38 艶やかな夜
蜂蜜のような甘い明かりが闇との境を曖昧に、女と男の賑やかな声が夜の静寂を侵す。
昔は静かな夜を過ごすのが当たり前だったのに、今ではその逆、夜に眠ることもなくなれば、昼間の方が静かだと思うようになった。
日常も、人も、時が経てば変化する。
ダンは、眼下で客を誘う華女達が、慣れた手つきで部屋に連れ込んでいく様子をぼんやりと眺めていた。
ある者は家族に腕を引き摺られ、ある者は自ら望んでここに来る。
誰かを憎み、孤独に肩を震わせて泣いた者が何人いただろうか。
ここに売られてきた時は皆同じように沈んだ顔をしているが、それでも境遇を同じくする店の者と過ごすうちに、自然と孤独は薄れゆく。そして今、客を相手にしている彼女達は、誰かに必要とされているこの日常に酔っているのだろう。
人との触れ合いが、欠けた何かを埋めてくれるのだと、どこかの誰かが言っていた。これがそうなのかと気になったが、どうせ自分にはわからないと考えることをやめた。
吹き抜けに面したこの部屋からは、賑やかな広間を見下ろせるようになっている。他の華女達はそこから顔を覗かせて、自分の値打ちを決める客が誰なのかを見届けるのだ。
耳元でチャリと音が鳴る。
動くたびに揺れる、耳飾りの微音が鬱陶しい。
「こんな邪魔なもの、どうしてつける必要があるんだよ」
誰に向けるでもない言葉を憎らしげに溢した。
どうせ誰も見ていないのだから、こんな小物は外してしまおうか。
久しぶりに付けた耳飾りを、指先でくるくると弄る。
よくよく考えてみると、こんな風に頭のてっぺんから爪先まで整える必要はあったのか。
広間とこの部屋はかなり距離が離れている。そこから顔を出している華女の耳飾りの有無など、よほど注視していないとわからない。
吹き抜けを挟んだ向かい側の部屋ならば見えなくもないが、よその部屋を覗き見るような野暮など誰がしようか。
そう思うのとは矛盾して、ダンは暇だからと顔を上げ他の部屋の様子を眺めた。
丁度向かい側にある部屋は、他よりも一回り広くて二人以上の利用客が多い。今も華女の美しい踊りを披露し、男達が酒を煽っている。
随分と盛り上がっているようだが、杯を掲げて煽っている男の声は聞こえても、なにを言っているかまではわからない。
表側の建物は、音が反響せずに消えていくような構造になっている。店内が賑やかでも、騒々しいとはまた違うのはそういうことだ。
ただ、ひと続きになっている裏側は普通の造りで音も良く響き、大声を出せばかなり遠くまで聞こえてくる。
ついこの間も、大部屋の壁の板にひびが入り、衣服は裂け、備品は粉々にするほど激しい取っ組み合いの喧嘩をした華女達がいた。
その音を聞いて駆けつけたダンが止めに入ったが、華女達の熱が冷めることはなく、タンバが来るまで大人しくならなかった。
あんな時、ウルジのように力があればすぐ騒ぎを鎮めることができただろう。
あまり役に立たなかったので、ダンは代わりに壊れたものを直すことにする。
ただ、華女達が引き裂いた依頼はかなり状態が悪くなってしまっており、直しても不恰好になってしまったため作業用に回した。
備品の方は、もう手の付けようがなかったのは言うまでもない。
あれの弁償は一体誰がするのだろうと、ぼんやり考え事をしていた時だった。
ぴくんと肩が跳ねる。
頸を撫でる指に鳥肌が立ち、反射で振り返りそうになるが、耳にかかる吐息で逆に身体が固まった。
「武官の兄ちゃんが見てる」
一瞬だけ目線を下げると、あの目立つ容姿の役人は本当にそこにいて、こちらを見ているではないか。
「目立ってるなあ、女達も目で追ってるよ」
すぐ外した視線の先にいた華女達が、通り過ぎる役人の姿を追っていた。
「女はいいぞ。あんな風に見つめられて、俺ならすぐ部屋を用意するんだがなあ」
浮ついた声色に、ふんと鼻を鳴らす。
この男は女が絡むと、途端に品性がなくなるのは何故なのか、ダンは不思議でならない。
あの獲物を狙う獣のような視線を向けられて、喜ぶなんてどうかしている。
店で働いているからこそ知り得る、華女達のどす黒い裏の思惑は、外の者達が考えているほど可愛くない。
一応、この男も客なので、詳しくは言わないでおこう。
「羨ましいならなればいいじゃないですか、今みたいに」
振り返らなくても、背後にいる男が御隠居の従者であることはわかっている。
しかし、その声は聞き慣れたものではなく別人と言っていい。見えないだけで姿形も別の誰かに変わっていることだろう。
あの屋敷以外でこの男と会う時は大抵違う誰かの姿をしているのだが、顔を覚えないダンにとってそれほど重要なことではなかった。
人を判別する要素は何も外見だけではない。
よく知った相手なら、たとえ顔を作り替えていても判別できる。
「俺には無理。素材の問題で、あれは技術があっても装えるもんじゃない」
そう言って横に座った男は、ダンのよく知る男ではなく、位の高そうな誰かだった。
綺麗に整えているからか、いくらか涼しげな印象だが、あの役人の横に並べば霞むことだろう。
「……まあ」
はっきり肯定するのも悪い気がして、濁すように漏らした。
確かにこの男には、あの役人の纏っているような煌びやかさはないが、素材はそこまで悪くもない。
鑑賞するにはいいとしても、整いすぎた容姿は時に人を遠ざける。
今は別人になっている素顔が、一応男前の部類に入っているのだから、多くを求めなくてもいいだろう。
従者は窓辺に腰掛けて欄干を肘置きに店の様子を眺めるようにして、時折り視線が向かいの部屋を捉えている。
その部屋の客は二人の男。ただ、うち一人はあの場が楽しくないのかずっと下を向いている。
その男は隣で騒いでいる男とは雰囲気が違い、見るからに弱々しく、あの場が居心地悪いのか、背を丸めて存在を小さくしていた。
隣に鎮座するのは、対極のような大男。悪人面がよくお似合いで、酒をかっくらっては隣の軟弱男にも強引に酒を飲ませ、苦しんでむせる様子に腹を抱えて笑っている。
そんな胸糞悪い宴の様子を眺めるだけで、従者は特に何かを話す様子はない。
引っ張り出された身としては、時間を浪費するだけのこの状況は、いまいち理解できなかった。
落ちた髪の束を直すように撫で付けていると、ふと視界の端で寄り添う男女が映り込んだ。
客の胸にしなだれ掛かり、上等な獲物を捕捉した獣のように目を細めている華女を前に、客の男はその卑しい思惑には気付く様子もなく、だらしない顔を晒している。
普段なら気にしないその光景も、この状況では嫌に意識してしまうものだ。
改めて見てみると、窓の開いた部屋で見えるのはどこも同じ構図。触れ合っていないのはダン達くらいだった。
不本意でも仕事はきちんとこなす性格上、「表に出ろ」と言われたからには半端な仕事をするつもりはない。
少し横に移動して、上体を傾ける。身体を引っ付けるように自分が楽な体勢を探しながら、肉厚でしっかりとした男らしい肩に頭を乗せた。
「おいおい、何だ急に」
「別に」
人との接触を嫌っているわけではなく、必要とあらば身体を密接させる事などなんとも思っていない。しかし、ダンが極力それを避けているのも事実。
だから従者は突然の行動に激しく動揺し、静かに狼狽した。
「変に目立つのは嫌でしょう。人の踊る時は踊れではないですけど、紛れておいて損はないはずですよ」
「んー……」
目立っているという点においては既に手遅れだと教えてやるべきか、美しく着飾ったダンを見下ろして少しばかり悩む。だが、その理由を説明しても、納得しないだろうなと、従者は口を噤んだ。
中身はどうであれ、美しい女に化けている今、仕事に忠実なこの下働きにちょっかいをかけないなんてもったいない。
寄りかかるダンの腰に手を回し、自身も身体の向きを変えながら、胸の中に迎え入れる。上背は同じでも体格の違う小さな身体は、驚くほど収まりがよかった。
その行動に対して何の反応もなく、気の抜けた猫のように身体を預けてくる。
斜め上から見下ろせば、大きな黒目を隠す特徴的な瞼が、なぜか薄い緑色に彩られていた。
「どうして、緑色を塗るんだ?」
持ち上がった瞼の下で、ぎょろりと黒目がこちらを向いた。
「さあ。印象がどうとかで、何を言われているのか、よくわかりませんでした」
この手の話を始めると、止まらなくなるマオシャを早々に妨げたので、詳しくは聞いていない。
「ただ、この色は緑ではないそうです。何色かは聞きませんでしたが、別の色も混じっていると」
表から離れて三年も経てば、流行りの化粧品や化粧の仕方が変化していても仕方ない。それでも、その奇怪な色を塗られるときは流石に抵抗があった。
最終的には立場を利用され、無理やりに施された化粧は思いの外、肌に馴染んでいて違和感がない。
不思議に思って尋ねたところ、そのようなことをマオシャは口にしていた。
「俺には緑に見えるけどな」
それはダンも同じだ。
「確か、男女で識別できる色の範囲が違うらしいです。私たちには同じ緑に見えても、女が見れば全く違う色に見える」
昔読んだ書物に書かれていた人体の仕組みだが、本当か嘘かはわからない。
それでも、鮮やかな衣に身を包み、装飾品などで身綺麗に装う女性の方が色の扱いに慣れていることは確かだろう。
どこかの国では、画家や装飾師のように芸術と呼ばれる分野において、男でなくてはならないと言ったような暗黙の掟がある。
その理由は曖昧で、古くから続く風習のように思えた。
書物で読んだ内容など、虚言だと笑い飛ばすような連中だったが、今でもあの考え方は変わっていないのだろうか。
「なんか、そっちの方が得だな」
場所が違えば、捉え方も違うらしい。
男にとっては何気ない一言がったようだが、ダンは思考を巡らせていた。
「それでも、私は静かな方がいいです」
男は首を傾げる。
見える世界が色とりどりで艶やかなのだとすれば、目を開けているだけで騒がしく、疲れてしまいそうだ。
今見えてる景色だけで、もう充分。
「寝るなよ、そろそろなんだから」
「寝ませんよ」
睡魔はない、ただ正直思っていた以上に他人の体温は悪いものではなく、加えて、一日中文字を入れ続けた脳は休息を求めていた。
なので眠るつもりはないが、必要のない労力を無駄にしないようにと、瞼で視界を遮りながら聴覚だけに意識を集中させる。
「お、来た来た。さ、仕事だ」
僅かな休息も叶わないのかと、眉間に皺を寄せたダンは、男の視線を辿った。




