1 橋と街
高く登った日が、いつになく煩わしいと感じたのは、何かの前触れだったのかもしれない。
都への使いの帰り道、ダンは橋へと繋がる門の前で足を止めた。
橋に入るために並んだ人々が門の外まで溢れている。昼間のこの時間はいつもこうだ。
都と対岸を繋ぐこの橋が少し変わっているのは、その巨大さと途中で川下へと分かれる道。その先には川に浮かぶように存在する街がある。
かつてゴミ溜めと揶揄されていたその街が、今では都にも劣らない賑わいを見せ始めたのは、まだ最近のことだ。
ダンは人々が並ぶ列を通り過ぎると、門兵の詰所の裏から橋に入った。
国が発行する通行証を持たない者は、手続きをしないと通れない。しかし一日に何百人もの人が出入りするためか、通行証を持っていても橋に住む顔見知りに対しては、別の道を通してくれるほど緩いのだ。
「お帰り、今日も店の使いか?」
出入り口に立つ一人の門兵が、ダンの背中に話しかける。
「うん」
ダンは振り返り無愛想に返事した。決して仲が悪いわけではなく、寧ろ良い方だと言っても良い。
表情が残念なほど乏しいのは、親しい者なら誰でも知っている。
門兵に手を振り、店への道を急いだ。
芳ばしい香りが漂う露店や行き交う人々の間を縫いながら、川下へと続く道に入る。
街の入り口に立つ兵が睨みつけるような視線を向けるが、ダンは小さく手を振ると、途端に兵は穏やかな表情になり同じように手を振った。
店では姉の身の回りの世話をする、姉付きや妹と呼ばれる女達が、慌ただしく駆け回る。
様々な店が軒を連ねる中で一際存在感を放つのは、女達が自分の持てる芸を売り、その甘い蜜で男を酔わせる店。ダンが下働きとして働く『シーファン』は、この街でも一二を争うほどの華店だ。
都の花街とはまた違った華店は、都や外からも通う客がいるほどで、この街の至る所にある。
日が落ちる前のこの時間は、街のどこも慌ただしい。
ダンも自分の持ち場に戻り、昼間に届いた夜の分の酒や食材の量が帳簿と同じかを確認しする。
届けられた時に一度は確認しているのだが、知らない間に誰かが盗んでいく事が時々あるのだ。
十分な食事も給金も与えられているはずなのに、何が足りないのか。
「おや、今日は随分と早かったね」
部屋の入り口で煙管を咥えた女が、ダンの背中に話かけた。
長身ですらりとした細身のタンバはこの店の主人。
今でも店に出ているような見た目だが、十何年も前に引退をしてこの店を引き継いだ。
若くして店を任された彼女を、最初こそ周りは女には無理だと馬鹿にしていたらしい。
今ではそんな風に笑う者もいないだろう。誰だって命は惜しい。
「今日はマオシャの客が来るらしいから、いつもの酒をとっといて頂戴」
“マオシャの客“で”いつもの酒“を予め取っておくのは一人だけ。その客はいつも決まって店一番の酒を湯水のように飲み続ける大酒飲み、金持ちなうえ人柄もよく、来る時はいつも使いを出して知らせてくれる。
それだけの上客には、できれば満足してもらいたいところだが。
「まだ残ってたでしょ?」
タンバは表情を曇らせる。
「今朝、リャオさんもそのお酒を用意しろと」
この店の稼ぎ頭と言えるマオシャは、茶を飲みながら話をするだけでも、驚くほどの大金が一瞬で消える。
そのマオシャに対抗心を持っているのが、最近部屋持ちになったリャオだ。
元々はマオシャの妹だったが、部屋を持った途端マオシャに噛み付き出した。リャオの一方的な感情ではあるが、露骨な態度に温厚なマオシャも流石に無視できなくなっている。
店としてはもう少し良い関係を築いて欲しいのだが、どちらも自分の方が上だと思っているせいで、関係が良くなる気配もない。
若く美しいリャオも人気はある、だからといって到底マオシャには及ばないのだ。
よりにもよって、そんな二人が同じ酒を頼むなんて。
店の女の格を決めるのは、何も客だけではない。身に付ける装飾品、極上の酒、受け持つ妹達の質と量、その全てが極上でなければならない。
どれか一つでも妥協する事、それは自ら己の品位を貶めているのと同じ。
そんなこと、彼女達の矜持が許さない。
「仕方ない、マオシャのお客の分が優先ね。リャオには私から言っておくよ」
ため息をついたタンバが、気怠げに部屋を出て行った。