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11 髪紐



 その日、トキは御簾の前で身を固めていた。それを御簾の向こうからあのお方は戯のように笑っている。


「弟ね」


 呟く声もこの部屋では嫌にはっきり聞こえてくる。王宮の一角にある、存在すらほとんど知られていない小さな部屋。

 そこで今回の任務の報告をすれば、帰ってきた第一声がそれだ。

 夫が橋に通っていたのは弟に会うためで、浮気はしていない。そう報告するだけだったはずだが、この雰囲気はしばらく返してもらえないだろう。


「以前から会ってはいたようで、今回のことも……」


「で?」


 食い気味なそれに言葉が続かない。


「親しい者の話では、兄は弟に対して過保護であると」


 長い沈黙の後、御簾の向こうから聞こえてきたのは小さな笑い声。分からずに御簾の影を見つめるとその笑い声は大きくなる。


「その弟、もうすぐ父親になるそうよ」


 父親? 何の話だ。


「その子供のことで会いに行っていたらしいわ。あの子、我慢できずに問い詰めたのよ」


 その時やっと気付いた。

 あの時過保護の一言で片付けたダンが、その事を知らないはずもなく、知っていてそれを隠していたと。


「お前はまだまだ可愛いわ」


 やられたな。


 出ていこうと腰を上げた時、笑い声がピタリと止む。見えなくても鋭い視線がトキを捉えていることは容易に想像できた。


「宮の香具師に何の用があったのかしら?」


 今回の件とは関係ない、お前に与えた権限は何の為のものだ。あるはずない声が聞こえてくる。

 トキは今までのような簡易的なものではなく、一言一句に至るまで全てを報告した。あの香はまだ都には持ち込まれていないものだった為、こちらが処罰を与えることはない。ただ、それを持ち込んだ誰かがいると言うのが問題だった。


「調査は行っていますが、その男について目ぼしい情報も無く」


 だからまだ言いたくなかったんだ。


 もう一度あの姉付きと話をしたが、例の男について覚えている事が少なすぎる。一番不可解なのは、男の人相。一度顔を合わせて会話をしているのに、顔だけが思い出せないのだと言った。

 嘘を付いているのだとしても、彼女以外に男を知る人物もいない。出来るだけ情報を集めなくてはいけないのだ。


「その下働きはどうして香の事を知っていたのかしらね」


「知り合いが持っていたから知っていたと」


 少しの間の沈黙。御簾の向こうでは紅をひいた唇が美しい弧を描いているだろう。


「その子、面白そうね」


 手懐けろって事か?


 その意図はわからないが、命令であるならやるだけだ。このお方が必要であると判断したなら、いつか役に立つのだろう。

 皮肉にもトキは自分の容姿が使える事を知っている。それを使えば容易な事、元々ダンには興味があった。良い機会だとトキは悪戯を考える子供のように笑う。

 ダンには無意味であることも知らずに。




●ーーーー●ーーーー●ーーーー●




 あの姉付きは別の店に売られる事になった。非人道的に思えるが、粗相をした華女が売られるのはよくある事。むしろ罰としてはまだ軽い方だ。

 それに借金をしている店が変わるだけで、今までと何も変わらない。どこの店でも人手はあって困るものでも無い為、快く買い取ってくれる。


 ただ今回少し違うのが、姉付きが売られるのは都の花街にある店だと言う事。この街の華女達はあそこに売られる事を嫌がるのだ。やってる事は同じはずだが、華女達の間では恐ろしい場所だとされている。


 そして、それを提案したのはマオシャだった。


 あの姉付きは自分を庇ってくれると思いマオシャに全てを話したのだろうが、それは大きな間違いだ。マオシャが許すはずがない。

 あの姉付きは自分こそがリャオを想い、一番近い存在だと思っていたようだが、ダンからしてみれば違う。誰よりもリャオを愛しているのはマオシャだと断言できる。


 マオシャは出て行く姉付きの耳元で何かを囁いていた。後で聞いても激励だと言っていたが、あの姉付きの様子じゃ違うだろな。



 結局リャオは五日間眠り続け、何事もなかったかのように目覚めた。


「あれ? なんでダンがいるの?」


 いつものように様子を見てから、仕事に戻るため部屋を出ようとした時だった。背後からの声に振り返るとリャオは体を起こし、首を傾げている。


「……おはよ」


 普段変わらないダンの顔景色も、この時ばかりは安堵に緩んだ。


 医者を呼び診てもらえば、何の問題もないと診断される。少し記憶の混濁があったが、事情を話せばリャオは何も言わずにただ静かに聞いていた。薄々気付いていたのか、特に驚く様子もない。


 五日も眠り痩せてしまったリャオはまだ店には出ず、しばらくは安静にしないといけない。以前なら意地でも店に出ようとしていたが、それも素直に受け入れた。


 あの香を使った人が、別人のようになってしまうのは知っている。

 大人しすぎて正直怖いが、マオシャがついているから大丈夫だろう。





「おきて」


 まだ夜も明けきらない時間に、タンバの声で目を覚ました。こんな朝早くから叩き起こされ、ダンは寝台に丸まったままタンバを見上げた。


「なに」


「トキ様がお呼びよ」


 ダンは朝にめっぽう弱く、その寝起きの悪さは店の誰もが知っている。

 目を開けたまま寝ているような状態ならまだ良い方で、無理やり起こした時のダンの機嫌の悪さは、豪でも手を焼くほどだ。

 暴力を振るうわけではないが、人を殺すような目と無言の憤懣ふんまんが恐ろしい。

 ただでさえ無理やり起こして機嫌が悪いのに、トキの名前を出せば目つきの鋭さは増す。


「どこ」


 身体を起こし顔に掛かる髪をはらう。

 切るのが面倒だから伸ばしているが、これはこれで鬱陶しい。


「マオシャの部屋」


 それだけ言うとタンバは、そそくさと部屋を出て行った。身支度をしながら今までトキが店に落とした金を計算し、苛立つ気持ちをなんとか沈める。

 無表情な人間は感情がないとよく言うが、ダンはそれに当てはまらない。


 トキは十日と空けずマオシャの元に通っている。金払いが良いのもあるが、マオシャの好みだったのか他の客より優遇されているように思えた。


 ただ珍しくない役人の店通いも、ここまでくると異常だ。大酒飲みのあの客でさえ月に二度程度だが、それでも頻度は多い方。

 詮索するつもりもないが、もし何か裏の顔があるのだとしたら、店の為にもご遠慮願いたい。


「あら、おはよう」


 部屋に行けば、何が可笑しいのかダンの顔を見た途端マオシャが笑い、寝起きのダンにはそれすらも不快に感じた。それに気付いているにもかかわらず、ダンが手を出せないのを良い事に、マオシャはいつまでも笑っている。

 既に身支度を整えたマオシャは、タンバに用があると言って出て行った。

 部屋を見回してもトキの姿はなく、ダンは小さく舌打ちすると寝室に向かった。


「失礼します」


 薄暗い中で、寝台に腰掛けるトキは昨夜の余韻を隠そうともしない。はだけた寝巻きを直しもせず、引き締まった筋肉を惜しげもなく晒している。

 目が合えば入り口に立つダンを手招きした。


「良いものをやるからこっちにおいで」


 甘く囁くようなその声に、ダンは寒気を覚える。この男は、こうやって女をモノにするのだと想像してしまい、今の状況も合間ってか嫌に生々しい。


「なんですか」


 うとんじ顔で見下ろされていると言うのに、トキはうっとりと微笑んでいる。そして側にある棚から何かを取り出すと、ダンの前に差し出した。


 握られているのは赤い紐。見覚えのあるその紐は、今ダンが使っている物とよく似ている。

 髪の長い男女が髪を纏めている布を縛るために使う紐。

 その艶やかな赤い紐の両橋には、翡翠色の玉や見たことのない飾りがあり、髪を縛ればその紐が垂れ下がり、揺れるようだ。

 マオシャやリャオが付ければよく似合う事だろう。


「髪紐だ」


 そんなこと見ればわかる。


 ただじっと眺めて受け取ろうとしないダンに痺れを切らしたのか、腕をダンに近付ける。しつこいので受け取ったが、未だに意味がわからない。


「お前も年頃なんだ、少しは着飾れ」


 言葉と行動が合っていない事にダンは混乱し、さっきまでの不快感はいつの間にか消えていた。

 着飾れと言いながらどうして髪飾りを渡すのか。実際ダンの見た目は質素シンプルだ。貧相ではないが飾り気がない。見かねた華女が時々服などを見繕ってくれるが、それでもこんな物は初めてだった。


 どうしても理解できずにトキを見る。


 人から頂いたものに文句を言うべきではない事はわかっている。ただこれはダンを揶揄からかっているのか、ただトキが馬鹿なのかがわからない。


 どうすればいい。


 手に持つ髪紐に問い掛けてみたが、何の気休めにもならない。

 促すような視線を向けられて、このままでは拉致があかないと思い、ダンは自分の結い紐に手を伸ばした。

 髪を纏めた布を縛っている紐を解くと、開放された髪は滑るように垂れ下がる。腰元まで伸びた髪をもう一度耳の高さで一つに纏め、上から被せた布を新しい紐で縛った。

 揺れる飾りが鬱陶しい。


 それを眺めていたトキは満足そうに頷いた。


「似合ってるじゃないか」


 ダンの頬に手を伸ばす。


「紅でも塗れば様になるだろ」


 まるで真に自分が求められているかのようなこの笑みに、大抵の女たちは落ちていく。それを知っているからトキは微笑む。


「あともう少し、愛嬌があれば買ってやるのにな」


 トキの右手が頬に触れようとした。



 バチンッ



 音と同時に痛む右手。何が起こったかわからないと言うように、はたき落とされた手をじっと見る。


 ああ、牢屋行きだな。


 役人に手を上げれば当然牢屋送り、なのに気持ちは晴れやかだ。戸惑っているトキを見下ろし、さっきまでの違和感の正体を悟る。


 不思議と怒りはない、むしろ目の前の男が哀れに思えた。


「私は男です」


 そう吐き捨て、部屋を出た。背後から何か聞こえた気がしたが、振り返るつもりはない。





ピチピチの男の子

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