2 酒と酒器
自分の仕事を終えたダンは他にする事はないかと仕事を探し、客のいない間に入り口の掃除を始めた。
濡れた布で手すりや床を磨いていると、大きな音が頭上から聞こえ、天井からは何かが割れるような音が響く。
ダンは手を止めて階段を駆け上がった。
廊下に出るとひとつの部屋に群がる女達、その視線の先では息の上がったリャオがマオシャを睨み付けている。
荒らされた部屋の床には様々なものが散らばり、リャオに至っては服や髪まで乱れていた。
聞かなくとも、二人が争っていたことがわかる。
嘘……。
床に散らばった酒器の破片を見つけたダンは、その酒器が誰のものか、幾らしたかを思い出し、軽いめまいに襲われた。
「あんたいい加減にしなさいよ」
「貴女こそ人の部屋をこんなにして、少しは落ち着きなさい」
「うるさい!私に指図しないで!」
声を荒げるリャオに対して、マオシャは宥めるように微笑む。
その余裕が気に入らないリャオは、ますます怒りを露わにした。
手近にある物を掴んでは、マオシャに向かって投げつける。ただ、当てるつもりはないようで、どれもマオシャの足元や背後の壁で砕け散る。
ダンはマオシャの怪我より、砕け散る花瓶や酒器の心配をしていた。
それはタンバが趣味で集めている物で、決して安い物ではない。その一つひとつが音をたて壊れる光景は、ダンの中に鬱積する。
「どうしてあんたが優先されるのよ」
「私の旦那様に出すお酒だもの、仕方がないでしょ」
「私が頼んでたものよ!」
冷静に見えたマオシャも、顔には出さないが確かに怒っているようで、遠回しに煽るようなことを言う。
火に油。何を言ってもリャオが聞き入れる様子はない。
今まで小さないざこざはあったものの、ここまで激しいのは初めてだった。
どうしてそこまで突っかかるのかダンには理解できないが、とりあえず今は客がいないことに感謝した。
別に見られて困ることでもないが、華女が怒鳴り散らしているところなんて、彼らは見たくないだろう。
いつ終わるのかと気を揉んでいると、穏やかに流していたマオシャがついに反撃に出る。
「私の旦那様が貴女より優先されるのは当然じゃない」
「なんですって…」
先程までとは違いマオシャは明らかな敵意を向ける。妹だから、出世株だからと甘やかすつもりはないようだ。
「口を開けば文句ばかり、もっと大人になりなさい。いつまで経ってもそんなだからお客が付かないのよ」
マオシャはまるで子供をあやすように微笑むと、そっと頬に手を添えた。
客を相手にしている時のように妖艶な仕草、本物だと言わんばかりの存在感。これが大金を払ってでも会いたいと言われる女だ。
「見た目だけでやっていける程、ここは甘くないの」
完璧なマオシャを目にしたリャオの表情は、怒りに満ちていた。
マオシャの言ったことは間違いではない。
リャオの美貌は多くの客を呼んだが、客を選びすぎる彼女の評判は悪い、馴染みの客が付かないのはそのせいだ。いずれは今いる客も離れて行くことは目に見えている。
一応マオシャに見込みありとされているのだから、店としてもそれなりの仕事はしてもらいたい。
図星を突かれたリャオはマオシャを睨みつけ、ゆっくりと近づいていく。よろよろとおぼつかない足取りに、だらりとお下された腕が、動きに合わせて不規則に前後する。
リャオの腕がマオシャの顔に伸びた。
ダンは咄嗟に群がる女達をかき分け、リャオに向かって走る。
駄目だ、間に合わない。
ダンが駆け出した時には、もうリャオの手はマオシャの顔の前まで来ていた。
だがリャオの体は後ろに向きに勢いよく倒れる。
床を這いながら自分を引き倒したタンバを睨み上げた。
煙管を咥えたタンバは、乱れた二人の女を交互に見ると大きく息を吐いた。
「リャオ、今のは見なかったことにしてやる。今日はもう部屋から出るんじゃないよ、客も取るな」
吐いた煙を追いかけていた視線が群がる女達を一瞥すると、それまで突っ立っていた彼女達が弾かれたように動き出す。
美人が凄むと嫌に迫力があるのは何故だろう。
行き場をなくした右手を首に添えながら、ダンは三人の美女を眺めた。
起こした体を支えようとした姉付きの手をはたき落としたリャオは、暴れたからなのか息は乱れ、頭を大きく振って歩いている。
部屋の入り口に立つダンを凄い剣幕で睨みつけ、自分の部屋に戻って行った。
いつもと違うリャオの様子も気になるが、それ以上に部屋の有様にため息をついた。
「お前もだ、あまり若いのを煽るんじゃないよ」
「……はーい」
乱れた服を直されながら、不服そうな返事をする。
教育するのも姉の務めではあるが、今の二人の相性は最悪だ。
タンバはしばらく別の者にリャオを任せようと考える。それが良いか悪いかは、やってみないとわからない。
「あーあ……」
客が来るまであまり時間もない中、ダンは荒れた部屋の片付ける。
麻の布で包まれた破片を眺めながら、この弁償はどちらがするのかと考えた。