22 御隠居
五→三
こうしてこの屋敷を前にするのは、何度目になるだろうか。
額の汗を拭い、ダンはふと考えた。
年月にすればもう三年になる。ただ、どれだけ回数を重ねようとも、この景色はダンの中に馴染むことはない。
周りに住居などほとんどない都の外れに、異質とも言える大きな屋敷がある。わざわざこんな不便な所に住むような物好きもそうそうおらず、長い間空き家のままだった。
やっと今の主人の元に落ち着いたが、その主人が誰なのかは明かされておらず、門も常に閉ざされたまま。広い敷地の周りを高い塀で囲い、中がどうなっているかなど外からは窺えない。
以前耳にした噂では、不治の病にかかった者が幽閉されているだとか、国を追われた他国の王族が身を隠しているだとか言われていた。
どれも根も葉もない噂でしかなく、信じる者もそういない。ただ、不必要な人間を遠ざけるにはちょうどよかったらしく、屋敷の者はそれらしく振る舞っている。
一切姿を見せない屋敷の主人だが、近所の子供達の間では名無しの御隠居さんと呼ばれ、それなりに慕われていたりする。
子供は貰うものを貰えばすぐ懐く。ここは近所に商店などそれらしい店はなく、甘い菓子などそうそう手に入るものではない。大人たちも遠巻きにしても、害がないうちは下手に手を出さないでいる。得体は知れなくても、ご馳走をくれる相手を悪くは言わないだろう。
屋敷の主人は、少ない隣人との付き合い方は考えているらしい。本人曰く、全く関係を持たないより適度な交流をする方が、不信感を抱かれにくいのだとか。
門を叩くとすぐに、潜り戸から男が顔を出した。男はこの屋敷の使用人で、主人の従者でもある。今日のようにダンが訪問する時だけ、こうして門で待っていてくれている。
名乗られたことがないので名は知らないし、呼ぶわけではないので聞く必要もない。長い付き合いで名を知らないというのもおかしな話だが、特に不便に思うことはなかった。
確認を済ませた男は頭を引っ込め、門を開けてダンを招き入れる。背丈はほとんど変わらなくとも、全体的にダンより一回り大きな身体をしている。根本的な問題であると分かっているが、その厚みはどうすれば手にできるのかと、ダンは不思議でならない。
「いつものです」
「ん、ご苦労さん」
ダンから薬の入った小さい方の袋を受け取ると、ちょうど通りかかった下女を呼び止めて袋を渡す。
話をしている従者の男を待ちながら、乾いた唇を舌で濡らした。
たとえ日除けで日光は遮れても、まとわりつく暑さは変わらない。腰を締め付ける服を着て、ここまで歩いて来たのだから尚更だ。
それでも以前よりは、ここの暑さにも慣れてきている。汗を上手くかけるようになり、すぐにバテることもなくなった。人の身体は環境で変化するものらしい。
「今日も暑そうだな、飲むか?」
ダンが日光に弱いことを知っている従者の男は、竹筒を差し出す。栓を抜いて傾けると、まだ冷たい液体が口内に流れ込み、ゆっくりと飲み込んだ。水が冷えているということは、直前に汲んだのだろう。
名は知らなくとも、この男が親切で気が効くことは知っている。
「ありがとうございます」
少し飲みすぎた、と思いながら竹筒を返すと、その飲み口をじっと見る。竹筒をしまい、今度は少し屈んで日除けで隠れたダンの顔を覗き込んでくる。
日に同じようなことが二度起きると、さすがに何かあるのではないかと疑ってしまう。
「珍しいもん付けてるな」
何かと思えば口紅のことだ。マオシャは付けないと不自然だと言ったが、知った相手だと逆に変に見えるだろう。
「付けられました」
あくまで自分の意思ではないことを伝えておく。今の恰好のこともある、変な誤解をされたくはない。
「そうか」
最初からあまり興味がなかったのか、従者の男は屋敷の奥に向かう。実際のところ今はもう案内など必要ないが、形だけでも来客として扱われている。
途中で出会う使用人達とすれ違えば会釈し、離れた場所なら手を振った。皆知った顔ばかりだというのに、誰一人として名前を知らない。使用人の中には、ダンの名前を知らない者も多いだろう。
回路をまわった屋敷の裏には池があり、それを挟んだ向こう側に小さな離れがある。橋を渡る足音に気付いたのか、池では大きな魚が蠢きだす。
離れといっても、周囲にある民家に比べたら大きいことに変わりない。長い時間人が住んでいなかったとは思えないほど、朱に塗られた柱は目立った老朽化もなく、いい木材が使われている。
「入ります」
部屋には男が一人、窓辺の椅子に腰掛けて手に持った本を読んでいる。子供たちの言葉を借りれば、御隠居と呼ばれる男だ。
的を射ているような、外しているようなこの呼び名は、この男にはよく似合っていた。
従者の男が声をかけても反応はなく、視線は本に向けられて、次の頁をめくる。従者は一歩下がって道をあけると、目線を部屋の中に向けた。先にダンが中に入り、その後に従者が続いて戸を閉める。
窓辺に座る御隠居の前に対面する形で置かれた椅子があり、そこが指定席だ。ダンが椅子に座って日除けを外すと、御隠居の後ろに控えた従者が薄ら笑いを浮かべた。
唇に付いたものが気になっているのか、チラチラと目だけた動かしてダンを見る。
似合ってないのはダンが一番よくわかっている。睨むように見返すと、何もなかったようにそっぽを向かれた。
部屋に男三人、特に何かあるわけでもなく、じっと待つだけ。
御隠居は今、本に夢中だ。彼が自分の世界に入り込んでいる時は、周りはただ待つことしかできない。
すぐ側の窓は開いていて、庭がよく見えた。立派な屋敷なだけあって、庭も隅々まで手入れされている。この部屋に来るまでにも、様々な調度品が屋敷内に飾られていた。それらは全て権力や財力を誇るためのものであり、持つべき人間が持つからこそ価値がある。
ただ、見る者によってもその価値は違うだろう。実際、美しく整えられたこの庭も、ダンにとってはただの木と草と石の寄せ集めでしかない。
「珍しいじゃないか」
本を閉じて顔をあげた御隠居は、少し嗄れた声で言った。
随分前に風邪は治っていても、まだ喉の調子が戻らないらしい。先ほど渡した薬をずっと飲んでいるが、こうも治りが遅いのは歳のせいもあるのだろう。
それでも耳障りのいい低音は顕在のようで、穏やかな口調が睡魔を誘う。
「その簪も私が贈ったものじゃないな、私が選んだのは一度も付けたことないというのに」
残念そうな物言いをするが、こうして服は着ているのだから許してほしい。
いつまでも昔の習慣が抜けない御隠居は、三年経った今でも定期的に衣装や道具をダンに送ってくる。
その中には高級妓女でも手にできないような代物もあり、大変迷惑を被っている。
以前、勘違いで女物の元結を渡してきた役人がいたが、あっちは私的でこっちは仕事、同じようで全く違う。
客ではない相手からあんなものを渡されたのは初めてだったので、あの時は少し動揺してしまった。
とは言え、そんなものをダンが使うわけもなく、今も引き出しの中に眠っている。
御隠居からの贈り物も同じだ。
上等な品を外で売るわけにもいかないので、タンバ伝に華女達に流すしかない。まだ化粧道具ならそうやって消費できるが、衣装だけはそうもいかなかった。ダンの身体に合わせて作られたものは、女には大きく使い物にならない。
最初、一度も袖を通すことなくばらしたところ、外道だなんだと泣かれてしまい、それ以来こうして一度は着て見せないといけなくなった。
「唇も、自分で塗ったのか?」
そんなはずないと、この男ならわかりそうだが違ったらしい。
「姉に付けられました」
「姉? ああ、マオシャ。あの娘は相変わらずか」
貴方も相変わらずですよ。
「こんなことして楽しいですか?」
何度口にしたかわからないこの問に、返ってくる答えはいつも同じ。
「ん? 楽しいぞ」
小首を傾げる仕草など、無垢な少女がやるものだ。いい歳こいた大人が真似しても白けるだけ、なんの面白味もない。
男相手に女物のあれこれを送りつけ、あまつさえ、それを身に付けさせ屋敷まで呼び出す。金と権力を持った人間の考えることは、いつもどこか常識の範疇を超えてくる。それが周りの人間にまで、被害が及ぶからたまったもんじゃない。
「だって、お前はもう店には出ないだろう?」
「はい」
ダンは今の恰好を嘲る。男に女の恰好をさせて何が楽しいのか、道化が見たけりゃ玄人でも呼べばいい。
「だったらこうするしかない、我ながらいい考えだと思うんだがなあ」
冗談だろ。
御隠居を見る目が冷ややかになるのは、仕方のないことだった。後ろに控える従者の男も、呆れたようにため息をついている。
「まあいい、そんなことより、今日は別の用件があるんだ」
「なんですか?」
こっちも貰うものは貰っている、その分は働かないといけない。
どうせまた舞を踊れと言われるか、盤上遊戯の相手をさせられるかだろう。そうダンは考えるが、実際は少し違っていた。
「ちょっとしたお使いを頼もうと思ってな」
嫌な言い方をする男だ。断れる立場ではないのをいいことに、命令ではなく、あくまでダンの意思で決めさせる。
しぶしぶ小さく頷くと、さっきまで読んでいた本が渡される。中を見ると、どの頁にも人の名前が書かれ、その下には何かの数字が続いている。桁が大きく、普段似たような数字を見ているダンにとって、それは金額のように見えた。
最後の一枚は真っ白で、そこに何かが二つ挟んである。取り出してみると片方には宛名があり、文のようだ。
「これを頭に入れておきなさい」
もう一つ、別に書き付けを渡される。
内容は誰ともわからない男についての情報。歳や家族構成、仕事などの基本情報から趣味や女の好みまで用途不明な事まで記されている。
下の方には簡単な地図があり、丸で囲まれた印が一つ。
「その地図にある場所に手紙を届けてほしい、そして、帳面の白紙の頁に署名と印を押してもらう、なに、簡単だろ?」
本当にそれだけだろうか。
穏やかに笑う御隠居を見ていると、そんな単純な話ではないとしか思えない。この男のせいで、今まで散々な目に合っているダンは訝しげに帳面をめくる。
「ただ話すだけでは時間がもったいない、絵合わせをしよう」
御隠居は後ろに控える従者に目くばせし、ダンとの間に卓を用意させる。一緒に持って来させた箱には、何十枚もの絵札が入っていて、その半分をダンの前に置いた。
裏面の艶やかな赤色に黒い植物片のような物が混じっている。これは不純物などではなく、少し似た遊戯の札と混ざらないように、わざと入れているのだと以前聞かされたことがあった。
赤い山札から一枚取って、指先でくるりと回す。
白地の表には、ぷっくり膨らんだ鬼灯の、朱い萼が描かれていた。




