24 案内人
空が白み始めた頃、街の明かりは一つ、また一つと消えていく。
ダンは重くなる瞼を擦りたいのを我慢して、部屋の明かりを灯す。質素な書き物机と椅子に、壊れた箪笥と脚を伸ばすと少しはみ出る寝台だけのこの部屋が、唯一落ち着ける場所であった。
箪笥を少し動かして、後ろに隠した帳面と文を取り出す。この部屋は誰でも自由に出入りできるため、目につく場所には置いておけないと、仕事の前に隠していた。
勝手に部屋に入るような人物は片手で足りるが、万が一、そのうちの誰かに見つかりでもしたら面倒だ。
特にマオシャは暇さえあれば部屋を訪ねてくる。最近では、その姉の後ろで少し周りを警戒しながらも、いけないことをしている刺激を味わっているリャオもいるから困ったものだ。
リャオは妹に戻ってまた影響され始めたのか、仕事以外では本当によく似てきた。これで男の趣味までマオシャに似てくると、初めては姉の男になるのだろうか。
まだ十七の少女といっても華店で奉仕してきて、面倒な憧れは持っていない。初めては気に入った客をとっていいことになっているが、その分客は自分がその花を摘みとらんと、躍起になって金を出す。
妹の間はマオシャが手出しさせないように目を光らせているが、そろそろタンバが動きだしてもおかしくない。マオシャの客なら乱暴はしないだろうが、体力面でリャオが付いていけるのか。
とにかく、あの二人に見つかれば、色々としつこく聞いてくるので、用心するに越したことはなかった。
タンバには御隠居からの仕事だという話は通してある。
相手が御隠居だったこともあり、特に何も言われなかった。
椅子に座って帳面をめくる。知らない誰かの名前の後に書かれた数字の羅列。これがなんなの値か知らないが、ダンはとりあえず金額だと仮定する。
屋敷でも思ったことだが、署名と印が必要なのは、大抵金が動く時。ダンの身近ではそれくらいしか思い当たらない。
帳面を置いて、二つあるうちの宛名が書かれた文を確認する。どこかで聞いた事があると思ったら、都でも有名な豪商の当主の名前だった。
ただ、そのやり口は褒められたものではなく、黒い噂の絶えない当主ようだ。この当主のせいで命以外の全てを失った者が何人もいると噂されているが、実際に訴える者はいないと聞く。
報復が怖いのか、それとも、その気を失っているのか。多分両方だろう。
その人物に向けての文。
投げ出したい気持ちになりながら、それができないことに呆れてため息しか出ない。そしてダンは、毎度諦めろと自分に言い聞かせる。
人使いの荒い御隠居だが、絶対に無理なことはさせない。させるとしても、その為の手引きは抜かりない。つまり、今回もなんとかすれば、なんとかなるように準備されている。
ダンは小さく唸り声を上げて、今度は宛名の書かれていない方の文を開いた。人が書いた文字にしては特徴のない、手本のように整った文字が並んでいる。
読み進めていくうちに、ダンの瞼がだんだん落ちてくる。肘をついて、だらしなく机にもたれもかりながらも、なんとか全部に目を通した。
なんだこれ。
渡す相手は自分で決めろと言っておきながら、この内容では、特定の誰かに向けて書かれたものであることは確かだろう。
「どこが簡単だ、あのおっさん」
口をついて出た言葉に、同意するように灯りが揺らめく。
とりあえず文には目を通し、内容は理解した。相手を探して文さえ渡せば、後はもう成り行きに任せるしかない。
眠たいとどうも投げやりな考え方をしてしまう。今いろいろ悩んだところで、実際どうなるかなんてその時までわからないものだ。
ダンは大きな欠伸をひとつ。不思議と出てくる涙で視界が霞み、我慢できずに目を擦った。
部屋の明かりを消し、着替えをする事も忘れて、ダンは寝台の上でまるまった。
橋の詰所で駄弁っている休憩中の門兵が、裏から門を抜けようとしているダンを見つける。一人が窓から顔を出し、ダンを呼び止めた。
「よう」
その顔にダンは首を傾げる。
「辞めてなかったのか?」
何ヶ月か前にここで兄と抱き合っていた弟は、あの後からめっきり会うことがなくなっていた。元々ダンとは仕事時間が違っていたため、頻繁に会う方ではなかったが、最近は辞めたのかと思い始めていた。
「子供がいるのに仕事は辞めないさ」
弟は子供のために働く時間帯を変えたらしい。稼ぎは当然減るが、仕事を辞めようとすら考えていた男にしては、随分と合理的になったものだ。
「子供は?」
「義姉さんがみてくれてる」
兄を奪った女と罵っていたのが嘘のだったかのように、自然な口調で言った。親になると人は皆変わるのだろうか。この弟を見ていると、そんな風に思えてくる。どこか寂しそうなのは、子供の母親がいないせいなのかもしれない。
「引き止めて悪かったな」
気なる事はいくつかあるが、今はそっとしておく方がいいのだろう。
ダンは昨日見た書き付けの地図を思い出しながら、橋を出てすぐ路地に入った。目的の場所までは大通りより、路地を抜けた方が断然早い。
細い隙間を通り、水路を飛び越え、民家の庭先を抜ける。子供たちが石で地面に絵を描いて遊び、庭先で老人たちが噛み合わない会話をして笑い合っている。
いつもと変わらなようでいて、毎回違う路地中の様子は見ていて飽きることがない。
大通りに出てまた路地に入るを繰り返し、着いた場所は派手な屋敷。
都の中にあるため、御隠居の屋敷よりは小さいが、見た目の主張が強く威圧感がある。いかにも権力があり、それを見せつけているようだ。
話の通りだと案内人が来るはずだが、辺りを見てもそれらしい人はいない。夕刻の三の鐘が鳴るまではまだ少し時間があるので、ダンは門の前で時間になるのを待った。
人の流れを見ていると、通りの向こうに小さな集団が見えた。
よく見るとそれは官服を着た男達で、ぞろぞろと集団で歩いていた。それを避けるように人々が道を開けるので、なんとも言えない光景だ。
見回りにしては少し多人数だな、と思ったが、珍しくもなく興味もないので、手前にある露店を眺める。タレの付いた串焼きを焼く露店から、漂う香りをゆくっくりと吸い込んだ。
帰りでも買って帰るか。
腹の虫が鳴いたが、ちょうど都中に鳴り響いた鐘の音に掻き消された。
「おいお前、そこを退け」
乱暴な口調に振り向けば、一人の武官がダンを睨んでいた。身体は小柄でも態度は随分と大きいようで、顎を突き出して、まるで湧いて出た虫でも見るようにダンを見上げている。
「退けと言っているのがわからないのか」
そう言って一歩ダンに近づくと、小柄な武官の顎が少し上がる。これ以上絡まれても面倒なので、離れようと足を後ろに引いた。
「こんなところで何してるんだ?」
小柄な武官の後ろにいる三人の武官の中から、無駄に整った顔の男が一人、小柄な武官を押し除けるようにして前に出る。やはりこの男が官服を着ると、ダンには胡散臭く見えた。
「中官様こそ、どうしてこのようなことろに?」
そろそろあっちの店が動き出す時間だと言うのに。
親しげに会話するトキを見て、ダンの前に立つ小柄な武官が、あんぐりと口を開けている。顔は上を向いているので、なんともだらしない表情だ。
「お前も仕事か?」
「そのようなものです」
ダンの言い方に少し引っかかるのか、僅かに片方の眉が上がる。
「トキ様、この者は一体……」
一人蚊帳の外にされた小柄な武官が、堪らず声を出して割って入る。さっきとは打って変わって捨てられた子犬のような瞳でトキを見上げているので、それを目にしたダンの視線がとても冷たい。
「よく世話になる店の下働きだ」
なにがそんなに気に入らないのか、小柄な武官が敵意剥き出しでダンを睨む。
「お前もここに用があるのか?」
お前も?
一瞬思考が停止して、次にきゅっと目を瞑る。
そうだそうだ、そうだった。使えるものは何でも使う、それがあの人のやり方だ。
事件の日にダンがあの場にいた事も、余計な助言をした事も、あの人が知らないはずがない。
今この場の状況が何よりそれを物語っている。
声を出して唸りたい気持ちでいっぱいだが、今はそうもしていられなかった。
「着いて行ってもいいですか?」
御隠居の言った案内人、それがこの中官であることに間違いない。
トキの様子からして、こちらの事情は何一つ知らないのだろう。案内人とは体よく言ったものだと、ダンは感心する。
『手筈は整えた、上手く利用してごらん』
そんな幻聴が聞こえてきそうだ。
「実はお客様の頼みで、この屋敷の御当主に直接手紙を届けないといけないのですが、私だけでは取り合ってもらえそうになく……、中官様と一緒ならと、思ったのですが」
正直、ダンも自分でも何を言っているのかわからない。酷い言い分だとしても、ここはなんとしても押し通す。
「いや、しかしな」
トキが言いたいことは、なんとなく察しがついている。この屋敷にいる誰かが犯人で、それを見つけ出すためにここに来たのだろう。
「私が一緒にいては、中官様の迷惑でしょうか?」
らしくない台詞に、耳の奥が痒くなる。
我慢してトキの顔を見続けて、その瞳が揺らいだのを見逃さずダンは視線を外した。
「そうですか……」
「あ、いや」
昔マオシャから教わったことが、こんなところで役に立つとは思わなかった。何でも覚えておくものだと、改めて実感する。
困ったように首の後ろに片手を回しながら、トキは後ろで待っている部下の様子を窺う。ダンに噛み付いた一人を除いて、残りの二人は特に意義があるわけではないようだ。
この下働きが余計な事をすようには思えないしな。
「大人しくしてろよ」
ダンは頷いて、トキの後ろで睨みをきかせてくる小柄な武官を見た。
なんだあれ。
最初に絡まれたのは、ダンが邪魔な場所にいたせいだ。しかし、今は別の意味でダンを牽制しているとしか思えない。忠誠心を通り越した別の何かと言えば良いだろうか。
餓鬼っぽいな、とダンは年上相手に思っていた。




