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34 視線


 鬱陶しい視線に痺れを切らし、ダンは肩に置かれた手をできるだけ丁寧に振り払う。そしてで叶うことなら速やかに、この場を離れることだけを考えた。


「足抜けするのにあの赤い色は目立ち過ぎます」


 ダンの視線の先では、筵に収まりきらない艶やかな赤い袖が広がっている。


 店でも人気の意匠デザインで、その特徴は大きく揺れる袖と、引きずるほどの広い裾。そんなものを着ていれば、濡れていなくても動きの制限がつく。


 本気で逃げ出すつもりなら目立たず、動きやすい恰好を選ぶだろう。


 見たところ素材は一級品で、仕上げた仕立て屋の腕も良さそうだ。逃げた後の資金面で利用できるかもしれないが、ああ言う派手なものは印象に残りやすく、簡単に足がついてしまう。


 簪などの装飾品の方が小さく邪魔にならず、量も持ち運べるから持ち出すならその方がいい。妓女だから外の事を知らなかったとしても、少し考えればわかる事だ。


「それもそうだな」


 その事には気付いていたらしく、妓女を見ようともしないトキは小さく頷いた。


「だが、それだけだ」


 トキの言うとおり、それだけ。それだけでは、足抜けを否定する理由としては弱すぎる。


 さっきの会話から、もともとあの妓女には何かがあるようなことを言っていた。それがなんなのかは知らないが、事件性を示すものが出れば、単なる事故としては処理されないはず。少なくとも前後関係の調査や、医官の検死は行われる。


 それならば、今ダンがすべき事はこれが事故ではなく、事件であることを示すこと。その為にはもっと直接的なものが必要で、ダンはそれを見つけている。しかし、自分の口から伝えることを躊躇っていた。


 自意識過剰と言われるかもしれないが、トキからは何かを探るような視線を向けられている。人の機微に鈍感なダンが気付く程にあからさまに、けれど不自然ではない。それがいつからと言えば、女物の髪飾りを渡されたあの時だ。


 あれからできるだけ関わらないように避けていたのだが、路地裏の一件依頼、何かと顔を合わせることが増えていた。時にその存在は都合よく、今も僅かながらに助けられている。


 ダンは人の死に涙を流すような性格でもなければ、犯人を捕まえてやろうなどという正義感も持ち合わせていない。そして、誰かの死を無視できるほど大人でもなかった。


 少しでいい。少し事件性があることを、匂わせれば後は勝手にやる。相手は武官、こう言う現場に慣れている。だったら今から話す事もすぐにわかるだろう。


 自分の中で絡み合う何かを吐き出したくて、また言葉が溢れてきそうだったが、今回はなんとか抑えることができそうだ。


「中官様は死人が一人でに動くと思いますか?」


 馬鹿げた質問だと思いながら隣を見ると、同じ事を考えていそうな表情の男がダンを見下ろしていた。


 ついでに、トキの中での評価を下げてくれればいいと、別の思惑も混同してしまった。


「あるはずないだろ」


 どこか幻滅したようなトキは、ため息混じりに吐き捨てた。術師について子供のように語っていったわりに、死者の甦りについてはこうもはっきりと否定する。


「ですよね」


 そこは現実的だと少し安心しながら同意する。ダンとて、そんな事は信じていない。しかし、質問の意図を図りかねたトキは、またため息を吐く。


 以前のように何かあるのではないかと、下働きに何を期待していた。そんな自分が馬鹿らしくなってきて、苦笑を浮かべるしかない。


「結局、お前は何が言いたい」


 この前の時とは違い、今は呑気におしゃべりの相手をしている暇はない。

 ちょっとした好奇心からきた行動だったが、聞いた手前こちらから話を切る事もできず、そんな気持ちからか答えを急かしていた。


「不思議なんです」


 ダンの白く長い指が唇をはじく。わざとらしくならないように小首を傾げ、従者の男が言った言葉と矛盾を生まないように言葉を選ぶ。


 我関せずと言った態度だった従者が、大きな咳払いをする。拳で隠していても、頬をが痙攣しているところを見ると、笑うのを耐えているとしか思えない。


 後で話の種にされるのは諦めよう。


 どうすれば自然な流れにできるのか。誰でも知っている事だけで説明するには、普通の()()をするのが一番だ。


「動かぬ死人がここにいる」


 ダンが独り言のように呟いた。


「それは一体誰の仕業でしょうか」


 視線の動き、間の置き方、声の抑揚。マオシャ仕込みは伊達じゃない。随分と昔のことだが、よく覚えていたものだと自分で感心しつつ、相手の反応を待った。


「ふざけているのか?」


 少し間のあいた、絞り出したような声だが、当然の反応だった。だが、こっちはふざけるどころか、頭を酷使して糞真面目に考えている。


 どうやら、その努力も虚しく失敗に終わってしまった。


 わけではないらしい。


 後ろにいた武官がダン達の間を抜け、一直線に妓女の元に向かうと膝をつき、筵をめくり上げた。そして何を思ったか、女の顎を掴み口を開かせると、中を覗き込む。


 しかし、それではよく見えない。ダンがそう考えると同時に武官が顔を上げ、今度は指を口の中に突っ込んだ。


「あいつ、なにしてるんだ……」


 自分の部下の奇行に驚きを隠せないトキは、その場で固まっている。それを横目に眺めていたダンに、振り返った武官が問いかける。


「なぜこの事を?」


 穏やかな表情に優しげな口調、しかし、目だけは笑っていない。


「息をしているか確認する時に見つけました」


 当たり障りない返答に、武官の目が細くなる。立ち上がると、足早にダンの前に移動した。


「そちらではなく」


 ずい、っと近づいてくる男の顔に、不思議と不快感はない。


「あんな街にいると、こんな場面に居合わせる事は多々あるんです。判別のつく子供でもあれが何か知っている」


 これは事実。


 目の前の武官と交わる視線、先に逸らすわけにはいかない。



『視線はね、思っているより素直なのよ。だから、僅かな瞳の揺らぎさえも、自在に操れるようになりなさい』


 紅の付いた指を追っていた視線を、目の前のに移す。ダンの目尻と唇を紅く彩ると、満足げに微笑んだ。


『女だったら、もっと色々仕込んであげられるのにねえ』


 花街の女にも劣らない美姫と人は言う。

 容姿だけでなく、努力で身につけられるものは貪欲に我が身のものにしたからこその評判でもあった。そんな女に仕込まれたとなれば、嫌でも身体が覚えてしまっている。



 僅かに疑いの残る視線を逸らし、武官はまた妓女の元に膝をつく。


 女の口の中、正確には舌の裏に、小指の爪程の白い粒がぎっしりと詰まっている。水に濡れたせいで表面はぬめり、僅かな光を受けてテラテラと光っていた。


「大きいですね」


 武官の呟きに、ダンは心の中で同意した。


 動物の死体に卵を生みつけ、孵化した幼虫がその身体を糧とする。そうした自然の摂理も、時には証拠となり得るものだ。


 武官が今目にしているのも、その一つ。羽虫の卵だった。


 形や産み付けられた場所などから、ある程度種の特定はできる。卵の成長具合から見て、少なくとも半日は経過している。その間陸上にあった事は確かだが、水没したことによりその生命の糸は切れ、成長が止まっていた。


 そこからわかるのは、妓女は半日前には息絶えていたと言うこと。つまり、禿が見たのは死体だった。証言自体が嘘という可能性もあるが、その辺はどうでもいい。


 問題は、今ここに妓女の死体があるということ。水路を流れ、その途中で見つかった。


 死人が一人でに動くことなどありはしない。


 誰かが故意に動かさない限り、じっと静かに見つかるのを待っている。


 武官がこれについてどれだけの知識を持っているかわからない今、下手なことは口に出せない。出すべきではないから、それ以上は何も言わずにダンは大人しくしていた。


 こう言う時、体が疼いてしまうのは、あの人に似てしまったからだろうか。


 過去に幾度となく見てきた光景と、今の自分の行動を重ねてしまい、そんな考えが浮かんでしまう。それを払うように目を瞑り、否定はせずに思考を放棄した。


 その後、妓女を預かっていいかと武官が訪ねたところ、楼主の妻は拒否するどころか、持っていってくれるならありがたいとまで言った。


 忌を嫌う人は多い。物陰で誰かが息絶えている光景は珍しくもないが、触れる事は憚られるらしい。


 花街であれば夜鷹がころっといっていることも多く、病持ちがほとんどで処理の方はそっちの専門に任せているのだろう。


「本当に知らないのですか?」


 牛に牽引させた荷車に運び込まれる様子を眺めていると、また知らない間に後ろにいた武官が、ダンにだけ聞こえる声量で呟いた。


「なんのことでしょう?」


 質問を質問で返すのは無粋だ。けれど、何を問われているのか理解していることも、肯定したのと同じになる。


「目撃者の三人は、あなたが口に手を入れていたと言っていましたが」


 だから迷わず一番に口の中を見た。


 また笑っていない目が、ダンを捉えて離さない。有能な部下がいたものだと、記憶に残る中官の顔を思い出す。


 自分の部下が死体に触れるのを目にして、まるで娘のように顔を青くしていた。この仕事をしておきながら、その類が苦手とはいかがなものか。


 前は普通に触れていなかったか、と記憶を辿るがはっきりとは覚えていなかった。


「まさか、見間違いでしょう」


 最後までボロを出さないよう、気を引き締める。


「武官様のように触れるなど、私にはできません」


 



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