4 銀証
夜だと言うのに賑わいを増す表の通りを背に、ダンは空になった酒桶を店の外に積み上げる。
決して安くないこの酒を、こうも次々と空けてしまうあの客は一体何者なのだろうか。
役人か金持ちなのは間違い無いが、こうも頻繁に店を訪れる事が出来るとなると、暇と金を持て余した独身男性。妻子がいる客も少なくないが、頻度が違う。
積み上がった酒桶が四つ目を超えた時、見上げるダンの肩を誰かが強く引く。
よろけるようにして振り返ると、顔を布で覆った男が息を切らし、高い位置からダンを見下ろしていた。
唯一隙間から覗く目元も、男の背後の通りの灯りで影になってよく見えない。
「匿ってくれ」
男はダンに詰め寄った。背後の通りを気にしているのか、何度も振り返る男の様子にダンは不信感を抱く。
「入り口なら表にあります」
ダンの訝しげな視線に気づいた男は、口元の布を解き顔を晒すと、今度は両肩を掴み覆うように覗き込む。
よく見えるようになった端正な造りの顔が、訴えるように微笑んでいる。
「少しの間でいい、中に入れてくれ、な?」
人相がわかったところで見知らぬ人間を店に入れるわけもなく、ダンの態度は変わらない。
ダンが返事をしない事に、男はしばらく考えるように目を瞑る。
何かを覚悟した表情で懐を漁ると、取り出したものをダンの前に差し出した。
薄い銀板に中官の文字が刻印されたそれは、銀証と呼ばれるこの国の官職に属する者の証だった。
彼らは最高位の四官によって統括された巨大な組織。
その頂点たる四官の皇帝に対する忠誠心は凄まじく、国を脅かすものは身内や皇族であっても容赦しないと恐れられている。
不審者にしか見えない男が、この国の役人だと言うのだ。
「追われてるんだ、理由は後で話すから」
国に努める役人にたてつくという事は、それだけで罪になる。冷たく汚い牢屋に入れられ、残飯のような飯を無理やり口に詰められると専らの噂だ。
男は紐に繋がれた銀証を、ダンの目の前で揺らしてみせた。
通りの灯りを受けて光るそれを見てしまったダンには、断るという選択肢など無い。
「…どうぞ」
中に入れたはいいが、このままここに置いておくわけにもいかない。
華女達に見つかったら、余計に面倒な事になるのは目に見えている。
頭から布を被ったその男の顔を明るいところで見ると、さっきより随分と印象が変わる。
整った顔に細身だがしっかりとした肩幅は武官のようだが、少し不思議な雰囲気で、いかにも女が好みそうな男だった。
男がいつまでここに居るつもりかわからないが、まだ仕事が残っている。
「女達に見つかると面倒なので着いてきて下さい。貴方ような方をお通しするような所ではありませんが」
隣にいると、少し見上げなければ顔も見えない男は、店の裏側が珍しいのかキョロキョロと周りを見渡している。ダンが小さいわけではない、この男が大き過ぎるのだ。
「匿ってもらえるなら構わない」
先を行くダンの後を着いて来る男の声はどこか楽しそうで、さっきまでの焦りようは一体なんだったのかと疑いたくなる。
裏口近くの仕事場には少なからず人の出入りがある。ただダンがいる場合、その奥にある貯蔵倉庫に誰かを入れる事はほとんど無い。
その為、男をその中に案内した。
「ここにいて下さい。貴方の事は主人に報告しますから」
聞こえていないのか、返事をする必要がないのか。男は奥へと入り、並べられた酒の銘柄や産地の書かれた札を次々と手に取っている。
こんな所まで入れる必要があっただろうか。
男の背中を眺めていても、答えが見つかるわけでも無い。大人しくしているようなので、ダンはそのままにしておくことにした。
男の気配を感じながら、次々と注文される酒の用意でタンバの元に行くことが出来ないでいた。
倉庫に入るたびに男が視界に入り、煩わしい。
しかし、慣れると景色の一部と捉える事ができるようになり、仕事の効率は上がる。
ただ、必ずしも良いことではない。
一番忙しくなる時間が過ぎ、店の中も落ち着いてきた頃に、タンバが差し入れを持って来る。
習慣となったこの時間、ダンも仕事の手を止めて一息つくためのお茶を入れていた。
「今日はもう駄目ね。さっき外が騒がしかったけど物盗りが出て警備兵が走り回ってただけだった」
差し入れの焼菓子を皿に盛り、茶を啜りながら何気ない会話をする。会話と言っても、タンバがひたすら話をして時々相槌を打つだけで、ダンが何かを話す事はない。
ダンが菓子に手を伸ばすと、タンバとは違う手が同じように伸びていた。
目が合ったダンに微笑みかけ、菓子を一つ頬張ると、甘かったのか整った眉が少し歪む。
「俺もお茶をいただけないか。さすがに喉が渇いた」
男の存在を知らないタンバが驚くのは当然だ。
そしてダン自身、あれだけ煩わしいと思っていた存在を何故忘れていたのかと動揺した。
「ダン、この男は誰?」
やっぱり入れるんじゃなかった。
「すいません」
「謝罪はいい、誰だと聞いているの」
こうなると弁解の余地もなく、下手に言い訳なんかした日には、暫くの間食事から貴重な肉が消えてしまう。
「これは申し訳ない。任務中に物盗りと間違われてしまって、無理を言って中に入れてもらった」
さも当たり前のように椅子に座る男はダンの肩に手を伸ばすが、それを避けるようにダンは席を立った。
その様子に、男は困ったように微笑む。
「この子は何も悪くない」
男はダンにしたのと同じ様に、タンバにも銀証を見せる。仕事柄、役人と関わりの多いタンバはそれを見ても落ち着いていた。
「あんたも遂に、男を連れ込むようになったのかと思ったよ」
「違います」
絶対にあり得ないとわかっているのに、わざわざ煽るような冗談を言うのは、ただタンバの性格が悪いだけ。
ダンも一応否定はするが、それ以上話を広げるつもりもない。
新しく淹れたお茶を乱暴に男に差し出すと、いくつか菓子を掴み取り、離れた場所に座った。
「心配せずとも、まだ手は出していませんよ」
「まだと言うのは、そのつもりがあった、と言うことかしら」
「いえいえ、決してそんな意味ではありませんよ」
貴重な休憩時間だと言うのに、全く休まる気がしない。
盛り上がる二人の会話がいつまで続くのかと不安になりながら、下品な内容は耳に入れない様に別の事を考える。
初めて目にした銀証は思っていたよりも綺麗で、いつか門兵が見せてくれた鉄のものとは別物だった。
できるならもう一度、明るい場所で見たいものだ。
最後の菓子を食べ終わった時、ダンはある事に気が付いた。
さっきこの男は物盗りに間違われて追われていたと話した。
役人なら警備兵から逃げる必要なんて無いはずだ。ならどうして銀証を見せて誤解を解かなかったのか、ダン達には身分を明かしたのか。
普通逆じゃないか?
「ダン」
手招きに誘われて重い腰を上げる、促されるままタンバの隣の椅子に座った。
「今ね、お話を聞いたんだけど、中官様は大変お困りみたいなの」
煙管を咥えた唇が不気味に弧を描く。
それがなんだと言いたげなダンの視線をあからさまに無視をして、話の続きを求めるようにダンバは男に微笑んだ。
「君は門兵と親しいらしいな」
話が読めない。
今すぐ彼らの元に連れて行けと言うなら喜んで連れていくのだが、そうではない事は確かだろう。
「少し手伝ってもらえないか?」
トキの申し出に驚きもしないダンは、諦めたようにため息をつく。
拒否ではない、だから了承と受け取っていいものだろうかと男は少し迷った。
ダンの表情を窺うがどうにも読めない。
「貴方が引き入れたんだから、最後まで付き合うのが筋ってもんでしょ」
何も言っていないダンに念を押すタンバは、まるでこの状況を楽しんでいる事を隠しもしない。
どうにもならない事がわかっているから何も言わない、抵抗したところでタンバを楽しませるだけだとダンは諦めた。
「わかりました」