いを覚え、この場を抜け出す言い訳を探している間にも、曰く、『素晴らしき上官』についての、完全な身内話が始まった。


 当然、最初から賛美の嵐だ。

 小さい体のせいで周囲に落ちこぼれの烙印を押されたシユを、偏見なく実力を認め側に置いてくれたこと。

 己の出世と地位にしか興味のない腐った連中の中で、疎まれながらもひたむきに仕事に向き合う姿勢。

 その他いろいろ聞かされたが、憧れのせいか、受けてきた扱いのせいで偏見があるのか、多少話を盛っているようにも聞こえなくない。


 すっかり冷めた湯菜を食べ終えてもシユの話は続き、内容も少しずつ変わってくる。

 今は、鍛錬を抜け出して、机仕事ばかりに精を出す上官を、どうやってやる気にさせるかについての話が始まったところ。


「あの人の戦闘能力の低さはお前も見ただろ?」


「ん……」


 適当な返事だけして聞き流していたダンは、いきなり話を振られて思わず声を漏らす。


 何も言わないわけにもいかず、取り敢えず頼りない記憶を探った。


 案外簡単に思い出したのは、ダンが渡した手紙を読んで怒り狂った商家の当主に、蹴り飛ばされていた時のこと。

 踏みつけにされていたダンを助けようとして、同じように当主の一撃を浴びせられ、受け身も出来ずに転がっていたあの姿。

 それは、武官というにはかなり無理があるように思えた。


「……覚えはありますね」


 体格だけ見れば、武官と言われても違和感はないが、あの醜態を目の当たりにした後では、誰しも疑問を抱いてしまうだろう。


 あれが武官の姿なのか、と。


 しかし、ダンはその疑問が浮かんだと同時に消し去った。


 中官に初めて会ったあの日。

 目の前で振り子のように揺れる銀証、それと同じく左右に揺れる紐の色はかなり高位の役職を意味していた。


 あの若さで中官となり、その中でも高位に役職に就いている。

 実力があるからだと思っていた、それが、戦闘においてはむしろ足手纏いでしかない。 

 その時、偶然、たまたま、何かが原因で、調子が悪かったのだ、と頭の悪い理由をつけて納得していた。

 そうして忘れていたのに、こうもはっきり話題にされると誰が思うだろう。


 考えが足りないのか、考えた上で話したのか、それほど重要な事ではなかったのか。

 シユの意図が、いくら考えてもダンにはわからない。


 考えるだけ無駄だ、気が滅入る。


 世の中、知らなくていいことの方が多いもの。

 特にたばかりごとに関しては、考えるだけ時間と労力が無駄になる。


 別のことに意識を向けようとした時、ふと炊事場に人影が現れる。

 食事を終えた人々が先をたつ中、ダンとシユの二人だけが長々と居座っているので、給仕係がちらちらと顔を出していた。


「日頃から、ご自分の身を守る術だけでも身につけていただきたいと言っているのに」


 背を向けた表の通りが随分と賑やかで、時間的にもそろそろ出発したい。


 だんっと卓が叩かれる。


「それなのに! 毎回理由をつけては逃げてしまわれる。最近では、人には向き不向きがあるとがで取り合ってすらもらえないんだ」


 絡ませた指を額に押し当てて、さも深刻そうな雰囲気を纏う。

 その横で、ダンは欠伸を噛み殺した。


 心底どうでもいいな。


 話に夢中になっているシユは気付いていないが、この時のダンの表情は『無』そのもの。

 無感動、無表情が服を着て歩いていると言われるダンだが、人並みに嬉しくなれば頬が緩むし、腹が立てば顔が強張る。

 人よりその変化が微々たるものであるが故に誤解され、倦厭されることも多々あったが、ある程度知った仲になればそういうそういうものだと理解し、長く一緒にいれば表情の変化も見て取れるようになる。


 ただこの時ばかりは、誰が見ても無表情だと思うほど、ダンの顔から感情が消えていた。


「やる気を引き出すにはどうすればいいと思う?」


 いつからお悩み相談になった。


 思わず出そうになった言葉を飲み下し、愛想笑いすらも面倒になったダンは、真顔というには冷た過ぎる表情で言い放った。


「何が意欲を掻き立てるのか、それは人それぞれ違いますからね。知りませんよ」


「意欲を掻き立てる……」


 シユは言葉の一部を復唱し、軽く握った拳を口元に当て、何か考えている。


「あのう……」


 流石にうんざりしてきた時、おずおずと給仕係が炊事場から出てきた。

 遠慮がちに掛けられた声に、シユははっとして顔を上げ周囲を見回すと、やっとこの場に他の客がいないと気付いたらしい。

 それと同時に、勢いよく立ち上がった。


「付き合わせて悪かった」


 給仕係の一声で話が途切れ、熱が冷めたのか軽い挨拶だけを残して、用済みとばかりにあっさりとその場を立ち去る。


 本当は、勢いに任せて話すぎてしまった事に内心焦って、逃げ足になっていただけなのだが、そんな事をダンが知る由もなく。


「身勝手な男だな」


 もう見えないシユの背中に向かって、そう小さく呟いた。



**



 部屋に戻って少ない荷物をまとめ終え、馬の準備をしに厩に向かうと、なんだか騒がしい。

 視界に入ったのは、興奮した様子の馬が暴れて、落ち着かせようと近づいて来る男に向かって棹立ちになる光景。

 状況を理解して直ぐ、地面を蹴って男の元に向かった。

 暴れているのは、ダンが乗ってきた馬。

 あのまま踏まれて、怪我でもされたら困る。


 無謀にも真正面から向かっていく男の首根っこを掴んで引き離し、宙を泳ぐ手綱をなんとか掴み取る。


「大丈夫だ、大丈夫」


 馬は落ち着きなく地面を掻いていたが、声を掛けながら撫で続けると次第に落ち着きを取り戻す。


 同じくこの騒ぎに集まった店の男たちは、手を貸す様子もなく離れたところから見ているだけ。

 激しく地面を掻くひづめが恐ろしくて近づくのを躊躇っているのかと思ったが、彼らの表情を見れば違うことは明らかだった。


 視線の先には、引っ張られた勢いで地面を転がり、身体中を藁と土まみれにした下働きの男がいる。


 嘲笑。


 本人を前にして口元を隠す素振りもなく、笑い物にして楽しんでいるのだ。


 醜悪で陰湿な悪意を向けられた男は、へらへらと気の抜けた笑み浮かべるだけで、気にしている様子はない。


「いやあ、助かりました」


 薄汚れたお仕着せを着た男は、顔についた藁もはらわずに、何度も頭を下げる。

 その姿を上から下までなぞり、動作に不自然さはないか、出血などはしていないか確認して、無意識に止めていた息をゆっくりと吐き出した。


「すいません、出発される頃だと思って準備をしていたのですが、こいつの金具が噛んだみたいで……」


 申し訳なさそうに、抱えた馬具を見せてくる。

 馬具の長さを調節できる金属部分が、馬の皮膚を巻き込んだと言いたいらしい。

 見えすいた言い訳だ。

 それは一度長さを調節すれば、何度もいじる必要のない部分であり、もし長さを変えるとなると、別の馬に取り付ける場合のみ。

 加えて、金属部分が直接当たらないように革の保護も付いている。


「お互い、怪我がなくてよかったです」


 何かを隠そうとしているようだが、さして興味がないダンは男の抱える馬具に手をかける。

 男の姿を見たらまた馬が興奮するかもしれないので、代わりに手早く準備を済ました。

 その間に男は一度姿を消し、戻ってくると水の入った竹筒をダンに差し出してくる。


「よかったらこれを、汲んできたばかりです」


 受け取ると、またへらへらと情けのない笑みを浮かべていた。


「この先は獣がよく出て危ないですから、気を付けてください」


 そんな忠告までもらい、宿をあとにする。


 しばらく馬を走らせて実感したのは、話に聞いていた通り田んぼがかりの景色が続いるが、殺風景とはまた違うと言うこと。


 収穫時期の近づいた田んぼは、黄金色の稲穂は重い頭を垂れて、撫でるような風の中で揺れている。

 その中に転々と、民家が埋もれていて、なんとものどかな景色だった。


 途中見つけた、ちょうどいい木陰で休憩を挟み、馬には沢の水を、自分は竹筒の水で喉を潤す。

 一晩寝たとて、腰の違和感はなくならず、座るのも少し辛い。

 程よい傾斜なので寝転んでみると、かなり楽になる。

 危険と聞いていた割には、見晴らしもよくて獣の気配すらないので、今のところ順調そのもの。


 カサ。


 頭上で葉の擦れる音がする。

 上半身だけ起こして振り返ってみれば、腹を空かした獣ではなく、籠を背負った男と、農具を担いだ男と目が合った。

 彼らは一瞬動きを止めたが、ダンが挨拶をする前に去って行く。


 理性を失った獣じゃなくてよかった。


 重い腰を持ち上げて、服についた汚れをはたき落とす。

 ここからもう少し行けば、小さな町がある。

 町に着いたら用事を済ませて、何か美味しいものでも食べよう。

 朝に思わぬ邪魔が入ったことで、ダンの腹は十分に満たされないまま、水を飲んで誤魔化している状態だ。


 空になった竹筒を沢の水で満たし、何を食べようかと想像しながら、町まで馬の背で揺れていた。



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