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35 華女


 とうに日が落ち明かりの灯った橋には、その途中にある賑やかな街を目指す人が、一体どれだけいるのだろうか。


 行き交う人の流れに乗りながら、ふとそんなことを思ったトキは、同じ方向に進む人々の様子を、なんとなく眺めた。


 煙と共に甘い匂いを運んでくる露店を過ぎて、川下へと別れた道に入った。

 形だけの門と、詰所の前に直立した門兵が出迎えてくれるこの街は、夜の方が活気がある。


 一瞥をくれる門兵は、仕事をする気がないと思いきや、以前盗人と間違われた際、しつこいほどに追いかけ回してくれた。


 今はこうして堂々と街に入れるのだが、下働きの青年曰く、翌日顔を合わせた時は、かなり疑われていたらしい。

 それでも見逃されたのは、隣にいた相手のおかげだろうと思う。


 本人は決して口にしなかったが、後日、こちらの情報伝えることなく、誤解を解いてくれていた事をトキは知っている。


 他の店の呼び子を交わしながら、目的の店に向かった。


 すっかり顔馴染みになった男衆に軽く挨拶して店に入ると、客を迎える女達がトキの姿を目にして白い頬を染め、甘い蜂蜜に酔ったような視線を向ける。

 いつもと同じ光景のようでいて、その雰囲気に違和感を覚えた。


 一階の広間では、いつも以上に華女達が姿を見せ、それに誘われた男達で溢れかえっている。

 その広間の真ん中から続く大階段を囲うように、上の階は吹き抜けになっており、開いた窓から顔を出した華女達が、自分の客の到着を待っている。


 ふと見上げた先の部屋の窓。

 空いた窓の欄干越しに、広間を見下ろす一人の華女が目に入った。


 背後にある部屋の明かりのせいで、華女の顔には自然と影が落ちる。

 その白い肌は、他の女達のように白粉で施した偽物ではない、遠目からでもわかるほどに透き通ったそれは、紛れもない生肌だ。


 しかし、その顔立ちはどこか見慣れない。


 少し窪んだ目元や小さく形のいい唇、化粧のせいもあるのだろうが、この国の者の特徴とはまた違う。見慣れているはずの黒い髪、黒い瞳さえも、自分の知らない言葉でしか表せないような、別の色のように思えてくる。


 伏せられた睫毛の隙間から、店の明かりを受けた瞳が光り、紅を引いた唇はぴくりとも動くことなく、暗く沈んだ表情はこの場に似つかわしくない。

 しかし、暗闇の中静かに佇む花のように、その華女の美しさは損なわれていなかった。


 広間全体を傍観するような眼差しは、いっそ自分が彼女の視線を受けていると錯覚してしまう。

 遠目からでもわかるほどの美しさに、周りの男達が息を飲む音が聞こえてきそうだ。


 同じように見惚れていたトキは、自分が呼吸を忘れていたことに気付き、だらしなく開いた口を閉じた。


「旦那様」


 聴き慣れた声に振り返ると、マオシャ付きの華女が年相応の愛らしい笑みを浮かべ、姉の客を出迎えてくれる。


「賑やかだな」


「そうですか? この時間はいつもこんな感じですよ」


 そう告げる華女の様子に変わった部分はなく、嘘を言っているとも思えない。


 いつもより頭上で客を誘っている華女が多いと感じたのは、今から客が入り出す時間だかららしい。

 ただ、それにしても空いた窓が、異様に多いと思うのは気のせいなのか。


 もう一度見上げてみれば、華女はもうこちらを向いていない。

 華女はどこか遠くを眺めている。吹き抜けを挟んだ向かいの部屋からは、男と女の笑い声がここまで響いていた。


「ん?」


 部屋には、先程までいなかったはずの男が、華女の背後に立っていた。

 華女は男に気が付いていないらしく、揺れる耳飾りを指先でいじる。背後の男が華女の首に手を伸ばし、その指が触れた瞬間、華女が微かに震えた。


 固まった華女の耳元で男が何かを囁くと、華女が一瞬こちらを見た気がした。

 自分に視線を向けられたのだと確かめる間もなく、案内をする華女の声に意識が引き戻される。


「旦那様?」


「いや、行こうか」


 細い腰にそっと手を回そうとするが、華女はくるりと身を翻してそれを避ける。


 正式な客以外には極力触れさせない決まりがあるらしく、今まで彼女に触れたことは一度もない。しかし、トキはそれを不快とは思わず、こんなところなのに慎み深い、と感心さえしていた。


 大階段を登り、一番上の階にあるマオシャの部屋を目指す。

 その途中の踊り場で、階段の入り口に人が集まっていたために、仕方なく立ち止まった。


 その一瞬、視界の入り込んだのは、男にしなだれかかった華女。


 先程までの感情のない表情ではなく、少し緩んだ表情に、相手に気を許しているのがわかる。

 男の表情には驚きが浮かび、しかし狼狽える様子はなく、それに応えるように男は華女を抱き寄せた。


 何もおかしなことはなかった。

 周りを見渡せば、同じように身を寄せ合う男女ばかり。それがここの日常風景なのだから。


 しかし、退屈そうに眼下を眺め、表情ひとつ動かさなかった華女が、うつらうつらとしながら男の腕の中に収まっている。

 それを目にした途端、見てはいけないもの見た時のような後ろめたさを感じた。


 そう感じたのは、あの華女の、他人をそこにあるだけの存在としてしか見ていない態度が、トキのよく知る人物と、そっくりだったからかもしれない。


 日が落ちてからのこの時間は、きっと仕事の真っ最中だ。


 掻き入れ時の忙しさは、たとえ警備兵から逃げ回ったせいで喉が渇き、これ以上ないくらい水分を欲していたとしても、恐ろしいくらいに集中した背中に、声をかけるのを躊躇うほどだった。


 呼び出しなんてしたら、また、気怠げな瞼の奥で冷たく憤怒した瞳に見上げられるのだろう。

 それでも、初めて会った時に比べれば、嫌がられても意識されている今の方がいい、などと思うようになってきた自分は、どうかしてるのかもしれない。


 思えば、無愛想な態度だけで、連想したのがなぜその他対極の下働きだったのか。

 そう考えると可笑しくて、頬を緩めていると、隣の華女が不思議そうな顔をする。


「何でもない、気にしないでくれ」


 側から見れば、いきなり笑い出すような不審な男に、華女は愛らしい笑みを浮かべて。


「いきましょう」


 と、ようやく通ることができるようになった階段に向けて、綺麗に揃えた左手を前に出し、進むようにトキを誘導した。

 


 


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