16 文官と武官
ダンが去った後、一人だけ時間が止まったように大通りを眺め続けているトキの横で、彼の部下達は現場処理のためにせっせと手を動かしている。
不真面目な上官を持つ部下は、人一倍働き者になってしまった。
ここまで堂々と仕事をしていなくても、一人として文句を言う部下はいない。
部下は武官、そして彼らの上官であるトキは文官で、そもそもまったくの畑違いな仕事をしているのだ。
表向きは上官の反感を買い、無理矢理軍部に異動させられたことになっている。武官が文官になる事はよくあるが、その逆は数えられるほど少ない事例だった。
それにトキは文官として軍事に携わっている。そのため何も知らない他の武官達の中には、なぜ文官が軍部で武官の真似事などしているのかと、不満を持っている者も少なくない。
それでも表立って文句を言ってくる者がいないのは、たとえ畑違いでもそれなりに仕事をこなせるだけの能力があるからだろう。
それなら最初から武官になればいいものを、わざわざ文官として仕えているのにも色々と理由がある。文官として軍事に携わることなど普通ありえないなのだが、それを可能にしたのが他でもなく最高位、四官のうちの一人だ。
役職が文官のままで武官の権限を与えられているのにも、その四官の力のがあってこそ。そもそもこの若さで中官となる事自体に何の謀りも無いはずがない。
文官と武官、双方の役職の権限を持つ事が重要であり、トキはその厄介な役回りを任されている。
事情を知っている部下達は自分より若い上官に不平不満を持つよりも、その任の重さに同情し、尊敬すらしている。
ただ、優秀な上官であることに変わりないが、この上官は他の仕事はしても、今日のような現場の事には一切手を出さない。
忌や穢れを嫌っているわけではなく、単に苦手なだけ。苦手でも仕事であることには変わりない。最初は慣れてもらおうと半ば無理矢理手伝わせていたが、いつまで経っても慣れるどころではなかった。
近寄ろうとしない上官を引っ張っても、身体に見合った強い力で抵抗される。少しでも触れたり、状態が酷いものを見ただけで口から胃の残留物を吐き出して、逆に部下たちの手を煩わせるだけだった。
最近では吐く事はなくなったが、今更仕事をしてもらおうなどとは誰も考えないだろう。手を出されたところで邪魔以外になるになる、大人しくしてもらえるだけありがたいとすら思っている。
だからこそ、先程の光景が信じられないでいる。
いつものように野次馬に紛れていた上官が、野次馬の一人と親しげに話をしていたかと思えば、普段なら近付きもしない死体に自ら歩み寄って体に触れたのだ。
だから、その原因となったであろう人物を凝視してしまったのは仕方ない。
女性関係で色々と有名な上官だ。最初は皆相手は女だと思っていたが、よく見ると女にしては腕や首はしっかりしていて背も高く、下働きの格好をした青年だった。
女以外に知り合いがいたのかと、部下達はお互い顔を見合わせた。
見られていることに気付いた青年はすぐに帰ってしまい、その後からなぜか上官がいつも以上に大人しい。
上官を引き止めた事への謝罪だったのだろうか、去り際に官達を一瞥し頭を下げていった。上官が仕事をしないのはいつもの事だが、気を使わせてしまったらしい。
皆、手は着々と仕事を片付けながらも、あれが誰だったのかが気になって、大人しくなった上官に時折窺うように視線を向けた。
仕事をしながらチラチラとこちらを見る部下の目に、説明を求められているのだとわかっていても、トキがそれに応える事はない。
それよりも、これからのことを考えていた。
ダンには強盗だと言ったが、実際そんな単純な話ではない。
おそらくだが、良家の誰かが殺された、それが何よりも重要視すべき問題だった。
あの連中の争いが卑劣で狂気に満ちている事など、ただの下働きが知る必要はない。
もしこれが強盗の仕業ではなかったら。
本当に強盗に殺されたにせよ、目撃者なんてものはいない。
この都で強盗一人を見つけ出すのがどれだけ大変か、考えただけでも頭が痛む。
これから起こるであろう事を想像してしまい、トキの気分は落ちていく。また別の仕事が増えるからだ。
いっそ他所のから来た者なら、別の部署に丸投げできるのにと、いけないことまで考えてしまう。
何にしても男の身元を調べないと事には何も始まらない。
ため息をつく憂いを孕んだトキの表情に、近くにいた娘がうっとりと見惚れている。女ならこれが普通の反応で、それが当たり前だと思っている。
だからこそ最初に会った時、何の反応もしなかった事が新鮮で、男である可能性すら頭にはなく、興味を持ってしまった。
過ぎた事だと割り切って、あの容姿なら勘違いしても仕方ないとも思っている。ただ、なぜか負けた気がするのは相手に興味を持ったのが自分だけで、ダンはトキのことを何とも思っていないからかも知れない。
だから今日は少し気分がいい。
些細なことだが、ますますダンに興味が湧いた。
あれが好奇心や冷やかしではない事はわかっている。根拠はないが、仕事以外にものぐさなあの下働きが、そんな面倒なことをするとは思えない。
それに、あの目は観察していた。何かを探し、何かを見つけていた。
一体なぜ、何のために観察し、何を見つけたのか。
今考える事ではないと、わかっているが気になって仕方ない。
ふう、と息を吐き、自分に提案する。
「今日行ってみるか」
あと一押しといたところ。そろそろあの店主が折れるはずだ。出し渋っていると言うよりは、良い意味で狡猾なだけなのだろう。
最初は命令とはだったとは言え、本当にいいものを見つけた。
あれは打算的に見えるが、ただ単に面倒を嫌っているだけで、その結果が利益を生んでいるだけに過ぎない。
決して踏み込ませない、そして踏み込んでこない。これほど都合がいい相手もいない。
思っていた手が通用しないなら、外堀から埋めて断れない状況を作ればいい。今日の事もある。いい機会かもしれない。
今はまだ、近づこうとすると離れていき、触れることさえ許してくれない猫だ。そっぽを向く猫を膝に乗せるのに、今更手段なんか選ばない。
「……ふ……ふふ……」
一人で笑っていると、何とも言えない表情の部下達が見てくるが気にしない。
そんなトキの肩に何かがのしかかる。
「トキ〜? お前、随分と趣味変わったじゃないか」
苦手な同僚がそこにいた。見た目は良いが、中身は最悪の男だ。
トキ以上にガタイのいい身体に官服を纏い、寄りかかってくるタイランは、くくっと喉を鳴らして笑う。
そもそも今日は非番のはず、何故官服を着て現場にいるのかと疑問に思ったが、彼から漂ってくる香にいつもと違う香の匂いが混じっていれば、どこにいたかなんて簡単に察しがつく。
そして、知らずのうちに、彼の香を覚えている事に寒気がした。
服に付いた白い粉と首筋に赤い線までこさえていれば疑う余地もない。ついこの間が給料日だった。昨夜はさぞお楽しみだったのだろう。非番で官服を着ているのも、妓女のウケがいいからだ。
一応同僚ではあるが、歳が離れたこの男とはそれほど親しい間柄でもなく、どちらかと言えば苦手でと言ってもいい。
だが、どうも彼の中でトキは彼と同じ人種にされているらしく、会えばこうして馴れ馴れしい態度を取ってくる。それを見ている周囲のものが仲が良いと勘違いするもの仕方のない事かもしれない。
ただ、嫌いというわけではないのだが、無節操なこの男と同じにされるのは正直不愉快でもある。
「どこの子だ?」
いつから見ていたのかわからないが、少なくともダンがただの通行人で無い事は気付かれている。
ちゃんとは見ていなかったのだろうか、口振りからして女だと思っているらしい。
ダンは女だと思って見れば女に見える。そう思わせてしまうくらいには整った容姿で、加えてそこいらの下手な妓女や華女よりも所作が綺麗なのだから、本人にだって原因はあるはずだ。
似たような勘違いをしていた手前、馬鹿にするつもりはないが、わざわざ説明してやる道理もない。無視だ。
「なんだよ、俺に教えたくないほどお気に入りなのか?」
相手にするだけ無駄だと頭では分かっていても、煽る口調が癪に触る。
お気に入りかどうかで言えば、その通り。
それでも、絶対に教えるもんかと口を継ぐみ、横目で同僚を見る。
「睨むな睨むな。取らねぇから勿体ぶらずに店だけでも教えろよ」
この男にダンを見られたのはあまりいい事ではなかった。
女を欲の吐口としか思っていないこの男の好みが、派手でふくよかな女だけであれば良かったが、生憎、この男は地味で線の細い幸薄げな女を好き勝手する趣向がある。一度自慢するかのように語られた話は、何とも胸糞悪いものだった。
今の反応を見るに、ダンも好みに入るらしい。
もし男だと知ったところで、この男なら気にせず手を出しそうだ。そんなことになれば、自分があの下働きに殺される。
物質的な死ではなく、精神的な死だ。
ついこの前マオシャから酒を盗んだ豪の話を聞かされ、それ想像してしまったことを後悔した。
しつこい同僚の腕を振り払い仕事をするフリをする。管轄の違うタイランはそれ以上トキの邪魔はせず、大人しく野次馬に紛れている。
仕事といってもトキが何かをする訳でなく、既に優秀な部下によって運び出されようとしている死体のそばに寄れば、ふとダンの言っていた言葉が気になった。
官に持ち上げられて丁度良い高さにある筵をめくって男の足元を見た。
綺麗に磨き上げられた靴があるだけで何もおかしいところはない。持ち上げてみても、何を見れば良いのかすらわからない。
踵がどうのと言っていたが、何でこんなものが気になるんだ?
本日二度目。トキのその行動を官達が奇異の目で見ていた。




