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10 願望



 ダンはリャオの姉付きを見下ろした。泣きながら震えている彼女が、何を話すかなんて聞かなくてもわかっている。

 それでも自分が説明するより、彼女が話した方がこの二人には理解しやすいだろう。

 マオシャとトキは姉付きの差し出した香を凝視し、まだその意味を理解できていない。


 香を持ち込んだのが商人は無いならば、残るは客。だがマオシャから指導を受け、華女としての誇りを持ったリャオが、決まりを破り客からもらったものを使うだろうか。


 否。


 ああ見えてリャオは臆病だ、得体の知れないものには手を出さない。


 だとすれば、可能性は一つ。目的はわからないが、リャオの知らない間に香を薫いた者がいる。

 ただこれはダンの憶測に過ぎない、だから確信を得る為にトキの力を利用して外堀を埋めてこうとした。


 リャオが腕を切った時、手当てをするダンの隣で震えていたのがこの姉付き。その時、他の姉付きからはしなかったリャオと同じ香の匂いが、彼女からはしていた。

 移り香と言えないそれが、彼女から香る原因。香を薫いた時その場にいた、或いは香を持っている。


 まさか自分から名乗り出るとは思わなかったが、手間が省けていい。


 一体誰から手に入れたのか、香の出所を知る一番の近道がこの姉付きだ。


「私はただ……少しでも楽になってもらいたくて」


 震える声で彼女は語り始める。


 二人は同じ日に店に売られ、年も同じだった。彼女はそんなリャオを、自分と同じで哀れな存在だと思っていた。


 だがすぐにそれは違うと知る。


 同じなんかじゃない。リャオは美しく誰よりも華女になるべき存在、なるべくして産まれて来たのだと。

誰よりも近くでその姿を見ていた彼女にとって、リャオは誇りだった。


 血の滲むような努力とその美貌でリャオは部屋持ちへと上り詰め、これからもっと高みへと登っていく。

一人の華女となったその姿を近くで見たい、側にいて支えたい。そう強く願うほど、彼女はリャオに心酔していた。


 そうして誰よりも側でリャオを想い、見ていたからこそ理解できた。周囲の期待や嫉妬、マオシャという大きな存在。それがどれだけリャオを苦しめているのかを。

 期待され妬まれ、それでも弱音を吐かないリャオをずっと側で見て来た。そして救おうとした。


 だが自分に何ができる、苦しむ彼女をただ見ていることしかできない。自分がいかに無力な存在か思い知り、どれだけ足掻いてもその現実は変わらない。



 『彼女を助けたいのかい?』



 そんな時、ひとりの客が声をかけてきた。


 いきなり現れたその男は、小さな袋を姉付きに渡して穏やかに微笑む。悠然とした立ち姿に警戒心は不思議と生まれなかった。


 蜜のように甘い声で男は言った。



 『この香を薫けば、望む未来が見える』



 唇に添えられた指がまるで他言する事を禁じているようだった。


 それを信じたのか?


 皆がそう言いたげな視線を姉付きに向けた。


 曲がりなりにもひとりの華女、それがここまで浅はかだとは誰も思わない。特にかつて姉付きとして抱えていたマオシャは、信じられないと額を押さえる。もうマオシャが庇う事はないだろう。


「私も最初は信じて無かったけど、どうしてもリャオを助けたくて……」


 咽び泣くせいで続きを話す事ができないでいる。


「信じてないのにどうして香を使ったんだ?」


 宥めるような優しい声に、そっと肩に置かれた手。姉付きが見上げれば受け入れるように微笑み、溢れる滴を指で拭って涙を止めた。

 女の扱いが上手いとこう言う時に便利なようだ。何度も経験しているのか、泣いている女への接し方が違う。自分には到底できない、とダンは初めて感心した。


「だって……だって、本当に未来が見えたんです。リャオが一番の華女になる未来が」


 救い求めるようにトキに訴えている。こんな時でもひとりの女だ。


 疑った、だから自分で確かめて信じてしまった。


 この姉付きは説話の王と同じだ。受け入れられない現実から目を背けて、華女として伸び悩んでいるリャオの姿を否定した。

 未来を見たんじゃない、願望を見ただけだ。リャオが華女として華々しく咲く姿、彼女はそれを望んでいた。


 そんなことより気になるのは。


「どうやって香を嗅がせたんです?」


 ダンの声に姉付きは肩を震わせる。憶測は確信にする必要があった、その為の確認だ。


 リャオも部屋持ちの一人、事の良否は判断できる。臆病な性格故に警戒心も強い。得体の知れないものが持ち込まれたら気付くはずだ。

 どうやって彼女の目を盗んで、香を嗅がせたのか。それがどうしてもわからない。


「毎晩、リャオが眠っている間に……朝起きる前に彼女の香を少し薫いて」


 一度寝ると起きないから。そう彼女は呟いた。


 寝ている間に香を薫き、気付かれないようにリャオの香で隠した。部屋に出入りしても怪しまれない姉付きで、誰よりのリャオの事を知っているから出来たのだろう。


 つまり、この事をリャオは一切知らない、それがわかれば十分だ。


「リャオに、本当の自分を見て欲しくて……」


 リャオがこの姉付きと同じ夢を見る事なんて無い。それはこの香が、嗅いだ者の不安や願望といったものの幻覚を見せるから。

 男は『望む未来』と言った。疑っていてもそう思い込んでいたから、姉付きはそれに準ずる夢を見た。


 だったら何も知らないリャオが香を嗅いだら。


 彼女が抱えた多くの不安。恐怖。

 現実のような悪夢を毎晩のように体験し、起きていてもうまくいかない焦りと重圧。いつしか夢と現実の区別がつかなくなったリャオはどうなった。


 肩を抱かれた姉付きは、トキに寄り添って震えている。

 腹の中で何かが蠢いて、今にも口から溢れ出そうだ。このまま姉付きを見ていると、自分が何をしでかすかわからない。

 ダンは小さく息を吐き、目を閉じようとした。


 バチンッ


 姉付きが床に崩れ落ちる。心なしかスッキリしたが、姉付きを見下ろすマオシャの顔は正直見たくなかった。眉間に寄ったシワ、食いしばった歯が嫌な音を立てる。


「私はただ……リャオの為に」


 赤くなった頬に涙を落とし、怯えた姉付きが弁解しようとするが、マオシャの視線がそれを許さない。


「それはただの自己満足よ……消えなさい」


 ごみを見るようなマオシャがそう言い放つと、姉付きは床を這いずり回るように部屋を出て行った。


「たまにいるんです、ああいう子」


 頬に手を当て困ったように微笑むマオシャを前に、トキはいつぞやのように固まっている。





誤字いっぱいです

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