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31 酒と馬




 空には分厚い雲が幾重にも重なり、今にものしかかってきそうな重圧感がある。連日の暑さがどこに行ったのか、今日は少し肌寒いとまで感じるほどだった。


 こんな日は頭痛に苦しみ気分が陰鬱になると人は言うが、逆にダンはこんな日の方が動きやすい。


 門兵が橋を渡る人混みの中にダンを見つけると、大きく手を振った。昼間で人も多く、周囲の視線を集めた兵は、すぐに手を引っ込めて姿勢を正す。


「最近、またお使いが増えたな」


「本当に」


 小さく愚痴を漏らしながら、ダンはひらひらと手を振って門を出る。今日は熱のせいで先延ばしになっていた、この前の成果を御隠居に報告しに行く事になっている。店の事は最近来た華女に任せきりになっているが、本人が嬉々として働いているようなので問題ない。


 露店で買った串焼きにかぶり付きながら、橋から見て都の反対側まで歩いて行く。馬を使えばそれほど遠くはないが、馬もさして便利なものでもない。


 乗合馬車は安いが目的の場所までは連れて行ってくれず、なにより屋敷のある村に行く馬車はない。馬一頭借りるとなると、懐が一瞬で凍えてしまう。


 他人のためにそこまでしない。適度な運動だと自分に言い訳しながら、いつもより軽い足取りで人々の間を縫っていく。


 いつもと変わらず閉ざされた門を叩けば、従者の男がダンを招き入れる。そしていつもの部屋、いつもの席で御隠居を待った。どうやら今、珍しく客が来ているらしく、しばらくかかると言われた。


「何か飲むか?」


 そしてその間、従者の男がダンの相手をしている。


「はい」


 従者の男が持ってきたのは、茶器ではなく酒器だった。傾けた酒瓶から注がれる、透き通った赤黒い液体。独特な香りが鼻腔を刺激し、ダンはため息を吐く。


「葡萄酒だ、飲めるだろ?」


 飲めるけど。


「仕事中ですよ?」


 ダンはともかく、今この男が酒を口にして良いわけない。従者であるこの男がそんな馬鹿な事をするとは思えず、ダンは男の顔をじっと見つめる。


「これも仕事だよ」


 つまり、御隠居の指示と言うわけだ。意図はわからないが、人の仕事を邪魔するわけにもいかない。そう納得して、ダンは杯に視線を移す。


 少し揺すれば溢れてしまいそうな赤い液体に、そっと唇を近づけた。


 ダンが一口飲むと、従者の男も杯を傾ける。気に入ったのか、あっという間に飲み干して、新しく酒を注いでいた。


 普段酒は飲まないダンだが、この味には少し覚えがある。しかし、それがなんだったかよく思い出せず、何度も酒を流し込んだ。


「噂になっただけはあるな、確かに美味い」


 噂?


 気になって凝視しているダンに、従者が気付いて簡単に説明してくれた。


「前に都で流行った酒だよ、数が出回ってなくて、馬鹿みたいに高い、その味を知った奴らが口を揃えて『天上の酒』と言ったそうだ」


 一口飲めばその芳醇な味に舌と脳はトロリと蕩けてしまい、もう他の酒では満足できなくなってしまう。その酒を巡って戦争を起こした国もあるとか無いとか。


 数ヶ月前、酒屋から聞かされた噂話を思い出した。


 これが?


 怪訝な表情を浮かべ、ダンはもう一度酒を口に含む。確かに美味い酒である事に変わりないが、こんなものが至高の酒と言われているのに少し疑問が残る。


「西の、さらに西の国で作られている酒らしい、なんでも海の……海の、なんだったかな、とりあえず時間と手間がかかるんだと」


 ああ、そう言うことか。


 どこか知った味にも納得がいく。


 どこだったか、果実酒を好んで飲む国を訪れたとき、その国でも指折りの酒を飲んだ事があった。その美味さは例えるなら、天上の酒と言っても良いほど。


 果実酒の中で、という条件は付くが……。


 ただ、今飲んでいるのは、その酒とは全く違うものだ。


 本物は海底に沈めて熟成する。波の影響を受けない海底の温度は変化が少なく、酒を熟成するのに適温の場所があるらしい。しかし、その熟成方法では多くを生産できない。海水が混じる事もあれば、引き上げ時に破損して海に流れる事だってある。それだけの希少価値が付けば他国で高値が付いて当然だろう。


 そして、それによく似た酒も存在する。


 使われなくなった鉱山の坑道で熟成させた酒。海底で作られる酒よりかは劣るものの、普通に美味かった事をダンは覚えている。


 杯に残った分を飲み干して、卓の隅に置く。酒は嫌いではないが、これ以上飲みたいとは思えなかった。


「もういいのか?」


「あまり口に合いませんでした」


 ダンの言葉に従者の男が杯を覗き込み、残りを一気に仰ぐ。唇に付いた酒を舌で舐め取ると、首を傾げてまた酒を注いだ。


「俺は美味いと思うけどな」


「美味いですよ」


 それでも値段に見合っていない事に変わりない。


 本物と比べればこの酒は随分と安い。仕入れ値を安く、売値を高くすれば当然儲かるに決まっている。味もよく似ているならば、偽って販売しても知らない人は気付きもしない。


 無知は罪だとよく言われたが、少し分かってきた気がする。罪かどうかはともかく、知っている事を気取られさえしなければ、損をする事はあまりない。


 この事もダンはわざわざ話そうと思わなかった。聞かれてもいない事を自分から話すのは、なんだか自慢話をしている気分になる。そもそもダンが言わなくても、他に気付く人もいるはずだ。この屋敷にだって。


 バシャバシャと、庭の池の魚が暴れている。部屋の戸に人影が移り、いつの間にか従者の男が戸の側に立っていた。


 ただ歩いているだけだと言うのに、その優雅さや纏った気品は時に人を圧倒する。ダンの向いの椅子に座ると、御隠居は肘掛に肘を付き、軽く握った拳を頬に押し当てた。


「今日はいつもの恰好じゃないんだね、残念」


「新しいものはこの前着ましたから」


 御隠居と交わした約束は、送った服をは着てみせるということ。つまり、一度着て見せさえすれば後は着なくていい。


 つまらなそうに肩を上げて、従者の淹れた茶を啜る。ダンは懐から帳簿を出し、なんとなく開いてみた。


 ダンは文字の上に指先を滑らせて頁をめくっていく。ここにある人間全てが御隠居を知っていたとは思えない。しかし、ダンの目の前にいる男は、決して善意などで動くような人間だとも言い難いのだ。


 なら、これだけの人間をわざわざ調べ上げて集めたのだろうか。自分を頼るように誘導することなど、御隠居にとってはいかさまを見破るより簡単な事だろう。


「私は何もしていないよ」


 まるでダンの心を読んでいたかのように御隠居は微笑んだ。


「まあそれでも、噂は広まってるみたいでね、人伝にそれが私の元に届いたんだ」


「そうですか」


 適当に相槌を打って御隠居に帳簿を渡し、別に持っていた紙を卓の真ん中に置く。


「貴方に請求するようにと」


 今回かかった治療費は御隠居に払わせろと、医者からきつく言われている。そのせいか、かなりふっかけた額が記されていた。ダンには到底払うことのできない額なので、仕方なく言われた通りにしている。


 御隠居は何も言わずに従者に目配せし、従者はその紙を懐に仕舞った。


「では、私はこれで、後はいつものようにお願いします」


「帰ってしまうのか? もう少しゆっくりしていけばいいだろ」


 特に用事があるわけではないが、ここに居座る意味もない。ダンは両手を重ねて頭を下げ、名残惜しそうに背中に刺さる視線を無視して離れを出た。






「送ってやるから少し待ってろ」


 そう言われて従者の男を待っている間、何度か腹の虫が鳴いていた。空の色が濃くなって、昼間だと言うのに辺りは薄暗い。もしかしたら雨が降るのかもしれないと、ダンは空に向かって手を伸ばした。


「雨乞いの儀式か?」


 馬を連れて戻ってきた男は、からかうように笑っている。それでもダンは同じ姿勢のまま動かないので、男の方がムッとした表情になる。


「聞いてるんだけどなあ」


 今度は真横に来て顔を近づけてきた。


「雨が降りそうだと思ったので」


 ダンは鬱陶しそうに顔を背け、男が連れてきた馬の頸を撫でる。美しい毛艶で身体もしっかりしているのは、きちんと世話をしているからだろうか。生き物を育てた事のないダンにはよくわからない。


「良い馬だろ?」


「はい、若くて艶と張りがある、駿馬ですね」


 面倒臭くて適当なことを言ってしまう。


「そうだろ、そうだろ」


 喜び方からして、この男が世話をしているのかもしれない。普通は下男に任される馬の世話だが、名のある家の主人でも気に入った馬を自ら世話する事があるらしい。従者であるならば別におかしなことでもないだろう。


 掌から体温や筋肉の動きを感じながら、ふと昔食べた料理のことを思い出した。どんな料理だったか、確か肉を使っていた。それも馬の肉。


 馬は移動や運搬に使われる事の方が多いが、別に食べれないわけではない。


「美味しそう」


 自分の言葉に唾液が溢れてくる。


「そ……」


 勢いで頷こうとしていた男の表情が固まった。


「捌いてすぐなら、刺身でもいけそうですね」


 以前一度だけ食べた事があるが、生の肉も悪くなかった。新鮮で肉の状態が良いものであれば、生で食べる事だってある。


 うっとりとした表情で馬を撫でていたダンは、記憶の中の味を思い出して無意識に舌舐めずりをしていた。そうやって惚けていると、いきなり肩を掴まれて現実に引き戻される。


「わかった、肉だな」


 肩を掴んでいる従者が震え、心なしか怯えているように見えた。


 別にこの馬を食べようと思ったわけではないのだが、結果的に肉にありつけるらしい。





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