14 空腹
最近色々あったせいで、普段通りに仕事ができる事がすごく安心する。注文の酒を酒瓶に移し、華女に渡せば小走り気味に部屋を出て行く。日が落ちてからが掻き入れ時だ。働き蜂のように行ったり来たり、休む暇なく働いている。
特に今日の忙しさは異常だった。
今日は久々にリャオが店に出る。マオシャの妹として、二人が並んだ姿をもう一度お目にかかれるのだ。
その噂を聞いてか、二人を見ようと客が押し寄せた。だからといってその全員と相手できる訳もなく、当然ほとんどの客は別の華女に金を落とす。それでも運良く姿を見れる事を期待して、男達は店にやってくる。
他の華女の立ち場がなー…
溢れて指に付いた酒を舐めとると、舌先がピリッと熱い。タンバが辛口好きだからか、店の酒には少し偏りがある。
芳醇旨口を好む客が来た時は、好みの酒が無くあまり満足してもらえない事もあった。品揃えが悪いわけじゃないが、もう少し辛口以外の酒が欲しいところだ。
「ちょと早く!」
忙しくなると華女達は目に見えて短気になる。急いだ所で大して意味もないと思ってしまうのは、男女で考え方が違うからだろうか。
そもそも酒の準備をダン一人でするには限界があった。一人の客の飲む量は知れているが、何十人分となると手が回らない。それでも他の華女に任せるよりは仕事は早い。
人手を回してくれと何度タンバに頼んでも、一人でやれの一点張り。最近では諦めて、小言を言われながら仕事をしている。
以前はダンの他に二人下働きがいたが、立て続けに辞めていった。何をしたか知らないが、タンバの逆鱗に触れたのだろう。でなければ、タンバが切り捨てることはない。この前酒をくすねた豪達も、酒代を給料から引かれた以外、これと言ってお咎め無しだ。
夜が更ければ客も減り、客足が落ち着いてきた頃に一息つけた。忙しいのかタンバが来る気配はない。
つまり今日はタンバの差し入れが無く、ダンは腹を満たせないという事に気が付いた。一度意識してしまうと、拍車がかかったように腹の虫が鳴き始める。
普段は差し入れのおかげもあり、さほど腹も減らずに眠りにつけば、朝餉の時間まで我慢できる。しかし、今日に限って忙しく、差し入れも無いときた。それにまだ、仕事終わりの時間にもなっていない。
もう無理だ。
しばらく粘ってみたものの、欲求の殆どが食欲に偏っているダンにとって、これほど苦痛な事はなく、我慢できずに部屋を出た。
歩くたびに腹が鳴り、それを聞く事で余計に腹が減る。避けようのない悪循環。炊事場に着く頃には、胃の中が空っぽになっている幻覚が見えた気がした。
「あら? どうかしたの?」
腹部を押さえたダンを見て、厨房に一人いた華女が心配して駆け寄る。以前、蕾の形をした蒸しパンを分けてくれた華女だ。
具合が悪いと思ったのか、横に回り背中に手を当てた。それと同時に腹が鳴ると、驚いて手を引っ込め、次の瞬間には顔を覆って笑いを堪えている。
「何か残り物があったはずだから出してあげる」
笑いの余韻を残した表情で、華女は厨房の奥へと消えていく。気力も体力も底を尽きたダンは椅子に座り机に体を預けた。本当にダンの腹の虫は主張が強く、腹の音で笑われるのは慣れている。
最近食べる量が明らかに増えている。特に生活に変化があったわけでもなければ、仕事量が増えたわけでもない、正直何故かがわからない。
それでも、今までも人の何倍も食べていた為、これ以上量を増やすのは申し訳ないと思って遠慮していた。だが、ここまで来るとそんな気持ちも薄れてくる。
「はいこれ」
華女が持ってきた大きめの鍋には半分くらい粥が残っていた。鶏の出汁で味付けされた粥は、あまり具は多くないが、野菜と解し身が入っていて、なんとも食欲を唆る匂いが漂う。
人数分用意されているはずの粥が、何故こんなに余っているのか不思議に思ったが、その理由はすぐに分かった。
「みんな席で食べたからいらないって、勿体無いから食べちゃって」
「ありがとうございます」
客が食べる料理は当然別にある。席と言うのは、客が華女達の分も料理を注文し、その食事をいただく事。大抵それを食べれるのは姉か、良くて妹までだ。姉付きがその料理をいただける事はあまりない。
だが今日の客は気前が良かった。最初はマオシャとリャオを買った客だったそうだが、それに続いて色んな客が姉の抱える華女達の分を出し始めた。見栄の張り合いとも取れなくないが、華女達はいつもとは違う食事を楽しんだ事だろう。
いいなー…
一度は席で出される料理を食べてみたい、と思いながら、温め直されて湯気の立つ粥を、空っぽの胃に流し込んだ。
ダンがお礼に洗い物を手伝うと言ったが、華女は拒んであっという間に片付けてしまった。不満そうな顔をしていると、バシバシと乱暴に背中を叩かれる。
「あんたが食べてくれたおかげで無駄にならなかったのよ、気にしないで」
この華女は随分とお喋りで、食事をしている間いろいろな話を聞かされた。そして聞いてもいないのに、自身の事もはなしていた。
彼女はここの店で働いて長く、表の商売は合わないと言って裏に回った変わり者だ。年季がもうすぐ明けるらしいが、出て行くつもりはないようで、ずっとここで働き続けるのだとか。
同じ店で働いていたとしても、普段顔を合わせる事がなければお互いに知らないまま。
ダンも人の顔や名前を覚えている方ではないので、関わりのない華女の事など知りもしない。だが、彼女は食べ物を分けてくれる人だと分かったダンは、今後彼女に懐くだろう。
少しばかり満たされたが、それでもまだ足りないと体は訴えている。
これ以上、食費がかかると困るんだよ。
下働きの給金は華女とは違い、額はそれほど多くない。比べてしまうと少ないが、食事付きで安定した給金を貰えるならいい仕事だろう。
だが、ダンは華女達よりも多額の借金を抱えている。華女のように働いた分から少しずつ返済し、残った金が手元に入る。
そしてダンは給金のほとんどを返済に当て、残った分を食費として店に支払っていた。
本来食事は給金の一部であり、費用を支払う必要は無い。
ただ、自分が人の何倍も食べている、その申し訳なさからダンは律儀に追加の食費を出していた。そのためダンの手元に残るのは小遣い程度。
これ以上食べる量が増えれば食費が嵩み、借金の返済額が減ってしまう。ダンを気に入っているからと言って、タンバは金の関わる事では甘く無い。
そもそもダンが抱える借金は、半分は自分の分だが、もう半分は他人のものだ。
自分の分だけならまだいい。
本人の同意なく店に売るのはさして珍しくもないし、働けばいずれ出ていけるのだから大した問題でもなかった。
問題は他人の分の借金が、華女一人分の身請け料だということだ。
条件付きの後払い、そのための言わば担保としてダンはここにいいる。
正直、何故自分が返済をしないといけないのか、と文句を言ってやりたいが、もう居ないのだから仕方ない。
仕事自体は好きなので、今では割り切っている。
持ち場に戻るとタンバが一人茶を飲んでいた。
「どこ行ってたのよ」
文句を言いながら、菓子を盛った皿をダンの手前に押しやった。タンバの向かい側に座り、菓子に手を伸ばすと、手の甲を叩かれる。訳が分からずタンバを見たが、黙って茶を啜るだけ。
もう一度手を伸ばしてみると、今度は何もしてこない。初めて見る菓子だったが、外側に付いたゴマと中に入った餡が程よく甘くて食べやすい。不思議な食感にまじまじと菓子を眺めていると、タンバが口元を手で隠す。
「ふふ……」
ゆるりと上がる口角に、いい知れない不安を感じた。
「気にしないで? いっぱい食べなさい」
タンバが口元を隠して笑う時は、何かいい事があった証拠だ。普段なら気にしないそれも、今は何故か自分も関係しているのではないかと勘繰ってしまう。
不安になりながらも、プチプチと弾けるゴマの食感を覚えてしまっては、伸ばした手を引っ込める事はできない。多分気のせいだ、と自分に言い聞かせて、未だに満たされない空腹を紛らわした。




