21 都
起き抜けで湯浴みをすると目は覚めるがかなり疲れる。昼前のこの時間に風呂に入る男衆は少ない、現に風呂場にはダン一人だけ。それでもゆっくり湯舟に浸かる気力などなく、汚れを落としてすぐに出た。
濡れた髪を拭きながら、部屋に戻る途中でダンの足が止まる。たまたま開いていた窓から中庭の様子が見える。そこでは裏子や下っ端の男衆、姉付き達が籠いっぱいの洗濯物を洗っていた。
今日は天気がよく洗濯日和で、溜まった洗濯物を片付ける絶好の機会。この機を逃すまいと、手を動かす彼等の表情は苦しみとも言い難い別の感情が混じっている。それでも、見える籠の数からして、通常の仕事量だ。
だからこそ、目の前の状況が理解できない。
なんでいる。
中庭に出て、籠いっぱいの洗濯物の陰で汗を拭う男の服を引っ張る。
「ん? どうした?」
「なにしてるんですか」
そう問えば、不思議そうにウルジは首を傾げる。見てわからないのか、洗濯だ、とでも言うように籠を指差す。そんな事を聞いているのではない。
ウルジのこれは今に始まったことではなかった。頼まれれば決して断らず、人のためだと疑いもしない。
周りは不思議そうに二人を見ている。ダンも見返すように一人ひとりの顔を見る。その中で、視線が合った瞬間に顔を逸らした男がいた。
ダンは掴んだウルジの服を離し、その男の前に屈む。
「人に頼るなとは言いません、必要ならこちらも手伝います」
男は洗い桶の中で拳を握っている。顔つきや、骨格からして、歳の頃は十五、六と言ったところか。その顔に全く見覚えがないので、最近雇われたばかりかもしれない。思えば一人、中年の男衆を最近見ていない、辞めたのかは知らないが、その代わりに入ってきたのだろう。
ウルジと違って、子供だから新人だからと甘やかすダンではない。この場にいる者の様子からも、わかっていて何も言っていない。教えるべき者が教えなければわからぬままだ、それを教えるべき立場にある者に責任がある。
少し強く言い過ぎたのか、男は下を向いたまま。彼の顔を映していた桶の水面に波紋が浮かぶ。
「ダン」
このお人好しにだって責任がある。いい加減、自分のしている事が人を堕落させる事を覚えて欲しい。
「あなたも、人の仕事を盗らないでください」
言いたいことは言ったので、さっさと部屋に戻る。もしまた同じような事があっても、もう口出すつもりはない。
戸を開けると寝台の上に置かれた箱が目に入る。ここで自分だけの空間なんてものを求めるつもりなんてないが、知らない間に人が入ったと思うといい気分ではない。
箱の中には服が一式。ご丁寧に靴まで用意されている。ダンのような身分の人間が着る事はまずない、かなり上等な品だった。
髪も乾いてきたので服を着替える。この服は暗い色合いから男物に見えるが、つくりは紛れもなく女物。女物だとわかっていって、毎度毎度、律儀に送って来るのだから達が悪い。
それでもいつもみたいな派手な色じゃないだけ、まだましだった。
諦めのようにひとつため息と吐き、ダンは手際良く服を着ていく。この型の服は腰の帯をキツく締めて体の形を出すので、男のダンが着ると正直きつい。誰に見せるでもないので、少し緩めに帯を締めた。
服が服なので、髪の結い方もいつものままというわけにはいかず、少し変えないといけない。手櫛ではなく、ちゃんと櫛を使うのはこんな時だけだろう。
何かあったかと引き出しを開けてみる。整理されずごちゃごちゃした中に、赤い元結と銀色の簪を見つける。これ以上着飾ったところで、逆にみすぼらしいくなるかもしれない。だからといって、なにも付けないわけにもいかないのである。
今日は雲ひとつない晴天だ。日除けの布をかけるなら、髪型など誰にも見えない。
考えるのも面倒になってきて、飾り師に貰った簪を刺す。それだけで見栄えは違うだろう。
なんでも貰っておくもんだな。
頭から布を被り、さっさと店を出ようと部屋の戸を開けると、待ち構えていたマオシャと対面する。
寝巻きを着て、髪も乱れたままだった。
何か企んだような笑みを浮かべ、頭一個分高い位置にあるダンの顔を掴む。引っ張るようにしてダンを屈ませると、唇に指を押し当てた。
「そんなに堅く閉じないの、ちょっと口開けて」
少し口を開けば細い指が形をなぞる。少し濡れた感触がして、妙に滑りがいい。
すぐ離れていくマオシャの指先には、華女がつけるような毳毳しい赤ではない、落ち着いた色の紅が残っている。
「その格好で行くなら、これくらいしないと不自然だっていつも言っているでしょ」
「……ん」
上下の唇を擦り合わせるように動かすと、満足したのか鼻歌まじりに戻っていく。まさかこれをするためだけに起きてきたのかと考えてみたが、マオシャの行動はいつも突飛すぎてよくわからない。実際、大した意味などないのだろう。
昼間の橋は都に入る人々で溢れている。脇にある露店からいい匂いがしているが、今は買い食いできない。都に向かう人の波に揉まれながら門に着くと、ちょうど馴染みの門兵が詰所から出きた。
日除けを深く被り、不自然に見えないように下を向く。通行証を見せてさっさと足早に立ち去る。
橋では溢れていた人々も、一歩都に入れは散り散りに、その大半が大きな通りに向かっている。
彼らは外から来た人々だ。
都は碁盤の目のように大きな通りが交差しているが、脇に逸れるように幾つもの路地が存在する。下手に路地に入ると一瞬で道に迷ってしまい、全く別の場所に行き着く。土地に慣れたものなら近道として路地を使うが、他所からきた人々は大きな通りしか通らない。
そして、いつもの道を使うわけにはいかないダンも、この日だけは大通りを行く。
遠回りだが、知り合いに出会す方が面倒だ。この状況を説明する、言い訳の一つも思いつかない。
じりじりと照り付ける日の光に苛々しながら、やっと目的の場所につく。都の東側。通りから一つ路地に入った場所にある民家にしてはかなり大きな建物だ。路地に面する小窓が開いているせいで、中の臭いが漏れ出ている。
ここは腕の良い医者がやっている薬屋。医者としての腕も確かで、少々値は張るがその分質の良い薬を出してくれる。
小窓から少し離れた位置にある戸から中に入ろうと手を伸ばすと、その前に戸が開いて袖で口元を押さえる男が出てきた。
多分、店の臭いに気分が悪くなったのだろう。室内の包み込むような薬草の臭いは、慣れない人間はそう長くは居られない。
随分と急いでいたようで、外にいるダンに気が付いた時には体がぶつかっていた。
その衝撃で頭の日除けの布がはらりと落ちる。
「おっと」
地面に着く前に男が掴み取った。
「失礼、大丈夫でしたか?」
上背のある男が日除けを差し出しながら覗き込むので、ダンは顔を逸らしながら受け取る。
女の服を着て紅を引いていても、所詮は男。こんなお粗末な変装など、近くで見たらすぐにわかってしまう。
すぐに日除けを被り、店の中に入ろうとする、だができない。
男が戸口に立ったまま動こうとしないのだ。そればかりか、日除けで隠れたダンの顔を覗き込もうとしている。
どけと、声を出すわけにもいかず、じっと堪える。
「やはりな」
男が顔に掛かった日除けを人差し指で持ち上げる。相手が男であっても普通に考えて、失礼極まりない行為だ。
「君、この前花街の近くで事件があった時、あそこにいただろ」
あの路地にはいたが答えてやる義理はない。誰かと勘違いているのだと思ってくれることを期待して、男を無視する。
男は首を傾げて顎をさする。反応のないダンに納得がいっていない様子だ。
「トキと話してた子だと思ったんだがな……」
ぽつりと呟く声に、身体が固まった。それでも見た目の様子に変化がないので、男がダンの動揺に気付くことはない。
「ま、いいか」
この軽さや馴れ馴れしさは、どこかあの役人と似ている。少なくとも名前を知っているぐらいには、知った仲であることに間違いはないだろう。
「名前、教えてくれないかな?」
本当になんだこの男。
「店の前でいられると営業妨害だ」
いつの間にか店の奥から出てきた男が、腕を組んで立っている。熊のように大きな身体に日に焼けた肌、野性味あふれる無精髭をたくわえて。眉間に刻まれた深い皺と、射殺すように鋭い眼光は相変わらずらしい。
医者と言うよりは猟師のような見た目のこの男が医者だと知ると、まず初めに大抵の人間は笑うか馬鹿にして信じない。そして彼の知識と技術を目の当たりにして半分は驚き、半分は疑った。
この医者は第一印象で損をする。
「用が済んだなら帰れ」
まるで蝿を払うかのように男に向かって手を振り、ダンに中に入るように視線で促す。ダンもこの機を逃すまいと男を押しのけて、店主の後ろに回り込む。
「そんなに睨まないでくれよ、ちょっと話してただけだろ? なぁ?」
同意を求めるように、医者の後ろにいるダンに笑いかける。
それでも無視を続けるダンに興味がなくなったのか、つまらなそうにため息を吐くと通りの方に消えていった。
「悪い、いつものやつだな」
「はい」
医者は壁一面の薬棚を漁り始めた。
「待ってろ」
ダンがこの店に来るのは不定期で、常備しているものでは足りないことがあった。今回も少し足りないようで、医者は調薬を始めた。
特にすることのないダンは医者の近くにある椅子に座りその様子を眺める。
ごりごりと、薬研の音を聞きながら薬草の臭いに包まれる。
昔も同じように薬研で薬材を碾く様子を眺めていたが、当時はそれが何かも知らなかった。草や実、時には干からびた生き物を擦り潰し、それを人に飲ませる光景は子供ながらに気味が悪いと感じていた。
当時のダンが無知だったこともあるが、何よりあの師が医者と言うには程遠い人格の持ち主だったからかもしれない。
こうして医者らしい医者を見ているとつくづく実感する。あの師はとても歪であり、それでいてどこか常人とは違う世界で生きていた。
ゆえに、常人以下のダンには到底理解できないような人だった。
店の奥からバタバタと、大きな足音が勢いよく飛んでくる。
ダンの腹部を突いた大きな頭が、まだ中に入ろうとしているのか小刻みに揺れている。
「こらチョウ、やめないか」
医者の声に動きを止めた息子のチョウは顔を上げると、満面の笑みを浮かべて両手をいっぱいに伸ばす。
「きょうは、きれいなほう」
幼児特有の話し方は少し舌足らずで、コロコロと笑いながらダンの膝に手をついて頭を前後に揺さぶった。
小さな鼻を摘んで軽くもんでやると、くすぐったいのか、笑いながら体をよじる。チョウが服を掴んでいるので、少し乱れるが今は気にしない。
餅よりも柔らかい頬を両側から押して感触を楽しむ。されるがままのチョウの顔はだらしなく笑ったまま、時々呼吸ともつかない笑い声をあげた。
しばらく二人で戯れていると、調薬を終えた医者が薬包紙にできた薬を包み、袋に入れている。袋は二つ、大きい袋と小さい袋だった。
「あ、」
もう一つ欲しいものがあったのを思い出すが、片付けを始めた医者にこれ以上手間をかけさせていいものかと迷う。
「なんだ」
「赤切れとか、切り傷に効く薬もらえますか?」
「どれくらいだ?」
ダンは懐から金の入った袋を取り出すと、少しだけ摘んで残りを医者に差し出す。受け取った中身を確認した医者は薬棚に向かい、中をあさる。
膝に登ろうと奮闘しているチョウを抱き上げ、膝の上に乗せる。ダンの腕を腹に回そうと引っ張るので、摘んだ銭が落ちそうになった。それをチョウに握らせると、大きな頭を後ろに逸らして目を瞬がせた。
「好きなもんに使いな」
そう言いうと、拳を開いてじっと見つめ、何に使おうか考えている。まだ金の価値は曖昧だろうが、自分で使っているとすぐに覚えるはずだ。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
医者から薬を受け取り、膝に乗るチョウを下ろして店を出ようとする。戸に手をかける前にチョウに捕まる。
「もうちょっと」
ダンの脚にしがみ付いて離れようとしない。顔を押し付けて服を引っ張り、今にも座り込んでしまいそうだ。
「チョウ」
医者が名を呼べば、顔だけ離して憎しげに父親を見る。
上から頬と顎を包むように手を添えて、ダンは上を向かせた。下唇を突き出し、唇の形をへの字にした顔に、笑うなと言う方が無理だった。
「……っふ」
つい声を漏らしてしまったダンが気に入らなかったのか、先ほどの顔に加えて頬が蒸し立ての饅頭のように膨れ上がる。それでもダンの手を振り払おうとはせず、されるがまま。
「今日は仕事だから」
口内の空気を抜くように揉んでやると、満足したのか掴んでいた手を離した。
名残惜しそうに医者の後ろに隠れ手を振るチョウに手を振り返し、店を出る。




