33 違和感
煽ってきた兵が武官に事情を説明している間、ダンは目の前を歩く一匹の蟻を観察していた。
蟻は同じ場所を行ったり来たり、ずっと何かを探している。周りに他の蟻は見当たらず、何かの拍子にはぐれたのかもしれない。
きっと、巣への帰り方がわからないんだな。
つい関係ない事に気を取られ、駄目た駄目だと目を瞑る。
武官達のはや過ぎる登場に、ダンは言い訳一つ考えられていない。せっかくの機会を逃すまいと、酒の残る頭を働かせる。
「その者達の話も聞こう」
近付いてくる足音がすぐ近くで止まる。今の体勢で下から見上げても顔は見えないが、それがトキの声であることはわかった。
「放してやれ」
「えっ、ですが」
ダンを拘束している兵の力が少しだけ強くなり、骨が軋むような音がする。武官相手に緊張していると言うとりは、命令に対する抵抗の意思のようにも思える。
ダンも拘束を解かれる意味がわからなかった。
まだ何も事情を説明していないのに、拘束を解くのはおかしい。それに妙に到着が早い気がしたが、考えすぎだろうか。
「放してやれ」
トキが兵と視線を合わせるように膝を折り、念を押すようにもう一度言った。
武官の言葉に従うか否か、答えはすぐに出たようだ。
ダンは体を起こして、ゆっくりと肩を回す。無理な方向に曲げられていたせいか、少し痺れた感覚が残る。
隣では同じように拘束を解かれた男が、こちらを見て自分の頬を突く。その仕草の意味がわからずに怪訝な表情を浮かべていると、視界の端で手が伸びてくるのが見えた。
思わず体を大きく逸らして避けてしまい、目が合ったトキは男と同じように自分の頬を突く仕草をする。
「土がついてるぞ」
そう言われて自分の頬に触れてれば、確かに土の感触がある。地べたに押さえつけられていた時についたのだろう、と袖で適当に拭った。
「発見時の状況を説明していただけますか?」
どこか見覚えのある武官が、仕事をしないトキの代わりに説明を求める。随分と腰の低い武官だと思いながら、用意していた台詞をなぞっていく。
「食事をした帰りに、友人が気分を悪くしてこの場所に来ました」
隣の男の顔はまだ青白く、近くにいると酒くさい。
男に足元に落ちたダンの手ぬぐいにはその残骸が付着し、独特の異臭もある。これが嘘ではないのはわかったのか、武官が小さく頷いた。
本当ならこんな面倒な事は、隣であくびを噛み殺している男に任せたい。ただ、この状況では自分が話した方が上手く事が運びそうなので、ダンは仕方なく拙い言葉を並べていく。
「あの板に何かが引っかかっているのが見えて、少し気になったので近づいてみたんです、そしたら、かなり上等な品だとわかりました、そのままにしておけば傷んでしまうので水から出そうと板を動かして、そしたらあの女性が」
ダンの視線の先には全身ずぶ濡れの女の死体、その近くにある板も動かされた事は見て取れる。こうやって、証拠を見せながらの状況説明は楽でいい。
「急いで引き上げて、息をしているか確認していた時にあの方達がやって来ました」
目撃者の三人は、ダンの視線が向いた途端に身を固くした。
ダンが女の口に手を突っ込んでいた場面を、この三人がちゃんと見ていたのか、どう説明したのかはわからない。
しかし、この薄暗がりの中、自分が見たものが正しいと、確たる自信もないだろう。
こういう時は、事実の中に少しの嘘を織り混ぜると、馬鹿正直に話すより真実味が増す。
誰かがよく使っていた手だ。
「わかりました」
さて、これからどうしたものかと、武官達の様子を窺う。
ダン達を犯人だと決めつけていた兵とは違い、武官達が疑いの目を向けてくる事はない。そればかりか、目撃者の三人は事情を聞かれた後、すぐに帰された。
自分で言うのもなんだが、一番の容疑者を捕まえた兵達も空気のように扱われている。まるでお前達に仕事は無いとでも言っているようで、なんとも不憫だ。
ただ、ダンと従者の男だけは残されたまま、それぞれ武官が横に立っている。当然ダンに付いているのはトキだった。
「この辺りではよく、足抜けしようとした技女が見つかる」
トキの説明に、なぜそこまで疑われていないのかわかった気がする。
高い塀に囲まれた大きな町、そこから逃げ出すのは簡単ではない。
幾人もの妓女が逃げ出し、失敗を繰り返していくうちに、様々な方法が生み出された。
その一つに水路を使ったものがある。外と直接繋がった水路に潜って抜け出すと言う単純な方法だが、決して簡単ではなかった。
見つからないために、出来るだけ息継ぎを我慢しなければいけない。
顔を出せば当然見つかる可能性があり、実際塀から出る前に何人も連れ戻されている。
なにより、その方法で塀から出ることができたとしても、その時生きている可能性は低い。
その死因は溺死。
拳ひとつ分の深さでも人は溺死する。それが狭く動きづらい水路の中ならば、もっと高い確率で人は死ぬ。
それでも足抜けしようとする妓女たちは、外の世界に何を望んでいたのだろうか。
自由は無くとも、安全な場所だと言うのに。
今の状況から察するに、また一人、外に出ようと試みた妓女がいて、それがダンの引き上げた女と言うわけだ。
「悪いが、身元の確認が済むまではここにいてもらう」
もし違っていたら、また疑われるのか。
遠い目になりながらも、ダンの中で何かが引っかかっていた。その違和感の正体がなんなのか知りたくて、訳もなく辺りを見回した。
ちょうど、濡れた女に筵がかけられようとしている。水の中にいたせいで少し水分を含んでいたが、赤の似合う美しい女だった。
「連れてきました」
そう言って現れた小男は、ダンを見てあからさまに眉を顰めた。
前にも何度かこんな事があったはずだと記憶を探り、この間の薬屋での出来事を思い出す。あの時とは違い、官服を着ているので少しだけ大人っぽく見える。
後ろには初老の女がついて歩き、この場の人の多さにか眉間に寄せた皺を増やしていた。
「では、確認を」
めくった筵から露わになった女の顔を見て、初老の女は大きなため息をついた。
「うちのに間違いありません」
女は額を押さえて、きつく目を瞑っている。
「あれは楼主の妻だ」
聞いてもいないのにトキが耳打ちをしてくる。
しかし、その立場ならこの状況は受け入れ難いだろう。
稼ぐための商品が一人死んだとなれば、損害は必ず出る。あの妓女の容姿では、それなりに稼いでいたことだろう。
「普通なら足抜けした妓女の捜索はしないんだが、あの妓女には少し問題があってな」
ダンは思わず舌打ちしそうになる。ここは、下民にそんな話をしていいのかと指摘するべきなのか、それとも聞いていないふりをすればいいのか。
ん? 足抜け?
指先にはさっき触れた妓女の感触がまだ残っている。決して酒に酔った幻覚などではなく、その時見たものは確かにあった。それを見た瞬間に久しく感じたあの感情の昂りも嘘ではない。
「いつ、足抜けに気づいたんですか?」
今度はダンが耳打ちする。普通は聞いたところで教えてもらえるような情報ではないが、なんとなくトキならば教えてくれそうな気がした。
だがすぐに後悔する。問われたトキは人の肩に手を置いて、何かを企んだような笑みを浮かべているだけだった。
どうしてだか、その表情を見ていると無性に腹が立つ。
「知りたいか?」
肩に置かれた手を振り払いたい気持ちを抑えながらも、トキを見る目が以前のように冷ややかになっていた。
この男に付き合うだけ時間の無駄だろう。これ以上関わらないで済んだのだから、逆に良かったのだと自分に言い聞かせる。
少し自分の欲望が表に出てきてしまっているのは、きっと酒のせいだ。
「日没前ですね」
どこからか現れた武官が、トキとは反対側からダンに言った。
その声に振り返ると、やはり見覚えのある顔の武官は、目が合ったダンに微笑んでいる。なぜこの武官が教えてくれるのか不思議でならないが、今はそんな事どうでもいい。
すぐにでもこの場から逃げ出すか、無理ならば耳を塞いでしまいたい。
そう思う自分と、もう少しだけなら大丈夫だと思う自分がいる。
「店の準備が始まる頃に一度、店の禿が眠っている姿を見ています」
つまり、消えたのはその後と言うわけだ。
それが本当だとすれば、あの妓女は足抜けに失敗して死んだのではない。そう自分の中で答えが出てしまう。
「納得いってない顔だな」
武官達が現れてから一言も喋らなかった従者の男が、最後の最後に余計な事を言った。そのせいでトキが顔を覗き込んでくるので、鬱陶しいことこの上ない。
最後まで黙ってろよ。
そう口に出す代わりに、今は睨むことしかできなかった。見たところ酔いは覚めているようで、どうなるかわかっていて、わざと言ったのだ。睨むくらいは許される。
「納得いってない顔?」
「私のことはお気になさらず、ご自分の仕事をしてください」
言ってはみたが、トキが離れていく様子はなく、これ以上無視すれば、また仕事の中に店に来るかもしれない。
こうして外で会うならともかく、あの部屋で二人きりになるのは嫌だった。
他人を気遣う事が苦手なダンにとって、接客は苦行以外の何ものでもない。トキが相手なら、尚更のこと気疲れする。
背けていた顔を戻すと、トキと視線が交わる。
整った顔の男は驚いたように目を開き、すぐに目を細めてうっとりとした顔で微笑んだ。
その恐ろしく美しい男を間近で見てしまい、思わず目を細めておぞましい視界を遮っていた。




