36 仕事
この日、ダンは昼過ぎに目覚めるといつもより時間をかけて湯浴みをし、部屋の掃除を終えてから、ずっと読書にふけっていた。
それもこれも、有能で仕事好き、ついでに口の達者な華女のおかげである。
元々、一人でもなんとか回っていた仕事を、二人で分けるとなると、当然のことながら手の空く時間は増える。
それでも最初は、余裕のできた時間に別の仕事を手伝い、普段気を回す余裕のない仕事を片付けるなどして、有効的に活用できていた。
しかし、それすらも無くなってしまえば、後はただ暇を持て余すしかなくなる。
日が落ちれば、なんなりと仕事はあるが、日の昇っている時間の仕事内容など、一人いれば事足りるのだ。
そこで、ホンファからある提案があった。
効率を考えて昼間の仕事は一人が担当し、後の一人は補佐として待機、状況に応じていつでも動けるようにしておく、というもの。
その提案自体に不満はなかったのだが、担当を決める話し合いで少し揉めることになる。
ダンは当然、自分が昼間の仕事も担当し、ホンファが補助に回ると思っていた。
しかし、彼女は自ら進んで仕事をする類いの人種。加えて、人との対話において言葉を上手く操れないダンは、口達者なホンファ相手には一方的に押し負けてしまい、昼間の仕事は交互に担当することが決まってしまう。
建前上は待機だが、事実上の休暇でもある。
店では、与えられた仕事さえきちんとこなし、店主の許可が出れば、自由に休暇を取ることは許されている。そして、この店で二人の仕事ぶりに文句をつけるような者は一人としておらず、日替わりで必要のない休暇を与えられることになった。
仕事が趣味のようなダンにとって、それを取り上げられてしまうと、他にすることが何もない。
しばらくは、自室でできる裁縫や備品の整備などをしていたが、それも頻繁に部屋を訪問してくるマオシャの告げ口によって、その仕事も取り上げられてしまった。
今日はダンが休暇を取る日。
こういう時に限って、目覚めがいいのだから困ったものだ。
良好な体調に反して動く気にならず、二度寝を試みてみたが、眠ろうと思えば思うほど意識がはっきりしてしまう。仕方なくいつもより時間をかけて身支度を終えた後、普段は気にしない、自分の部屋の掃除を始めた。
劣悪な環境で育ったせいなのか、あるいは変人の医者と一緒に過ごしたせいなのか、育ちの悪さには珍しく、ダンは衛生面で綺麗好き。
部屋に埃や汚れはなく、掃除と言っても主に物を整理するだけだった。
ある程度片付けが終わり、ふと書き物机の端で硯と筆の下敷きになっている反古紙が目に入る。
残りは数枚、補充しておこう。
時々華女達から分けて貰っているのだが、前に貰った分はどこに仕舞ったかと、箪笥の上に置いた行李を下す。思った以上の重量感に首を傾げながら蓋を開け、一番上にある反古紙の束を取り出した。
「あ、」
紙に埋もれるように、見覚えのある書物がいくつか顔を覗かせている。
まさかと思ってほかの行李も開けてみたが、どれも同じようなものだった。
一体いつからここに入っていたのか思い出せず、取り敢えず表紙を確認して、読んだものと読んでないものに分けていく。
ただ、ほぼ全てが手をつけていないものだと、早々に察してしまった。
普段触れない所に仕舞っていたせいで、すっかり忘れていたようだ。
「これ、渡されたのいつだ?」
自身に問うてみるが、意味がない。
とりあえず、いくつあるのか確かめるために並べてみたが、積み上がった本の山に言葉が出てこなかった。
時間的な余裕がないと言うよりは、忘れてしまうほどに事情が混み合っていたのは事実。
たとえ事実がそうであっても、この本の持ち主にとっては知ったことではない。依頼した仕事を滞納されているという事だけが、相手にとっての事実であり、ダンの事情など関係ないのだ。
なにより、ダンがこの本を読まないと、持ち主の仕事に影響がある。
珍しく焦ったダンは、ちょうど時間も空いていたため、邪魔が入らないうちに読んでしまおうと、一番上の本を手に取った。
そうして、今の状況に至る。
なんとか大半は片付いたが、後回しにしていた分が少し厄介だった。
「早く片付けたいのにな」
最初の数頁をめくり、小さく呟く。
残っているのは、他国の言語で書かれているものばかり。
縦書きが横書きへと変わり、ほとんどの文字は曲線で記されて、ものによっては、一部が一筆書きのように一本の線で繋がっているものまである。
「今日中に終わる量じゃないよな……」
とは言ったものの、一度始めてしまえば楽なもので、数を重ねるごとに読む速度を上げていった。
諸事情により、複数の言語に通じたダンは、一般に出回っている書物なら大抵読める。
なので、こうして時々仕事の依頼があると、空いた時間を使い小銭を稼いでいるのだが、こうも複数の言語があっては、思い出すだけでもかなり時間がかかってしまう。
「うう」
喉を落ちるような、くぐもった声を漏らし、本を持ったまま両手を突き上げて、ゆっくりと背筋を逸らす。
知識をつけるためでも、読みたい話があるわけげもなく、これも仕事の一つ。半ば作業と化してしまったが、読書自体は好きなので今とても充実している。
『読む』と言う行為自体が好きなだけなダンは、内容理解しようとしているわけではない。
それでも、一応記憶には残るので、図らずも知識として身についていく。
綴られた文字をひたすらに追い、頭の中で音として再生していくだけの行為。
平和だ。
この平和な時間が続けばいいと思いながら、ふと気配を感じたダンは、部屋の扉を一瞥する。
全てを悟ると、何事もなかったかのように、本の表紙をめくった。
ダンが唯一落ち着ける場所はこの部屋だけ。そう思うのは、ここが私的空間だからではなく、広すぎず狭すぎない収まりの良さからだった。
誰にも邪魔されず、気兼ねなく過ごせる場所などここにはない。そんなもの、望むだけ無駄というものだ。
扉が音をたてて開く。
「つまらないわ」
いつものようにいきなり部屋に現れたマオシャは、開口一番にぼやくとダンには目もくれず、寝台にしなだれた。
部屋持ちの華女が使っている物とは違って、ただ硬いだけの寝台にうつ伏せの状態になると、足先を天井に向けて交互に動かす。
そんなことをするので、するりと裾が落ち、客が見ればたちまち興奮するであろう白い脚が、惜し気もなく剥き出しになっていた。
部屋の扉が開いた瞬間から、一連の流れを見届けて、ダンは小さなため息をつく。
「出ていってもらえますか?」
すぐ視線を本に落としたので、マオシャがどんな様子かはわからない。それでも、どうせ人の話など聞いていないだろうと、半分諦めていた。
本来、この状況はあってはならないこと。
当然見つかれば、双方にそれなりの罰が与えられる。それがどんな罰なのか、ダンは知る由もない。
聞いた話によれば、火遊び程度の相手ならいいが、本気になった相手だと、この罰は相当応えるらしい。
ただ、この二人にそんな感情はなく、頻繁に部屋を訪れるマオシャを周囲が黙認しているのは、間違いが起こるなどと、心配する必要がないからだった。
二人の本当の関係を知る者は数少ない。しかし、それを知らなくともダンの性格と、マオシャの男の好みを知っていれば、面白がる者はいようが、馬鹿正直に疑うような者はいない。
そもそも店が容認しているので、問題となること自体あり得ない話だった。
ただ、そんな周囲の考えなど知らないダンは、いつまでも咎められないことを不思議に思い、それでも周囲の視線に居心地悪さを感じていた。
「何か面白い話とかないの?」
マオシャがダンの部屋に押しかける理由は、主に二つ。
一つは、ダン絡みで何か面白いことが起きた、または起ころうとしている時。もう一つは、時間を持て余し、何か面白いことを探している時。
それらは全て、マオシャにとっての面白い事であり、周囲の人間は巻き込まれ、掻き乱され、飽きたら放置されるのが常だった。
「特には」
ただ面白いことを探している時だと、相手にしなければそのうち飽きて、別の誰かを標的にする。なので、この場合の対処法として、興味を持たれそうなことを口にしないように、気を付けておけばいい。
「そう、ならいいわ」
思った通り、マオシャはいともあっさりと引いていく。
いつも以上の引きの良さを意外に思いながらも、こちらから口を出すわけにもいかず、次の頁をめくる。
すると、布の擦れる音と同時に、本は奪い取られてしまった。
ダンが顔を上げると、少し乱れた髪を整えるように撫でながら、見下ろしてくるマオシャと視線が交わった。
白くて細い指が、首筋を通って胸元で止まる。その妖艶な仕草を客が目にしたなら、生唾を飲んでその後を期待するが、ダンは何の感情もなくマオシャが話し出すのを待った。
「暇?」
小首を傾げる姿は、客を相手にしている時に比べて幼さが滲み出る。これを意識してやっているのだから怖い。
見てわかりませんかと、ダンは奪われた本に視線を向けた。
「あっちの仕事? 随分と溜めていたのね」
マオシャは、目を細めてくすりと笑った。
「……まあ」
この笑い方は、駄目な笑い方だ。
嫌な予感に、ダンは顔を背けて、マオシャから逃げようとした。
「別にね、私は邪魔をしたいわけじゃないのよ」
美しく整えられた眉を緩やかに傾けると、憂う表情と共にため息を一つ。
大層困り果てたといった様子だが、完璧すぎる演技は逆にわざとらしい。
「でも、お婆はあなたに用事があるって言うんだもの、仕方ないじゃない」
刹那の安堵が消えていき、黒々としたダンの瞳は一層曇りながら陰りを落とした。
茶番に満足したマオシャは、目蓋を伏せて動きを止めたダンを面白そうに覗き込み、満面の笑みを浮かべて尋ねてくる。
「私から聞きたい? 本人から聞きたい?」
無駄を嫌うダンは、分かりきった返事をするのも億劫になりながら、仕事に関して手を抜くこともないので、顔を上げてマオシャに向き直る。
「聞かせてください」
歳の割に、子供のような無邪気さを持ち、歳のせいで、したたかさに磨きがかかるマオシャは、流れるような動きで、またダンの手から本を抜き取ると、手を掴んで立つように促した。
人の返答を無視して、自分勝手に振舞うマオシャに、ダンは半ばどうでもよくなって、されるがままに動かされる。
向かい合った状態で、掴んだ手を顔あたりまで持ってくると握り方を変え、お互いの指が交互に絡まった形になる。
その指先を舐めるように見た後は、肩や腰、脚に満遍なく細い指を這わせていった。
「うーん、やっぱり成長してるのね」
ぶつぶつと独り言をぼやき、何かを確かめているマオシャに少し困惑しながらも、頬に触れてくる他人の指先が、思いの外冷たいことを不思議に感じて、自分の指先同士を擦り合わせた。
しっとりしたマオシャの指とは違い、自分の指先は少し乾燥していた。
「時間がないから急いで、行くわよ」
手を引かれ部屋を出ると、廊下で誰かとすれ違う度に、視線が刺さって気持ちが悪い。
軽やかな足音と、重々しい足音が、廊下を勢いよく駆け抜けた。




