トランスミッター
深い夜の底、道路が金切り声を上げる。テールライトが弧を描き、自動車が走り去っていく。こんな時間に似つかわしくない二人の子供がその足跡に立ち尽くしていた。そこには自動車に轢かれた猫の亡骸がある。すでに息はなく、鳴き声を上げることもない。
「兄ちゃん、見えなかったのかな」
「多分、見えてるよ。でも、見えないふりをしてるんだ」
ひき逃げされた猫の気持ちが二人の中に流れ込んでくる。腹が抉れ、内臓がこぼれる亡骸を兄は優しく抱えた。弟が兄のシャツの袖をつまむ。深い夜の底には冷たい空気がゆっくりと流れていた。
その男は馬渕と言った。鉄骨の螺旋階段を一段一段噛みつくように上っていく。むきだしの骨と骨が衝突するような乾いた足音が生まれる。それは階段板の隙間に落ち、地面で砕けて消えた。馬渕は己が生み出す足音の行く末を気にかけることなく、螺旋階段の上を目指す。今はこの螺旋階段を上ること。それだけが許された行動だった。
馬渕という男の父は権力という言葉を具現化したような男だ。この国の脳は権力にしがみつく政治家達の集合体。そんな脳に癌細胞のように浸潤し、支配する父。その権力は絶大で大臣クラスの人間が簡単に頭を垂れてひれふす。父は馬渕を息子として溺愛し、全ての行動を許し、守る。仮に馬渕が人を殺したとしよう。人を殺せば、誰でも罪を負い、罰が待つ。それが法治国家の常識。そんな常識も父は簡単に握り潰す。これは仮定の話ではない。馬渕は自分の欲望のままに人を殺している。直接的にでも、間接的にでもだ。一人だけではない。すでに正確な数は分からない。時には身代わりを立て、必要があれば、金と暴力で父はその全てを握り潰した。父の権力という堅固な鎧を纏う馬渕の所業は理不尽で不条理であっても全てが許される。世界が不平等に完成していた。それ故に馬渕に良心が育たなかったのか。それを教えるものがいなかったのか。はたまた、元々の性分であったのか。そんなことはもうどうでもいいこと。馬渕はその罪により螺旋階段の終わりと同時に現れる見晴らしのいい屋上から飛び降りることが決まっている。
青空の下に広がる屋上、いつか使用されることを夢見る鉄材がブルーシートに覆われて眠る。そこから見える景色、格子状に並んだ高層ビルの群れ、太陽から伸びる炎の帯が窓硝子で反射し、黄金色に輝いて映る。それほど悪い景色ではない。十人中九人が肯定的な感想を述べるはず。屋上に立つ馬渕にはそんな景色すら理解できない。操り人形の如く屋上を囲う鉄柵を目指すだけだ。
鉄柵は七節が肩を組んでいるように歪だ。その目的は自殺防止である。それにしては脆く頼りない。鉄柵に手をかける馬渕。経年劣化から塗料屑が剥がれ落ち、舞う。鉄柵の天辺に馬淵は立った。澄んだ空が近い。両の手を左右に伸ばす姿は翼を広げる鳥のようにも、十字架を背負う罪人のようにも映る。風が激しくうねり、馬渕を体ごとさらう。重力に逆らうことなく加速し落ちる。死という現実に恐怖することなく、一瞬で地面に叩きつけられた。かつて人の形をしていた馬淵の残骸は焼けたアスファルトにそびえる奇妙なオブジェのようだった。
これはユウの頭の中の出来事だ。視覚や聴覚ではない。脳細胞の一つ一つが作りだす映像と感覚、脳の奥深い場所で鈍い音が生まれた。馬渕が地面に叩きつけられた音だ。音は形や色、匂いさえ持っている。折れた肋骨が内臓器官に噛みつき、内からも破壊する。破壊されたのは馬淵であって、ユウではない。ユウには何の外傷もない。しかし、存在するはずのない痛みが脳内に生まれ、体を支配する。ユウは痛みで呻き声を漏らし、うずくまる。
この痛みは正義の代償。残骸にしか見えない馬渕が完全に死ぬまで終わらない。いつものこと。特殊能力トランスミッターが引き起こす同一視現象だ。やがて、馬渕の命が消えるとともに痛みも嘘のように感じなくなった。
この世界には正義が必要だった。不平等な世界を正すために。罪を償うこともせずのうのうと生きる罪人に罰を与えるため、正義は殺し屋という剣を持つ。殺し屋はみなあだ名を持つ。ナイフ使い、スナイパー、毒殺屋、殺す方法であだ名が決まる。その中で痕跡を残さない殺し屋と呼ばれる殺し屋がいる。言葉通り証拠を残すことなく殺人を実行する殺し屋。ユウのことだ。トランスミッター、自分の特殊能力にそう名前をつけた。ターゲットに疑似記憶を植え付け、その行動を操り殺す。馬渕は飛び降り自殺をした。それは馬渕の意思ではなく、植え付けられた疑似記憶のままに動いた結果だ。馬渕が己の罪を償うために自らの意思で飛び降りたわけではない。馬渕に全てを奪われて殺しても殺し足りない。そう願う弱者がいる。馬渕は罪人だ。だから、人殺しでも正義だと信じることができる。地獄に落ちるとしてもユウは依頼通り事を成す。そう決めている。
ユウのトランスミッターを使うためには必要な条件がある。弟であるケイが持つ特殊能力レシーバーだ。トランスミッターと対になるレシーバー。トランスミッターで生成した疑似記憶をターゲットの脳に植え付けるための受信機を埋め込む能力だ。ケイと二人で痕跡を残さない殺し屋が完成する。
科学が進歩し、あらゆるものがデジタル保存される時代、カメラで二四時間監視される世界であるが、脳の中までは監視できない。痕跡を残さない殺し屋と呼ばれる所以がそこにある。
馬渕に完全なる死が訪れ、痛みが消えた。ユウは立ち上がる。ポケットの中でバイブするスマホを取り出し、耳に当て、「ユウだ」と答えた。
「無事完了したか?」
「ああ、馬渕はダイブして死んだよ」
「それはよかった。体は大丈夫か?」
優しさを含んだ感情が心を触る。
「ああ、なんとかね」
「ならいい。後はゆっくり休めよ」
スマホが切れる。言葉だけが宙に浮かんでいるようだ。スマホの相手は佐久間という男。ユウとケイの里親であり、この仕事の仲介者。痕跡を残さない殺し屋と呼ばれ、今こうして生きていられるのも佐久間のおかげだと知っている。感謝すべきだろう。佐久間がいなければ、ユウもケイも今ここにはいない。それを言葉にしたところで佐久間は「気にすることはない。そういう契約だ」ときっと笑う。そんな想像が容易にできるから感謝の言葉を伝えたこともない。いつか伝えられればいいとユウは思う。地面にへばりつく馬淵の残骸を回収するため救急車がサイレンをけたたましく鳴らして通り過ぎていく。「向こうはもう死んでいる。こっちの方が重症だよ」とアスファルトが伸びる先に視線を移す。交差点には人が塊となり、信号が変わるのを待っていた。まるで鰯の軍隊。一人一人は弱い。それを隠すために軍隊を組む。信号機の色が赤から緑へと変わる。それに促された塊は列をなし、流れ出す。その流れに紛れ、ユウの存在は誰の目にも映らなくなった。
ターゲットは奥村、二十六歳、男、無職、無精髭、着古したTシャツにジーパンとサンダルスタイル。小さな公園でベンチに座る。奥村は煙草を吸っては踏み消し、缶ビールで喉を潤す。地面に半分埋まる吸い殻から紫煙が漂っていた。昼間から一人煙草とビールにまみれ、特殊な性癖による幼女誘拐を妄想する。その妄想は現実だ。奥村は幼女誘拐を実行した。九年前、奥村が一七歳の時の出来事だ。近所の公園で見つけた幼女を連れ去り、一週間部屋に監禁する。計画性のない幼女誘拐は警官が奥村の部屋に乗り込み、簡単に解決した。奥村の部屋は常に雨戸が閉められていた。父も母もその淀んだ空気が立ちこめる部屋に入ることは許されない。学校にも行かず、引きこもり、誘拐した幼女の口をふさぎ、拘束する。わいせつ行為をするわけではない。幼女を舐めるように眺めるだけ。それだけで奥村の欲求は満たされる。警察が乗り込んだ時、幼女の感情は消え失せていた。父と母との時間を奪われ、知らない男が自分を見ている。その恐怖が刻印のように脳に刻まれ、九年たった今も幼女は心的外傷後ストレス障害に震えている。未成年であったこと、幼女に外傷がなかったことから奥村は青少年更生施設で数年過ごし、今に至る。これは紛れもなく罪だ。
今もなお幼女誘拐という妄想やめられない奥村は社会的不適合者であり、立派な犯罪予備軍。公園を楽しむ子供連れの親子も老夫婦も目を合わさぬようにその視界を抜けていく。いやらしい視線で舐めるように行き来する人を見る奥村。ただ見ているだけで人々に嫌悪感を与える風体、その内面にある腐ったヘドロのような性格が空気から感じ取れる。本来市民の憩いの場であり、健康的な空間になるはずの公園は奥村が存在するだけで不健康極まりない澱んだ空気に満たされることとなる。
五メートルほどの遊歩道を挟んだ斜め向かいのベンチでケイは奥村を観察していた。遊歩道を底辺とする直角三角形を三平方の定理から計算すると、斜辺、つまり奥村との距離は八メートルとなる。距離を計算し、位置関係を確認する。奥村の近くにはケイしかいない。
突然風向きが変わる。ケイの座るベンチに奥村が纏う煙草とビールの匂いを含んだ風が流れてくる。不快な匂いが鼻腔に突き刺さり、古い記憶が甦る。父の記憶だ。思わずケイは目を閉じた。閉じられた視界は暗闇で何も見えないはずなのに、煙草とビール漬けだった父が現れる。上半身裸で拳を上げて笑っている。圧倒的な恐怖の象徴である父と奥村が重なる。もう父はこの世にいない。何度もそう呟き、ポンコツのエンジンがゆっくりと始動し回転数を上げていくようにようやく目を開けることができた。
一瞬の現実逃避が過ぎても、奥村はまだベンチに座っている。この時間、この公園で煙草とビールにまみれている。これは調査報告書通り。ケイは立ち上がり、奥村の座るベンチに足を進める。一歩一歩足を踏み出すたびに地面に足底が沈み、粘土様の土が留めようとする。たかが八メートル、そんな距離も手の届かない月のように遠く感じる。
「なんだぁ?」
奥村は黒い目を細め、目の前に立つケイに一言吐き、沈黙した。
奥村の黒目が白目を浸食する。眼球が黒と白のマーブル状に混じり合い、最終的には黒単独の硝子玉のようになった。硝子玉の表面は鏡のようにケイの顔を映す。奥村にはケイが認識できていない。沈黙と同時に止まった奥村の思考と時間。口が半開きの状態で、あほな子供のような顔。感情に呼応して動くべき筋肉が硬直し動かない。この男にレシーバーで受信機を埋め込む。レシーバーは触れることで始まる。ケイの中指と人差し指がすでに奥村の額に触れていた。滑らかなナイフのように指が額にめり込んでいく。皮膚、筋肉、血管、骨の組織と同化と浸食を繰り返し、出血することなく脳に、大脳辺縁系の中心にある海馬に到達する。海馬に指を突き刺し、レシーバーが完了する。
スマホが激しくバイブした。液晶画面にユウの名前が表示されている。右手にこびりつく異物感は消えない。いつものことだ。すでに公園から離れてケイは足を大学に向けている。異物感の正体は奥村の脳細胞。奥村だけではない。これまでレシーバーを使ったターゲットの脳細胞が渇かない粘着性のあるかさぶたのようにこびりついている。
「ケイ、終わったか?大丈夫だったか」
スマホから聞こえるユウの声に心が安心する。
「うん」
「ならいい。後は俺がやるから、ゆっくりしてろ」
「そんなに心配しなくていいよ。いつもと変わらないから。大学に行くよ」
「分かった。でも、無理するなよ。じゃあな」
そう、いつもと変わらない。殺し屋という非日常的な仕事が自然にここにある。そんな仕事の後に大学に向かうなどまともじゃない。ケイは右手を見た。自分にしか見えないかさぶたは相変わらずだ。ユウの存在が消えたスマホの液晶画面にケイの顔が映る。その背景にいないはずの誰かの存在を感じた。ブルッと肩を震わせて、慌ててスマホをポケットにしまう。次はユウの番だ。レシーバーで埋め込んだ受信機にユウがトランスミッターで疑似記憶を植え付ける。馬渕には未来の疑似記憶を植え付けた。その疑似記憶通りに馬渕はビルの屋上から飛び降りた。奥村の脳には過去の疑似記憶を植え付ける。奥村はその疑似記憶があたかも自分が経験したかのように錯覚する。いや、錯覚ではない。本物の記憶と変わらない。
脳とは人間が持つ臓器の中で最も都合がいい臓器だ。誰でも自分に都合よく記憶を簡単に作り替えることができる。レシーバーは脳のあいまいな領域に頑強な楔のように受信機を埋め込み、トランスミッターは疑似記憶を植え付ける。奥村に植え付ける過去の疑似記憶は凄惨な殺人の記憶。トランスミッターにより奥村を殺人犯に仕立て上げるというのが今回の仕事だ。
レシーバーを使うことでケイの手にはターゲットの脳細胞が呪いのようにこびりつく。トランスミッターを使うことでユウは同一視現象に襲われる。それでも、痕跡を残さない殺し屋をやめることはできない。この特殊能力がなければ、二人はこの世界に存在しなかった。二人にとって生きるということが特殊能力を使うことなのだ。
薄暗い倉庫には割れた硝子片が床に散乱する。靴底が奏でる足音とともに硝子が砕ける音が響く。フードのあるロングコートを羽織る男、撥水性の生地が窓から差し込む月光に反射する。顔が見えず、その表情は分からない。時折、しっかりと結ばれたネクタイが顔を覗かせていた。
結束バンドは人間を拘束するのに有用な道具となる。目の前で椅子に拘束される女。その手足に食い込むのは結束バンド。女はどんな罪を犯したのか。いや、罪など犯していない。普通に生まれ、普通に育ち、インスタに加工した写真を載せ、いいねを求め続ける承認欲求モンスター。どこにでもいる女。男にとってこの女でなくてはいけない理由はない。たまたまインスタで見つけただけ。男は自身の殺人衝動を満たすだけの目的で女をさらい、素っ裸にして、結束バンドで拘束する。男は殺し屋ではない。ただの人殺しだ。
女が奪われたのは服と下着と声と自由。結束バンドが皮膚に食い込み、血管が浮かぶ。猿ぐつわで声を上げることもできない。視界を奪わないのは恐怖を与えるため。聴覚を奪わないのは絶望を与えるため。恐怖と絶望に満ちた女を殺すという演出に男は一人醉う。
ナイフはいい。人を殺す道具として最適だ。直接的に殺すことでその実感は格別。ナイフが男の殺人衝動に反応し、美しい金属質の生き物のように輝く。女の目に映っては消えるナイフ。猿ぐつわの中から生まれるくぐもった声。決して逃げることができない。そう分かっているくせに女は恐怖に体を反らせ、椅子ごと倒れる。その反動で地面が揺れるが、結束バンドがちぎれることはない。
倒れた椅子と女はゆっくりと元の位置に戻された。女の目からこぼれおちる涙が何でもするから助けてと訴える。ならば、俺のために殺されてくれと男はナイフを女の首に当てた。首には頸動脈がある。そこを切ると人間は失血死する。ナイフが当たるたびに女の筋肉が硬直と弛緩を繰り返す。支配者と被支配者がはっきりとしていた。インスタの加工された写真は美しかった。今はどうだ。恐怖と絶望に歪み、生を懇願する表情で汚物を垂れ流す。醜悪だ。だが、より美しい。
血流が激しく脈打つ頸動脈、その感触を楽しみ、男はナイフを突き立てた。頸動脈から吹きだす血しぶきが視界を染めて、真っ赤な月が現れる。興奮が加速する。何度も女にナイフを突き刺し、こぼれる血がレッドカーペットの如く床を染める。女は息絶えて恐怖と絶望が終わったが、男の狂気と歓喜は終わらない。
ナイフを突き刺すことに飽きた男は死体の解体作業に移る。レッドカーペット上にかつて人間であった女はその部品ごとに並べられる。月光が乳房にふりそそぎ、その陰影がエロチックさをかもしだしている。男は自分だけの作品に満足し、アカデミー賞ものだと呟いた。凶器であるナイフは倉庫から三〇〇メートル先のどぶ川に捨てる。目撃者は誰もいない。殺人の顛末を知っているのは殺人犯である男だけだった。
これはユウの頭の中で生成された殺人の記憶。凄惨な殺人劇場にヘドが出る。さっきまで目の前に自らの殺人の顛末を語る男がいた。男の風体に異常性を感じることはない。それどころか、上品なスーツを羽織り、ネクタイをしっかりと締めている。左右対称の正五角形の結び目が男の几帳面な性格を表している。極めて普通の男。何も知らなければ、自作スプラッタ映画のストーリーを物静かに語っているだけの男にしか見えない。男は殺人衝動を持つ人殺し。その行いを悔いる仕草などない。ただ笑っていた。抑えきれない殺人衝動の狂気と歓喜が口角からこぼれ落ちるように。
男から聞いた殺人の顛末をトランスミッターは疑似記憶として生成する。それを奥村の脳に植え付ける。殺人の顛末の疑似記憶を生成する過程で否応なしに同一視現象に襲われる。男が持つ殺人衝動があたかも自分のものであるような感覚、この手で人を殺したい。こめかみの血管が脈打ち、額から鉛のように黒く重い汗が噴き出る。この殺人衝動を抑えなくてはならない。これまでもそうだった。トランスミッターを使うことでターゲットの感情が流れ込んでくる。馬渕が飛び降り、死ぬまで痛みが消えなかったのもそのせいだ。この男の殺人衝動は極めて危険な感情だ。飲み込まれるな。これは正義だ。ユウは両の拳を握った。俺は人殺しじゃない。爪が皮膚に食い込む。俺は殺し屋だ。そう殺し屋と人殺しは結果は同じだが、それに至る過程が違う。殺し屋という正義を肯定し続けて少しずつ殺人衝動が薄まり、やがて消えていった。
過去に幼女誘拐を起こし、更生することなく妄想を続ける奥村という男を社会的に抹殺する。それが今回の依頼。あの凄惨な殺人事件の犯人が奥村であるという情報はすでに警察にリークしてある。奥村の身柄が拘束されるのは時間の問題。犯人しか知り得ない情報を持つ疑似記憶が証拠となり、逮捕される。
奥村が奪った幼女の未来は今も輝くことはない。心的外傷後ストレス障害に怯え、日常生活に支障をきたす。奥村の罪を裁くための正義は殺人衝動を抑えられない男を無罪放免で世界に放つ。この天秤は何だ。不平等に完成された世界で罪人を正義で裁くと信じていた。この依頼により生まれるひずみ、「これは正義ではない」と佐久間に食ってかかった。
「確かにあの男は普通に会社に出勤し、仕事が終われば、家に帰宅する。嫁も子供もいる。これは不平等だ」
佐久間は大きく息を吐く。
「だが、順番がある。あの男にも役割がある。この不平等を正すためのお前たちの特殊能力だ」
佐久間の言葉はただの誤魔化しだろうか。「お前達の特殊能力で不平等な世界を覆す」昔そう言ったはずの佐久間を、その言葉を信じたい。ユウは迷いながらも、佐久間を信じるしかなかった。
青春を謳歌する大学の教室に学生が溢れる。髪色も髪型も服装もファッション雑誌に飾られる映像のコピペであってオリジナリティがない。両親がいて、家があって、親のすねをかじり続ける。恵まれた学生達が教授の講義を右から左へ流し聞く。この講義の長たる社会学の教授が「あなた達がこれから向かう未来ではいかような仕事をしているのでしょうか」と疑問を投げかけた。社会学とは社会の仕組みを研究することを目的とする学問だ。遊んでいられるのは今だけ。あなた達は働かなくてはいけないんだよ。社会学が定義する労働システムという嫌味が真面目な学生にも、不真面目な学生にも届くように語る。
窓際の席に座るケイの耳にも右から左へ教授の言葉が流れ消える。父と母のいない施設育ちの二人兄弟。お金もなく、普通に学校に通うことすら手が届かない。普通に人生の階段を上ることも許されない家庭環境。何もかもが夢のまた夢として諦める前に夢を見ることもできなかった。社会学でランキングされる下層階級の下の下の下以下の存在であったケイが今、こうして大学に通うことができている。卒業ができれば、大卒という学歴ブランドで公務員になることだってできる。そんなまともな選択肢を考えられるのは全て特殊能力のおかげ。痕跡を残さない殺し屋として馬渕をビルから飛び降りさせること、奥村を殺人者とすることでこの生活は成立している。殺し屋という手段でまともな道を歩む。矛盾しか感じない。
「ねえ、さっきから当てられてる。三五ページのAの項よ」
馴れ馴れしいマキの言葉が耳に障る。同じ講義を受けているマキが助け舟をくれている。教授が指示棒をケイに向け、答えを待つ。社会学などどうでもいい。どう足掻いても世界は不平等なのだから。ケイは慌てることなく立ち上がり、マキの指示通り無感情に項を読んだ。いかにも話を聞いてませんという学生が慌てふためく姿を想像していた教授は少し残念そうに笑った。
安っぽい機械音が講義の終わりを告げる。空気の悪い教室から逃げるように扉を滑り抜けるケイ。
「ねえ、お礼は」
犬っころのようにマキが追いかけてくる。マキはケイの同級生。何かとケイに馴れ馴れしく絡んでくる。風になびく茶色い髪。女子らしい香水の匂いがふわりと舞う。ご褒美をねだる仕草で小さな手を差しだす。レシーバーの発動条件はターゲットに触れること。マキに無造作に触れることでレシーバーが発動する危険を感じ、背を向けて歩きだす。いつものことだ。誰にも触らない。それがケイがこの世界で生きるために決めたルール。そんないつも通りのケイの態度を気にすることなくマキはついてくる。
「ねえ、聞いてるの?」
「聞いているから触るなよ」
「冷たいなあ、結婚する時どうすんの?子供も作れないじゃん」
「そもそも子供も無理。育てられない。もちろん結婚も」
「またまた、そんな否定的じゃいけないよ。未来が暗黒世界じゃないっすか」
くだらない言葉の積み木が積まれては崩れる。この大学でまともに会話をする唯一の人間。マキとは会話をするが、決して触らない。その理由が極度の潔癖症だと信じられている。人懐っこい笑顔。ご褒美をねだる仕草。本当に犬っころみたいだ。決して心を許しているわけじゃないマキにそんな印象を抱いた。
大学の食堂には大小のテーブルが並ぶ。その中で縦横七〇センチの四角いテーブルがあり、ケイはいつもそれを選ぶ。理由は戦争の理論と同じ。狭い面積の国など侵略するに値しない。利益がない限り人間は動かない。利益偏重主義が顕著な世界。何の価値もない縦横七十センチの小さな机に入り込む侵略者などいないはずだった。
「おっ、唐揚げ定食じゃん」
小さな国が持つ価値を計算できないマキがヘルシーなサンドイッチを手にやってくる。
「ちょい場所空いてないけど」
「見渡せば、ここじゃない机が空いているはずだが、見えないのか」
「全く、その考え方と物言い、本当に結婚できんよ」
「だから、しなくていいと言っているよ」
オーバーアクションな仕草でマキは唐揚げ定食のトレイの脇にある小さなスペースにサンドイッチを置いて、無事侵略を成功させる。トレイでそれを押し落とすのも大人げないから、そのまま侵略を受け入れ、深いため息を吐いた。
「でもさ、そんな頑ななのは自分にとって不利益だと思わない?」
「利益があることが全てではないよ。利益偏重主義は世界を不平等にしている」
「確かに世界って利益ばっか追ってるけど、この机を占拠することがそんなに大事?」
「大事だよ。何よりもね」
「何よりもか、いやいや、もっと大事なものがあるでしょ。例えば若気の至りでバカやらかしたり」
「そんなものはやりたい奴にやらせとけばいい」
ケイが唐揚げを頬張り、マキもサンドイッチを頬張る。外から見れば仲良しにきっと見える。でも、見えない壁が確実にあった。それは境界線ともいえる。決して交わることのない国境のように。
この世界を支える礎の話だ。老害と呼ばれる政治家が己の利益を得るため、守るために法律を作った。支配者と被支配者の関係が絡み合い、この世界が廻る。世界が不平等極まりないということを身を持って知っているケイとそんな世界を表面的にしか見ていないマキとではまるで違う。見た目は同じ人間であるのに中身は全く違う。
要は不釣り合い。ケイは心にブレーキをかける。ケイの手には死に追いやった罪人達の脳細胞がこびりついている。人の死で汚れた手だ。そんな手でマキの頬に触れることはそれだけで罪になる。何も知らないマキはケイのそんな思いを知ることはない。
「全く頑なな子だね。周りを見渡してごらん。そんなに世界は悪くないよ」
確かに周りを見渡せば眩しさばかり感じる。自分にはないものばかりを持っている連中が人を殺さなくても生きていける世界がある。でも、それは偽りなんだ。真実の世界はえげつなく真っ黒い。
「ねっ」
無邪気に笑うマキ。もしレシーバーで人を殺していると知ったらどうなるだろう。
「やだねぇ」
突然マキは眉を内に寄せて、不快な表情を見せる。その視線の先にあるのはテレビ。奥村が殺人罪の容疑で逮捕されたというニュースが流れている。ケイがレシーバーで受信機を埋め込み、ユウがトランスミッターで疑似記憶を植え付けた男。警察にリークした情報を元に今しがた逮捕された。
奥村がテレビ画面の中で両脇を警察官に抱え込まれる。今回の罪に併せて、特殊な性癖と過去の幼女誘拐という罪がクローズアップされる。奥村に予備知識のないマキにとってそのニュースソースが想像力の全て。マキの意識の中、奥村が救いようのない殺人犯であることが確定する。
ニュースを見る者全てに生まれる正義感が意識を統一させる。奥村を死刑に。政治家がマニフェストを繰り返し、正義を刷り込むのと変わらない。社会的共通意識は巨大な正義だ。それを作り出したのが二人の特殊能力であることは間違いなかった。奥村は殺していない。ケイは表情を曇らせた。決してマキの感情に共感したわけではない。誰も知らない真実の一端を担いでいたからだ。歪な正義だ。いや、そもそもこれは正義なのだろうか。仮に正義であれば、それを礎にする自分の大学生活も許されるはずだ。
病んでいく感情が手にこびりついた奥村の脳細胞を活性化させる。奥村だけではない。これまでレシーバーで受信機を埋め込んだ人間の脳細胞が幾重に重なり、盛り上がり、血色の悪い唇を形成した。お前が人殺しじゃないか。唇が不自然に歪み、言葉を発する。その唇はケイにしか見えない。その言葉はケイにしか聞こえない。ケイはその口を手で押さえつける。唇は動き、人殺しと繰り返す。
「どうしたの?」
マキには何も見えないし、何も聞こえない。ただ自分の手を睨みつけるケイの奇怪な姿しか見えない。
「黙れ。何も知らないくせに」
ケイは言い放ち、その唇に箸を振り下ろした。「何してんの、ケイ」マキは驚き、悲鳴を上げ、サンドイッチを落とす。どうしたどうしたと何も知らないギャラリーが集まってくる。「最悪だ」ケイは呟いた。
何を間違えた。何も間違えていない。手を貫いた箸、流れる真っ赤な血、ざわつく空気。全てが最悪。その上、唇は断末魔の叫びをあげることなく、存在する。それはそうだ。その唇が実在しているわけではない。ケイにのみ見える幻覚。食堂から逃げる道中も唇は動いて、お前が人殺しじゃないかと繰り返す。「ほっとけよ」ケイはただ前を見て歩く。その先に何があるのかも分からない。道行く人の足音、車のエンジン音、誰かの喋り声、とても煩わしい。耳障りだ。加えてスマホが震える。液晶画面にユウと名前が浮かぶ。スマホに出られないまま、液晶画面を眺めていた。液晶画面が真っ黒い筐体となり湖面のように揺れる。波紋が生まれ重なり、レシーバーの先にある世界がゆっくりと開いていった。
爽やかな風と眩しい日差しが彩り、オープンカフェ日和だった。向かいに座るのは佐久間、高級ブランドで全身着飾っている。ユウの目の前で優雅にエスプレッソの薫りを楽しんでいる。初めて会った時にはなかった白髪が陽光に透ける。
「何、むくれてんだ?」
「別にむくれちゃいない。二〇分遅刻だよ」
「そう言うな。こっちも忙しいんだ。ケイは大学を楽しんでいるか?」
「多分ね。俺以外との時間もあいつには必要だよ」
「そうだな。お前も大学に行けばよかったのにな」
佐久間は残念そうな声を出す。ユウは生返事をした。ケイに大学はどうだと聞いても、あまり答えない。それでも、きちんと通っているのだから、よしとしている。ユウはグラスの水を口に含み、昔を懐かしむ。
幼い頃、遊園地に連れていってもらった。佐久間は意思確認することなく強引に二人を車に乗せる。ただ特殊能力を利用したいだけのくせに。最初からそう言っていたくせに。強引に家族ごっこへともっていく。二人だけの世界に突然変異的に現れた異物。佐久間の引力に引っ張られるように二人は家族というものを学んだ。
マネキンのように並んでいた施設の大人達。同じ笑顔で、同じ角度で手を振る。見送られて、辿りついたマンションの応接間で佐久間は黒光りする冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。二人に、里親の母であるユリに手渡した。
「これからよろしくね」
ユリは柔らかく笑って、二人の頭をくしゃくしゃに撫でる。実の父に殴られることはあっても、実の母に無視されることはあっても、くしゃくしゃに撫でられることはなかった。初めての経験に戸惑い、それにより生まれた感情がどういったものであるか。その時は理解できなかった。佐久間は言う。「この国は終末に向かっている。特権階級だけが恵まれる不平等な世界。この世界を支える礎の問題だ。それをお前達の特殊能力で覆す。それが俺の目的だ。契約を結ぼう。俺がお前達の家族になる。その代わり、その特殊能力を貸してくれ」
佐久間が自分達に何をさせようとしているのか、どうして自分達の特殊能力を知ったのかは分からない。施設の大人達に父と母がいないかわいそうな子供という同情めいた視線に晒されるよりましだと思った。
これが今回のターゲットだと机に写真を並べる。写真を見てすぐ誰かは分かった。朝のテレビショーのメインキャスターの榊とアシスタントの三沢。国民の誰もが知っている顔。榊はいつも社会を辛口で断罪することを売りとする。三沢は榊のペースに合わせて、相槌と笑顔を振りまいている。朝の視聴率競争はこのテレビショーが常にトップに君臨している。
「今回はこの二人を心中させるんだ」
晴れた空の下、開放的なオープンカフェ、歩道を行き交う若者達。右手にスマホと耳にねじ込んだイヤホン。オープンカフェと対照的に閉鎖的。インターネットというデジタル世界で彼等は生きている。通貨単位はいいねドル。こんなオープンカフェで佐久間とユウは榊と三沢を心中させる計画をたてている。自分達がオープンカフェに場違いであることに尻がむず痒くなる。
実際心中させるのは簡単だ。ケイがレシーバーで受信機を埋め込む。ユウがトランスミッターで心中する未来の疑似記憶を植え付ける。これまでも何度も同じことをした。
「だけじゃない」
佐久間が続ける。二人の心中をドラマチックに拡散させるんだと。確かに榊も三沢も既婚者で、二人のダブル不倫疑惑は昔からある噂だ。そんな二人の心中はスキャンダラスなネタになる。それが表沙汰になれば、いいねドルを求める若者が簡単に拡散する。そんなことは特殊能力を使わなくても簡単に起こり得ること。しかし、これは仕事だ。確実にそれをなさねばいけない。
特殊能力を使って拡散するということはレシーバーで受信機を埋め込むこととトランスミッターで疑似記憶を植え付けることを同時に複数にしなくてはならない。
「どうだ?できるか」
「難しいよね。二人以外を同時に操るということだよね」
ユウは考え込む。何が必要で何が不要なのか。ケイのレシーバーを複数に同時に行う。これ自体可能なことなのか。それを行うことがケイにとって負担とならないのか。自分のトランスミッターが二人以外に疑似記憶を同時に植え付けることができるのか。
「簡単に考えるんだ。榊と三沢にはこれまで通りのトランスミッターを使う。心中するという未来の疑似記憶だ。その他には好奇心のたがを外すという簡単な衝動を植え付ければいい。そもそもレシーバーは海馬に触っているのか」
確かに触っていない。ただ皮膚に触れるだけ。それだけでケイのレシーバーは発動する。
「そういうことだ。簡単なことだよ。そもそも俺にはその能力が見えん。触ることとか、疑似記憶を生成するとか、そんな理論は忘れろ。必要なのはイメージすることだ。特殊能力が生み出す現象を」
自分のトランスミッターならば、作り込んだ疑似記憶ではなく好奇心のたがを外す衝動の方が簡単であろう。しかし、今回はケイのレシーバーが肝になる。
「考えろ。これは正義だ。お前達ならできる」
佐久間がいつも言う言葉。この言葉がユウにとって救いとなる。
机の上には二人の写真以外に資料があった。罪のリスト、いわば閻魔台帳だ。仕事の依頼がある時に佐久間は必ずこれを用意する。ターゲットの罪が記された記録、榊と三沢が代表となる芸能事務所は政界とも反社とも繋がっている。政界にとって都合の悪い情報を隠すために自分達の冠番組で情報操作を密やかに行う。反社と提携し、薬物を芸能界の太客に売りさばく。夢を餌に若者の人生を食い潰す。どの罪も己の懐を肥やす目的。それにより騙される国民、食い潰される若者のことなど気にしない。強欲なモンスターとしてテレビ業界のトップに君臨する。
「華やかな芸能界だからこその闇、だからこその正義だ」
佐久間が答えた。馬渕しかり、奥村しかり、ターゲットが罪人であること、それが仕事をする時の絶対条件。榊も三沢も罪人だ。痕跡を残さない殺し屋の仕事に値する。ただ奥村だけは違う。奥村は幼女誘拐という罪を犯した。今もなお被害者は心的外傷後ストレス障害に苦しんでいる。その罪を裁くためにあの男の罪に目をつむる。殺人衝動を持つ男が無罪放免で世界に放たれているのだ。これが正義ではない。この疑念は今も取れない棘のようにユウに突き刺さっていた。
特殊能力で実行する痕跡を残さない殺人。その行為自体を考えれば、ターゲットが犯した罪と本質的には変わらない。正義とは言い難い殺人に正当性を持たすには理由が必要だ。ターゲットが罪人であること。その理由付けとして罪のリストを作成する。これは佐久間が決めたルール。今の二人を見る限りは悪い影響はないと佐久間は考えていた。
「ケイとやり方を考えてみるよ」
「そうだな。お前達ならできるよ」
佐久間はまた同じ言葉を繰り返し、ユウの頭を撫でた。
オープンカフェを出た佐久間はユウから十二分に距離をとった上でスマホ片手に組織に報告する。
「ああ、計画通りだ。この仕事であいつらの特殊能力を見極めることができる。次の段階へ移行できるよ」
今回の仕事は二人のリトマス試験のようなもの。リトマス試験紙の色が変われば成功。二人の仕事振りで未来が変わる。この不平等な世界を変えるために、二人の特殊能力を利用するためだけに里親となった。家族ごっこを続けるうちに芽生えた感情。仕事の依頼をしながらも、目線はどうしても父となる。感情移入してはいけない。二人を道具として扱えなくなる。組織の言い分も分かる。すでに芽生えた家族という感情からお前達ならできると頭を撫でてしまう。初めて会った時の二人は窮屈な世界に閉じ籠り、夢など見ることもなく、ただ諦めていた。このままの状態では二人の特殊能力を利用することも難しくなる。嘘でも家族になることに決めた。そんな二人を遊園地に連れていったことがある。上下回転運動する馬の置物が回っているだけのメリーゴーランド。その馬を見ると、ピンクやらイエローやら現実にはあり得ない毛色が並ぶ。その中で唯一許せるのは白馬だ。白馬とは先天的にメラニン細胞が欠乏する遺伝子疾患のアルビノとは違う。色素の減少により白化した希少種、白変種のことだ。要は現実に存在する健全な白い毛色の馬となる。そんな造り物の馬達はみな目を見開き笑い、二人も笑う。あの日、子供とは不思議だと思った。奇妙な馬に乗って回るだけで笑う二人、それに釣られて、佐久間もユリも笑っていた。思い出に軽やかなステップが生まれる。とにかくリトマス試験だ。佐久間は気を引き締めるように両の手で頬をはたいた。
ゲリラ豪雨が激しさを増し、世界に巨大な水溜まりを作った。海水ごとオキアミを飲み干す白長須鯨のように排水口に流れて落ちる雨水が道端に転がるゴミ屑を飲み込んでいく。ホテルのロビーの窓硝子が雨粒に震える。その窓硝子の向こうでは幾つかの人影が動いていた。
ユウはゲリラ豪雨に襲われることないホテルのロビーという安全圏でターゲットの三沢を待っている。榊はホテルの一室ですでにスタンバっている。ユウのトランスミッターも完璧だ。
ゲリラ豪雨のおかげでホテルには一人が二人、二人が四人、四人が八人にと鼠算で客が増殖する。とても都合がいい。ターゲットの心中をより効果的に拡散させる舞台が整いつつあった。ホテルから離れたネットカフェの個室でケイはレシーバーによる受信機の埋め込みを始めている。二人は特殊能力の限定解除に成功したのだ。
相手に触れること。それがレシーバーのルール。今回の依頼には複数の人間へのレシーバーが必要だった。ケイは右手を見る。誰にも見えないかさぶたはそのまま。手に巻かれた包帯が痛々しい。ユウに怪我の理由を何度も聞かれた。何も言えなかった。どこか歯車が壊れている。ケイだけでない。きっとユウも。もう痕跡を残さない殺し屋として佐久間の依頼通り仕事をこなす。それだけしかない。
そのためにはこれまでのままではいけない。レシーバーの触れるという概念。レシーバーとは皮膚と皮膚の物理的な接触の上、脳の大脳辺縁系の中心に君座する海馬に受信機を楔のように埋め込むこと。そもそも海馬への物理的な接触はない。レシーバーとはいかなるものなのか。その縛りを広げるための手段をケイは分かっていた。ケイの特殊能力の異変に、感覚の氾濫というべき現象に佐久間は気付いていたのか。それは分からない。「触らなくてもきっとできるよ」ケイはスマホをいじりながら、そこに広がる世界を見る。レシーバーで痕跡を残さない殺人を続けることで見え始めた世界。インターネットを媒介にすることでそれは始まる。スマホの液晶画面が湖面のように風に揺れる。手を触れるとゆっくりと沈んでいく。そこからは簡単だ。真っ暗な世界に幾つもの明るい小窓が覗いている。小窓に並ぶのは誰かの脳。血管が脈打ち、電気信号が走っている。電気信号とは脳神経細胞を走る記憶だ。
インターネットを媒介とした意識のデジタル化によりケイは見知らぬ誰かの脳にレシーバーで受信機を埋め込むことができるようになった。佐久間に言われた通りユウはトランスミッターで好奇心のたがを外すという簡単な衝動を大量生成し、レシーバーで埋め込まれた受信機に植え付ける。
「ケイ、いつからこんなことができるようになったんだ?」
ユウの言葉に何も答えられなかった。
自分達の命を救った特殊能力で、望んだわけではない特殊能力で殺人を続ける意味がケイには分からなくなっていた。
無限に見える世界でレシーバーを使い続ける。これまでとは違う。集団を簡単に操ることができる。レシーバーの数だけ脳細胞が地層のように積み重なり、厚みのあるかさぶたを作り上げる。視界に深い靄がかかり、ケイの意識が遠のいていく。
「ケイ、ケイ、しっかりしろ」
耳の奥を触る声。ユウの声だ。数え切れない脳にレシーバーを使った時、鉛のように腕が重くなった。厚みを増すばかりのかさぶたが唇よりも巨大なものを形成するもっと面積のある、もっと体積のあるもの、手と足を持つもの、人間、いや、これは悪魔だ。触覚なのか、角なのか分からない二本の尖ったものが頭から生えている。牛に似た顔のフォルム、屈強な肉体とコウモリのような翼、悪魔は下品に笑う。これはケイにしか見えない幻。ケイは思う。このレシーバーという特殊能力は悪魔の力なのだ。決して正義ではない。罪人を殺すとしても、正義ではない。悪なのだ。
ユウの呼ぶ声が次第に近くなる。深い霞がその声にゆっくりと薄れていく。「大丈夫か?ケイ」レシーバーの最中に意識を失ったケイ、それを心配するユウ、これはゴールのないレースだ。もう戻ることはできない。この悪魔の力で進むしかない。見慣れた景色、いつもと変わらない部屋とユウ。「大丈夫だよ、僕なら大丈夫」ケイは異様に疲れた体を支えながら立つ。感覚がまだおかしい。体の半分がまだあの世界に残っているようだ。自分の体でないような感覚で体を持ち上げ、支え、ベッドまで移動させる。「寝る」一言だけユウに残し、何もない夢の世界へ落ちていった。
「なあ、俺達ならできるよ」ユウは佐久間の言葉をなぞる。懐かしい言葉にケイはベッドで動くことはなかった。
そんな作業と検証の繰り返し、レシーバーは触れるという物理的な条件から限定解除され、完成されたのだ。
ユウの依頼通り佐久間はハッカーを雇い、ホテルの全システムを支配させる。ネットカフェの個室でケイはハッキングされたシステムをモニターで見る。モニターが液状化し、湖面のように揺れて見える。ケイはレシーバーを始める。感覚の氾濫が起こり、インターネット上、デジタル化された世界に幾つものシステムが見える。その中でホテルのシステムを見つけ、進んでいく。幾つもの小窓に存在する脳、ホテルのシステムに介在する人間の脳だ。ケイは完璧に回る歯車のようにレシーバーで受信機を埋め込んでいく。そして、ユウは受信機に好奇心のたがを外す衝動を植え付け続ける。繰り返し作業を行い、榊と三沢の心中を面白おかしく拡散させるように舞台を仕上げていく。
二人の完成した特殊能力には相変わらず裏付けされた理論も、科学的な根拠もない。佐久間の言う通りだ。そもそも、本当にそんな特殊能力があるのか。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、存在するものしか認めない。それが世界の基準。二人の特殊能力を科学者に話しても、証明してみろと鼻で笑う想像しか浮かばない。目の前でそれを証明したとしても、手品の種探しに彼等は勤しむだろう。世界は二人を一生認めることはない。誰も認めてくれない世界の中、佐久間だけは認めてくれたという現実。それが二人の礎の一つだった。二人が大人になっても、子供のように頭を撫でる佐久間の手。決して正義じゃない。そんな思いを差し引いても、その手の温もりが心地よかった。その手の感触を忘れることはなかった。
榊と三沢は疑似記憶の通り行動し、命を断つ。その場にいるギャラリーには好奇心のたがを外す衝動を植え込んである。台風の日に外に出て、怪我をする人々がいる。それは危険を知りながら、台風を感じたいという好奇心を我慢できないから。普通の精神状態であれば、外に出ない。そんな当たり前の判断ができる。好奇心のたがを外しておくことで、危険と知りながら、欲望のまま外へ出ざる得ない心理状態を作りだす。彼等はこれから起こる心中事件を我慢できずインターネットに拡散させる。そんな計画だ。
佐久間が特殊能力の有効な使い方を語る。
「ユウ、お前のトランスミッターは素晴らしい能力だ。だが、使い方が間違っている。これからお前は確実に起こる未来の行動を精密に作り出すんだ。未来の疑似記憶というべきか。その人間がどんな行動をするのか。想像する。未来の行動をターゲットの脳に植え付けるんだ。ケイ、お前のレシーバーはトランスミッターの鍵になる。ユウのトランスミッターから逃れられないよう、より深い場所にレシーバーで受信機を埋め込むんだ。そうすれば、お前らは世界を支配できる」佐久間が教えてくれた通り、ケイはレシーバーでより深く潜るように脳の記憶を司る海馬に楔のように受信機を埋め込む。ユウはトランスミッターで行動を支配するために未来の疑似記憶を植え付ける。人は思い通り動く。死の恐怖もなく、高いビルの屋上から飛び降りさせることもできた。飛び降りた人間は罪人だからいいんだ。佐久間は言った。そんな言葉よりも、ただ佐久間が誉めてくれることが嬉しかった。人に誉められることを知らなかった二人。誉められる嬉しさと恥ずかしさを知った。そして、二人は特殊能力をより磨き、精度をより上げていった。
ユウがトランスミッターで植え付けた疑似記憶は榊と三沢が殺し合う未来の記憶。ホテルの一室で二人が目を合わした時に発動する。二人は互いに刃物を持ち、構える。何の感情もない。ゆっくりと刃物は互いの心臓にめり込んでいく。死という着地点が簡単に訪れる。その現場を見つけるボーイの悲鳴がフロアに響いた。フロア内の悲鳴を聞きつけて、やってくるのは野次馬。たがが外れている好奇心で野次馬達は砂糖に群がる蟻のよう。ネット上のいいねドルを稼ぐためにスマホという現代の銃に匹敵する武器を手に破滅的に刺激された好奇心を加速させ、情報が拡散される。自殺した人間が名の売れた人間であればいい。自殺した理由など知らなくてもいい。ネット上の架空の世界で匿名の友人同士がいいねドルを求め合う。たとえ炎上し、匿名の命が焼かれても、新しい匿名の命を貰えばいい。架空の世界にある瓦礫の山の上、偉そうな椅子に座るために匿名の命を懸けて、情報は現実の世界に拡散される。ユウは心臓を切り裂かれた痛みに堪える。ケイは右手に現れる悪魔の囁きに怯える。この世界はろくでもないままだった。
佐久間の依頼通り、二人は完璧に事を成した。全てを見ていた佐久間。二人の特殊能力は複数に対しても発動できる。それこそが佐久間が見たかったもの。リトマス試験の結果に満足する。二人を拾い、ここまで育ててきた。その苦労が報われる時が来たのだ。
佐久間はある組織に属していた。この国に絶望した人間が集まった組織。国家再生のため、国家転覆を夢見る集団。組織の目的はこの国の正義を正すこと。この国の脳と言われる政治家達は今や老害でしかない。政治的利権、経済的利権を手放す気のない、欲望まみれの政治家達。権力はその子供に継承され、同じ教育を受けた、欲望にまみれたコピー人間が生まれる。決して国が変わることはない。権力を牛耳る政治家が全ていなくなり、新たなる世代が国を正しい方向に導くこと。それこそがこの国の再生計画。そのために二人の特殊能力が必要だった。どんな平和な国であっても屈強な警護に守られた老害の暗殺は簡単ではない。二人の特殊能力を使えば、どんな警護がつこうと関係ない。ケイのレシーバーでこの国の老害に受信機を埋め込む。ユウがトランスミッターで自殺の疑似記憶を植え付ける。それで完了だ。◯月◯日〇〇時に同時に老害が自殺を図る。逃れることなどできない。証拠も残らない。一瞬で全ての老害が抹殺される。過程は合理的ではない。結果は極めて合理的だ。老害が全ていなくなった後、平等な世界が再生される。ユウとケイにとっても素晴らしい世界に違いない。全てが終われば、特殊能力をもう使わなくてもいい。計画の道具にすぎなかった二人の未来を気にするなんて。家族ごっこの中で生まれた感情に佐久間は笑った。
今日、久しぶりに二人の家に帰ろう。佐久間はそう思い、車のドアに手をかけた。ゲリラ豪雨で濡れたドアレバー、手に雨水が滴る瞬間、背後に何かがのしかかった。背中を切り裂く痛みを脳が認識する前に突如として現れた何かを振り払ったが、体の力が砂時計の砂のように零れていく。体を反転させ、その正体を見た。艶やかなネオン街を背に男が左手に刃物を持って、立っていた。ドラミングのように拍動する心臓、背中から血が滴り、腰、尻を伝い、ゲリラ豪雨の跡の水溜まりを真っ赤に染める。佐久間は車を背に何とか体を支えていた。男の影が揺らぎ、再びのしかかり、刃物で下から上へと何度も腹部を突き上げる。その都度、佐久間は電気が走ったようにビクリと反応する。やがて、その反応も薄くなる。佐久間にはもう男を振り払う力はない。パッキンの壊れた蛇口のように血が止まらない。血液が脳まで届かなくなる。血液の枯渇した脳は潤いを失い、その機能がゆっくりと奪われていく。痛みや苦しみ、死の恐怖を認識できないほど脳の機能が低下し、最後に残ったのは電気信号が構築するただの思い出。佐久間は力が入らない手を必死で伸ばす。それは小さかったユウとケイの頭を撫でる仕草に似ていた。口元が震えながら笑う。空気が振動して、言葉が零れる。ユウとケイの名前。言葉は風に巻かれて、消えていく。佐久間にはメリーゴーランドで笑う二人が見えていた。
男は膝を地面に付けて、車を背に動かなくなった佐久間の頸動脈に触れる。血で濁った目はもう何も映していない。佐久間の死を確認し、仕事の完遂を認識した。少し乱れたネクタイの結び目を寸分の狂いのない左右対称の五角形に締め直す。殺人衝動を抑えられない人殺しは殺し屋という天職を見つけていた。これはただの殺人衝動を抑えるための我慢の仕事。佐久間の最後の仕草にも言葉にも興味はない。目の前の男を殺したという事実で少しだけ殺人衝動が満たされる。次のターゲットは女であればいい。きっと最高の作品になる。男は何事もなかったように佐久間の死体を後にし、街の中に消えていく。その姿は殺し屋を天職とするような男には見えなかった。
ゲリラ豪雨の余韻が月を隠している。ユウはマンションを目指す。その道路を照らすのは街灯のみ。白く熱を帯びた街灯に照らされる道路はゲリラ豪雨のおかげでゴミ屑一つなく綺麗だ。ホテルを出る時、トランスミッターで好奇心のたがを外された野次馬とすれちがう。スマホを片手に笑っていた。明日のワイドショーの看板を飾る榊と三沢の心中ニュース。二人の後釜を狙う予備軍が嬉々としてニュースを流し、現場を見てもいない輩がさも見たかのようにそれを拡散させる。世間が飽きるまで、いいねドルが稼げなくなるまでそれが続けられる。そんなことを想像するだけで、憂鬱な気持ちが心を満たしていく。トランスミッターのもっといい使い道があればいいのに。そう考えても、何も思い浮かばない。
ユウは玄関の鍵を開ける。鍵穴の中での凸と凹がぶつかり、カチリと冷たい金属音を奏でた。ゆっくりと開くドア。その隙間からこぼれるのはテレビから発せられる平和的で下品な笑い声。ケイが先に帰ってきていた。テレビに目を向けることなく、ソファーに溶けるように横たわる。今日の仕事で疲弊した体を休ませている。
「大丈夫か?」
「なんとかね。ユウは?」
「俺もだよ」
「なあ、佐久間を信じている?」
ケイが言葉を続ける。
「このままでいいのかな?奥村は人殺しじゃない」
痕跡を残さない殺し屋として正義を実行してきた。正義にこだわればこだわるほどあの人殺しが自由に世界を動き回っているのが許せなくなる。
「そうだな」
でも、仕方がないよとユウは言いかけて止める。佐久間と同じ誤魔化しを言いそうだったから。
「このままでいいのかな?」
ケイはそう言い残し、ベッドへと向かう。最近、ケイは随分とおかしい。手の怪我の理由も言わない。佐久間が与えてくれた正義という理論が揺らいでいる。そもそも正義ではない。殺し屋と人殺し、結果は同じだ。あの殺人衝動を持つ人殺しを責める立場ではない。ユウは冷蔵庫からミネラルウォーターを手に取り、キャップを開けた。水分を飲み干すとカラカラに喉が渇いていたことに気がつく。
家族ごっこをした時間、全てを否定するような感情がケイから溢れている。
「なあ、今度、佐久間と会わないか。仕事抜きで。お前の事を気にしているぞ」
「考えとくよ」
その言葉に少し嬉しさを感じるが、同時に決して正義とは言えないという疑念が消えずに残っている。ベッドで横になるケイの傍らでその頭を撫でた。お前ならできる。佐久間がいつも撫でてくれるように。
「とりあえず飯だな。チキン南蛮ととんかつ弁当、どっちがいい?」
どっちでもいいよという無言の仕草をするケイ。四人で暮らしていた頃より広く感じるマンション。ここで家族ごっこをしていたのが遠い昔のように感じる。ユウは弁当を電子レンジに入れる。五分と時間をセットすると、低く唸りを上げながら、弁当が回る。弁当容器の温めが完了するタイミングで電子レンジが急停止した。いや、電子レンジだけではない。誰も見ていないテレビも部屋中の明かりも切れて、無音の闇が訪れる。スマホの画面にタッチし、スマホが生きていることを確認した。窓の外に広がる街灯が灯る夜景。この地域の停電ではないことを理解した。ただブレーカーが落ちただけだろう。「まったく。ケイ、ちょっと待っとけ。ブレーカー上げてくる」スマホのライトを点灯させ、周りを照らす。そこに浮かび上がる人影達。闇と同化し、部分的に体が欠落していて、蠢く虫のように見える。瞬間的に沸き上がる恐怖に頭の中で警報が鳴った。「ケイ!」ユウが声を出した途端、闇に蠢く虫は猫のように物音を立てることなく、獅子のように強靭な四肢でユウを押さえつけた。
ゲリラ豪雨が通りすぎた空の下、廃倉庫の空気は雨の残り香に満たされている。割れた窓硝子から差し込む月光。パイプ椅子に拘束されたユウとケイ。不快な笑みを見せつける男達。何年も使われてない廃倉庫に錆びついた機械が並んでいる。機械に染みこんだ油が気化し、この空間の空気を澱ませている。劣化し変色した紙屑、砕けた硝子片、使用目的を思い出すことのない金属製の部品達が床に転がり、何年も人の出入りがなく、時代に忘れ去られた場所であることが想像できた。たまたま巡回していた警察官が現れるなんて奇跡も想像できない。つまりは手詰まりで、誰かが助けに来ることなどありえない状況だった。
月光の帯がふりそそぎ、放置された機械の陰影がゆっくりと動く。男達の煙草の煙が風に流れて消える。時計の針が刻むように心臓の鼓動が聞こえた。まだ生きている証拠だ。こんな未来を、見知らぬ男達に拘束される未来を想像していなかったわけではない。特殊能力で証拠の残らない殺人を犯しているのだから、情報がリークされて、狙われてもおかしくない。この状況に至るまで、つまりはマンションで旅行バックに詰め込まれ、ここまで運ばれる過程に微塵の無駄もなかった。明らかにプロの手際だ。これが佐久間の指示だったらと考えると悲しくなった。二人が信じた大人に裏切られたことになる。何よりもそんな結末を一番恐れていた。
廃倉庫にいる男達と明らかに毛色の違う男が現れた。その男は上品に仕立てられたブランド物のコートを羽織っている。血統書付と雑種のように違いは一目瞭然だった。その雰囲気は高級ブランドを身に纏う佐久間と似ている。
「はじめましてですね。佐久間から君達のことは聞いてますよ。レシーバーとトランスミッター。物証を残さず、人を殺せるとは素晴らしい才能です。申し遅れました。私は萩原と言います。佐久間の計画を引き継ぐことになりました。これから私の指示で仕事をしてもらいます。早速ですが、ケイ君、君にはこのリストにある若者にレシーバーを使ってもらいます。ユウ君にはトランスミッターでテロリズムの衝動を植え付けてもらいます。理解できましたか?」萩原の穏やかで優しい口調と正反対の狂気にユウの背筋が凍る。萩原の笑みは冷淡で冷酷。佐久間がくれた仕事のルールはターゲットが罪人であること。萩原の指示はそのルールに大きく離反する。このリストにある若者達はどんな罪を犯したのか。痕跡を残さない殺し屋として仕事をするべきターゲットになるのか。これは正義ではない。そんな仕事を理解できるわけがない。思った途端に口が動いていた。
「そんなもの理解できるわけがない」ユウの言葉に萩原の笑みは変わらない。人を痛めつけることに喜びを感じるサディストの笑み、いや、違う。以前に見たことがある。そうだ。異常な殺人衝動を持つあの男と同じ。抑えきれない殺人衝動から込み上げる歓喜と狂気がこぼれ落ちる笑み。この男にとってこの国の再生などただの大義名分。残虐な殺人ショーを見たいだけ。上がる口角からあの男と同じ匂いがする。佐久間ならば、こんなことを考えない。
「君達は何か勘違いをしているようですね。全く佐久間は使えない」佐久間のことを聞くため、ユウが口を開こうとするが、萩原が声を被せて遮る。萩原の口許に小さな太陽のように煙草が燃え、煙が風に流れる。
「道具として調教するだけでよかったのに。本当に残念です」黒い革製の手袋をはめられた両の手でオーケストラの指揮者ばりに萩原は男達に指示を出す。その瞬間、ケイの体がパイプ椅子ごと弾けた。ケイは地面を削りながら滑って止まる。曲がったパイプ椅子と同じ角度でケイの右手が異常な角度で曲がる。
「君達に選択肢があるとでも思っているんですか?ユウ君、道具として働くにはまだまだ調教が必要なようですね」萩原は手袋を外し、手首を振る。その立ち振舞はどこか演技じみている。
「ここにいる男達の最も優れていることは何だと思いますか?」
いつの間にか萩原は二本目の煙草を咥えていた。口から吐きだされる煙が悪魔の形を作りだす。
「これはとても重要なことです。君達は人を操り、恐怖を感じさせることなく、物証も残すことなく殺すことができます。その才能は素晴らしい。その才能と同等に素晴らしい才能を彼等も持っているのです。彼等の才能は殺さない程度に人を痛めつけることができること。君達のように簡単に人は殺さない。泣こうが、わめこうが、暴力をやめない。つまりは暴力のブレーキとなる良心を持っていないのです。もう一つ重要なことがあります。生と死を区切る境界線が彼等には見えているのです。決して殺さずに暴力で痛め続けることができる。それが彼等の才能です。君達がどこまで堪えられるか楽しみです。そういえば、佐久間のこと、聞きたいですよね。君達の里親はこの世にもういませんよ。彼は君達の調教に失敗したので、組織が処分しました。私達の目的はこの国の転覆と再生。佐久間はこの国の未来よりも君達の未来を選択しました。優先順位を間違えたのです。君達の未来のためにこの国の老害たる政治家を全て抹殺しようとしたんですよ。その老害たる政治家は君達の未来には不必要でも、この国を再生するのに必要な老害たる政治家もいるのです。君達のことなどただの道具として扱えばいいのに。残念なことです。優秀な男だったんですが。この国を再生するという誇りを忘れてしまったんですね。」
こんなことを仕組んだのが佐久間ではないこと。佐久間が自分達の未来を考えてくれたこと。そのせいで佐久間が殺されたということ。萩原が語る言葉から紡ぎだされる真実は優しさと冷たさを含んでいる。その意味を理解したくても、頭がついていかない。萩原はまだ言葉を吐いていた。それも雑音にしか聞こえない。そのうちに始まる暴力。その拳に骨が軋む。拳は血の通わない金属のように冷たくて硬い。それは男達が良心を持たない証拠。生と死の境界線を越えないというルールの中で男達は二人を殴り続けた。
始まりの記憶
割れた窓硝子から差し込む月光。萩原の冷淡で冷酷な笑み。ルーティンワークのように男達は黙々と二人を殴り続ける。終わらない夜。沈まない月。昇らない太陽。時は刻んでいるはずなのに、地球が静止しているような気がした。もう佐久間はいない。そんな事実を礎にユウの中で冷たい感情が生まれる。冷たい感情は血管を通って、体を廻り、やがて脳に到達する。脳内にある神経細胞が感情を受けて、電気信号を発生させる。電気信号とは記憶。過去の記憶が色鮮やかに蘇る。その映像は今、ここで起きていることの起因となる記憶だった。
銀色に光る蛇口から水滴の落ちる音が頭の中、どこだかか分からない場所で反響し、消えない。窓から射し込む夕陽がフローリングの床を熱くする。上半身裸で仁王立ちする父の影がユウとケイを見下ろしていた。いつもと同じ景色と匂い。父からは煙草とビールの匂いしかしない。その下でユウとケイが床に正座させられている。父の拳でケイの右口角と瞼が内出血している。頬を伝った涙がすでに乾き、白い筋となっている。父はユウを殴り、ケイを殴る。毎日、飽きることなくただ拳で殴る。仕事がうまくいかない。ビールが不味い。煙草mmが切れた。パチンコに負けた。取ってつけた理由で父は二人を殴る。取ってつけた理由だから、そもそも理由なんてないに等しい。ただ殴りたかったからそれだけ。
血の繋がった実の母は二人が見えないふりをする。父が殴り続ける間も何事もなく料理を作り、洗濯をする。見えているのに。聞こえているのに。
誰も助けてくれない。
父も母も死んでしまえばいい。
ユウは父に憎しみを抱く。母に憎しみを抱く。いるはずのない神様も憎む。絵本の中では神様はとても優しい。図書室でケイと二人で読んだ絵本。何でも願いを叶えてくれる優しい神様の物語。そんな神様も何もしてくれない。心の奥底に流れる感情の川が氾濫し、真っ黒な濁流となる。濁流の中、摩擦を感じさせないほど滑らかで透き通った皮膚感を持つ物体が盛り上がる。それは四足歩行の獣のよう。進化の系譜に従い、二足歩行の形態へと変化する。滑らかな頭をもたげ、三日月のように口角を上げて笑う。それは憎しみ。トランスミッターのトリガーとなった。
父の振り上げた拳が止まる。母のまな板を叩く包丁の音が止まる。ユウはケイの手を握り、自分の傍らに手繰り寄せた。途端、父と母は無言で互いを凝視する。母が包丁を強く握り、父に突進した。父が包丁を交わすことなく拳を母に叩き込んだ。一瞬の出来事だ。父の胸に深々と包丁が突き刺さっている。父の拳で母は柱まで飛ばされ、帽子掛けが後頭部に突き刺っている。
ユウが願った通り父と母があっけなく死を迎える。父の死因は心臓損傷による失血死、母の死因は外傷性脳出血だ。
日常生活の中でケイが無意識に父と母にレシーバーで受信機を埋め込んでいた。ユウがトランスミッターで受信機に憎しみから生まれた願いを植え付けた。そのおかげで二人は虐待という地獄から逃れることができた。
「僕が殺したんだ」レシーバーで受信機を埋め込んだから。
「違う。殺したのは俺だよ」トランスミッターで憎しみから生まれた願いを植え付けたから。
「お前は悪くない」ユウはケイを抱き締めた。
世界は不合理なものを認めない。特に二人にしか分からない特殊能力など論外だ。それが殺人の手段などと認められることはない。虐待をしていたイカれた夫婦が殺し合いをしただけ。結果、虐待を受けていた二人の子供が救われた。世界は平和的な美談を求めて、そう二人を定義する。二人には当然しっくりこない。特殊能力で父と母を殺した事実が消えることはない。
警察の捜査後、二人は施設という名の仮初の場所にたどり着く。優しい顔をした施設の大人にも笑うこともできない。施設で過ごす毎日に二人は二人だけの世界に閉じ籠もっていく。「決して自分達が悪いわけではない」そう思い込みたい。そんな自分達が許せず、二人は常に表情を曇らせていた。
幾つかの施設を転々とした。そして、佐久間が二人を引き取るために里親としてやってきた。
「お前達は決して悪くない」佐久間の第一声だ。何を言っているのか、分からなかった。特殊能力のことも、父と母を殺したということも全てを知っているという顔で言葉を続ける。「俺にはお前達の特殊能力が必要なんだ」佐久間はそう笑って、二人に手を差し伸べる。
佐久間が里親になった理由は愛情でも同情でもない。この特殊能力が必要だったから。それでも、初めて二人を必要だと言ってくれた大人だった。里親の母親役の女はユリと言った。本当の名前かどうかも分からない。毎晩、ユウとケイが眠りにつくまで絵本を読んでくれる。布団から伝わるユリの温もりに心が安心していく。ユリの手料理がテーブルに並び、いつも四人でご飯を食べた。普通に学校に行って、ただいまと帰るとおかえりとユリが笑う。遠足ではユリの手作り弁当に並び、運動会では佐久間が二人の名前を大きく叫んで、腕を回す。文化祭、授業参観、入学式、卒業式、ありふれた学校行事を当たり前のように佐久間とユリは参加して、四人の食卓で笑いながら話す。決して特別じゃない時間が当たり前のように存在していた。
ユリは佐久間が里親になるために雇われただけの女。本当の母親にはならない。それでも、二人を守ろうとしなかった実の母とは違う。嘘の存在でも誰よりも優しかった。真っ赤なワンピースがお気に入りで、鼻歌交じりに洗濯したシーツを叩く。柔軟剤の香りがいつも心地いい。そして、ユリは姿を消す。
「今日で契約終了だから」ケイの高校卒業の日だ。ユリは組織に雇われた女優。依頼があれば、仮初めの母親でも何でもなりきることが仕事。それも契約期間の間だけ。最初から終わりが決まっていた家族ごっこ。ユリは二人を抱き締める。
「強く生きなよ」感情を押し殺す声が震えている。真っ赤なワンピースのユリの後ろ姿が夕日に溶けて、消えていった。
ケイは高校を卒業した後、大学へ進学する。ユウは佐久間の仲介する仕事、つまりは特殊能力トランスミッターで痕跡を残さない殺し屋として殺人の依頼をこなすようになる。少しずつ環境が変わる。少し白髪の出始めた佐久間が言う。
「今日から別々に暮らすぞ」佐久間がマンションから出ていった。
「お前達が必要だ。また仕事の時、電話する」佐久間の目元に皺が浮かぶ。二人とももう子供じゃない。佐久間は二人の特殊能力が必要だったから、里親になった。ユリは母親役を演じただけ。ただの家族ごっこ。でも、二人には本当の家族にしか思えなかった。
殺さない程度に痛めつける才能を持つ男達が生と死の境界線を越えないようユウとケイを殴り続けている。ユウは一瞬意識を失っていた。その間に見た夢は忘れたくても忘れられない昔話。虐待をやめない父と守ってくれなかった母。その父と母を殺した特殊能力。特殊能力を利用しようとした佐久間。組織に雇われただけのユリ。そんな佐久間とユリが家族というものを教えてくれた。そして、佐久間も殺された。二人の未来を考えて殺されたのだ。月はまだ真上にある。夜がまだ終わらない。父と母を殺した罰だろうか。もう誰を殺した罰か分からなかった。それでも、はっきり分かっていることはあった。萩原の道具として特殊能力を使ったとしても、何も変わらないということ。決してケイを幸せにすることはできない。この主従関係が死ぬまで続き、虐待されていた頃と変わらない。ユウはケイを見る。ケイもユウを見る。二人にしか理解できない特殊能力。二人にしか理解できない世界。もう言葉はいらなかった。
二人はようやく拘束が外される。体の自由を取り戻せたのは特殊能力を使うため。萩原が男達に顎で指示を出すと、ケイはモニターの前に座らされる。体の痛みが消えたわけではない。それでも、やらなければならない。レシーバーでリストにある若者達に受信機を埋め込む。ケイの目の前でモニターが待っていたかのように液状化する。湖面に揺れる世界に浮かぶ月が見える。その月は真ん丸で欠けることなく満ちていた。これまでと同じだ。ケイはデジタルネットワークの世界でひたすらに受信機を埋め込み続ける。
人間の限界の天井は二分化している。体の軸と心の軸だ。その二つの軸が限界に達した時、人間の機能は停止する。最初に殺さない程度に痛めつけられたケイの体が限界に達して機能を停止した。佐久間の死、これまでに背負った罪が重くのしかかり、心が限界に達した。ケイの膝が崩れ落ち、ゆっくりと体が沈み込む。
電気が切れたように椅子から落ちるケイをユウは体で支える。そんな光景を見ても、萩原の冷淡で冷酷な笑みは変わらない。やはり、佐久間とは違う。ユウはそう確信する。佐久間は家族を教えてくれた。家族として自分達の未来のために世界を変えようとしていた。確信はユウの心を強くする。あの大きな手で頭を撫でてくれたこと、お前達ならできるという佐久間の言葉を思い出す。ユウの番が回ってきた。
「さあ、テロリズムの衝動を」萩原はオペラ歌手のように声を上げる。
「ああ、やるよ」ユウにはレシーバーで埋め込まれた受信機と海馬とを繋ぐ糸が見えていた。ユウにしか見えない糸。ゆっくりと風に漂い、絹糸のように美しく煌めく。それは廃倉庫内の至る所に幾何学的な蜘蛛の巣を張り巡らしている。その一本一本がケイの意思で紡がれ、この廃倉庫内の男達に繋がっている。萩原も例外ではない。
ユウがトランスミッターで憎しみの衝動を植え付ける。父と母が殺し合った時と同じように。ただ死んでしまえばいい。あの時、そう思った。今夜は違う。自分達が生き残るため、殺された佐久間のため、二人に関わる全ての人間に殺し合いをさせるために特殊能力を使う。
萩原から冷淡で冷酷な笑みが消えた。萩原も男達も壊れたブリキの玩具のように動きが止まる。憎しみの衝動が心を支配する。萩原達の四肢が小刻みに震え、熱を帯びる。その姿は鎖に繋がれても、なお抗う罪人達のよう。抑圧された衝動はただその時を待っていた。
にぎやかしいライブハウスがミュージックを忘れてしまったように廃倉庫に流れていた風が消える。空気が固定化し、緊張感が脈打って走る。これから廃倉庫で起こること。萩原達が知ることはない。すでに出来上がっている。心を満たす憎しみの衝動が今か、今かとユウのトリガーを待っている。滑らかな皮膚感を持つ憎しみが三日月のような口で笑う。さあ、殺し合いの時間だと。
萩原達が堰を切って動きだす。激しいステップを奏でるダンサーのように互いに襲いかかる。殺さない程度に痛めつける才能など関係ない。生と死の境界線など簡単に越える。トランスミッターに操られるまま、殺すための暴力を存分に振るう。萩原が部下であったはずの男の喉元をその顎で獣のように食いちぎる。返り血でブランド物のコートが汚れても気にはしない。むしろ、その顎に滴る血の熱さに歓喜し、血統書付きの毛並みの良さなど忘却の彼方に消えてしまっている。その萩原も他の男達に抑えつけられ、襲われる。憎しみの衝動のままに殺し合う男達。一人二人と順番に倒れていく。誰も動かなくなるまでこれが続く。
ユウはトランスミッターでこの血にまみれた世界を作り出した。全ての罪がユウに流れ込んでくる。トランスミッターがなければ、二人ともあの父と母に殺されていた。トランスミッターがあったから、二人の命が救われた。でも、これは間違っている。こんな血にまみれた世界では、こんな血にまみれた自分がケイといてはいけない。ユウは泣きながらケイを抱き締めていた。
宴の終わり
月光が赤く映るほどの血の惨劇が終焉を迎える。死に絶えた萩原達の死体が風に晒され、熱を失っていく。廃倉庫の残骸なのか、萩原達の死体なのか、区別が難しい。それらを踏まないようにユウは歩く。背中には意識を失ったケイがいる。顔が青白く、呼吸も微かだ。いつ死体の仲間入りしてもおかしくない気がした。粘り気のある肉片と固まりつつある血液が怨念のように靴底にまとわりつき、二人が行く道の邪魔をする。ここから出るんだ。もう誰も二人を追うことはない。怨念を引きはがすよう足に力を入れると、断末魔の悲鳴が聞こえた。
ケイは世界に浮かんでいた海馬の群れにひたすらに受信機を埋め込んだ。それはあの男たちだけではない。ユウは受信機に紡がれた糸を辿り、組織の人間を全て見つけ出す。その中に収賄容疑で世間を賑わしていた老害たる政治家がいた。国民は街灯に惹かれる蛾のように派手なニュースに目や耳を向ける。それが不幸なニュースであればいい。蜜の味がすればなおいい。政治家の収賄容疑のニュースを世間の目から紛らわすために有名で華やかな榊と三沢のスキャンダルな心中事件が必要だった。それがあのホテルでの仕事の目的。本当の目的を知って、ユウはこの国は根幹から腐っていると感じた。その政治家も殺し合い、命を絶っている。二人に関わる人間全てが殺し合うように憎しみの衝動を受信機に植え付けた。誰もトランスミッターから逃れることはできない。逃れられない衝動の鎖で人を支配し、その死を操ることがユウにはできる。理由も知らないまま、人が死んで、人を殺して、関わる人はその死の理由を知ることもないまま、途方に暮れるしかない。
「最悪の世界だよな」意識のないケイに途切れ途切れに呟く。
「こんなろくでもない世界でも、お前には幸せになってほしい。そのためには俺は一緒にいちゃいけないんだ。お前は何も悪くない。みんな俺がやったことだ」ケイの記憶がゆっくりと色を失っていく。虐待を続けた父と助けてくれなかった母のこと。施設でのこと。佐久間のこと。ユリのこと。馬渕や奥村のような自分達が殺した人間のこと。悲しい記憶も、嬉しい記憶も全て分解し、その中からケイにとって嬉しい記憶だけで再構築する。脳という曖昧な臓器に都合のいい記憶が出来上がる。
「どうか幸せになってくれ」次にケイが目覚めた時、その世界が変わっていることをユウはひたすらに祈った。
それは古ぼけた病院。色褪せた壁が降り積もる時間の蓄積を感じさせる。その壁をスコップで掘ると化石となった誰かの想いがきっと目を覚ますだろう。病院のロビーにはこの国に人生を費やした結果、生活習慣病に悩まされる老人達が車椅子で行き来する。その景色を年老いた医師と看護師が温かく見守っている。車椅子に乗るケイは穏やかな目でその景色を眺めている。
「ケイ君、具合はどうですか?」車椅子でロビーを観察するケイに背後から医師が声をかける。
「ええ、大分いいです。左手の使い方にも慣れてきました」ケイの右手には麻痺が残っていた。箸を使うのもままならなくなって、左手でスプーンを掴み、不器用にご飯を食べる日々だ。
「あれだけの大怪我だったんだ。それくらいで済んで、運が良かった」医師は上品に優しい笑みを見せる。
「殺さない程度に痛めつける才能を持っていたおかげですよ」医師はケイの言葉に怪訝な顔をする。この少年は瀕死の状態で救急外来に運ばれてきた。懸命な治療で何とかまともに話すことができるようになった。しかし、時折、意味の分からない言葉を吐く。自分の名前も言えるし、会話も理解できる。古い記憶があまり思い出せないでいる。外傷性記憶障害と診断した。外傷性記憶障害とは頭部外傷により受けた脳の損傷が記憶に携わる部分である場合に起こる疾患だ。古い記憶よりも現在、未来に至る記憶に障害が起こることが多い。ケイは違った。古い記憶、つまりは過去の記憶ほど朧気で、新しい記憶ほどクリアに記憶できている。もちろん、そういう症例がないわけではないが、珍しい症例の一つだった。医師が若く、探究心が強ければ、ケイを患者ではなく、研究対象として見たかもしれない。年老いた医師にはそんな気力はなかった。ケイを一人の患者として見る。外傷性記憶障害を不思議なぐらい冷静に受け入れている本人の意志を尊重した。
「じゃあ」ケイは左手を不器用に振って、車椅子を走らせる。外傷性記憶障害。医師の診断は間違っている。過去の記憶が部分的に黒塗りされた状態、つまりはユウのトランスミッターによる記憶の改竄がなされたのだ。自分が悲しまないようにトランスミッターを使ったとケイは理解した。父と母がいない理由は思い出せない。その代わり、里親の佐久間とユリとの暮らしはよく覚えている。そして、今、ユウがいないことを辛く思った。
「ケイ、危ないよ」走る車椅子を止める手。それはユリの手だった。
まだ自力で車椅子にも乗れない頃、ユリは突然、ケイの前に現れた。佐久間ほど年を取ったとは感じさせないのは女優だからか。真っ赤なワンピースはあの頃と変わらない。その訪問にケイは驚き、素直に喜んだ。「依頼があったのよ。ユウからあなたを頼むってね」ユリは本当の母親のような柔らかい笑顔を見せた。
川面に浮かぶ夕日、風にちぎれちぎれになる雲、囁くようなせせらぎに混じって、砂利を削る足音が響く。足音は二つ、重なり合うことはない。ユウとユリの足音だ。仮初めの母は昔と同じ真っ赤な色のワンピースを纏い、真っ赤な鞄を肩にかける。その姿にマンションで四人暮らしていた頃を思い出してしまう。
「久しぶりね、ユウ」ユリは少し大人びたユウの頭をくしゃくしゃに撫でる。もし時間を遡ることができるのならば、昔に戻りたい。ユウの正直な気持ちだった。ユウは一冊の銀行通帳をユリに見せた。そこには一生困ることがないであろう〇という数字が並んでいた。
「何、これ?」ユリはその金額に驚く素振りを見せる。痕跡を残さない殺人としての報酬だ。佐久間が残してくれていたんだとユウは説明した。
「これであんたを雇いたい」ユウの依頼内容は聞かなくても分かる。
「あたしは女優よ。依頼があれば、仮初めでも家族にはなる。でも、演じきるだけ。本当の家族にはならないよ」仕事のルールから発した言葉の冷たさに心が傷む。女優という仕事にはルールがある。一つ、契約対象と契約終了後二度と会わない。二つ、契約対象に決して感情移入しない。一つ目のルールは今、こうして破ってしまっている。二つ目のルールもきっともう破ってしまっている。佐久間は二人に家族という感情を抱き、組織に処分された。ルールを破ったユリを処分する組織などもう存在しない。
「うん。かまわないよ。仮初めでも」
「通帳を持って逃げるかもよ」
「いや、逃げないよ。この世界で信じられる大人の一人だから」もう一人は佐久間というわけね。ユリは分かっていても、口には出さない。
「トランスミッターは使わないの?組織を潰した時のように。それが一番簡単だよ」、佐久間とユリが属していた組織はあの一晩で消えてしまう。二人が特殊能力を使ったことは明らかだ。おかげでユリは失業中だった。こんな契約の依頼をするよりも特殊能力を使えば、もっと簡単なはず。
「必要ないよ。母さんだから」ユウは照れ臭そうに殺し文句を吐いた。言葉がユリの心に突き刺さる。特殊能力よりもずっと心に響く。
「全く馬鹿息子が。あんたも一緒に来なさい」ユリはユウの頭をくしゃくしゃに撫でる。嬉しげに、恥ずかしげに、苦しげに笑うユウは首を振る。
「俺はいない方がいい」思春期の子供のように照れ臭く母さんと呼んだくせに、突き放された気がした。
「ケイを頼むよ」目の前に存在するはずのユウが色褪せ、風化し、存在を失っていく。その場を立ち去ろうと背を向けるユウ。砂利を削るように引きずる足は怪我のせいだろうか。いや、それだけじゃない。ユリが考えるより遥かに重い罪が鎖となり、ユウの体と心を深く縛りつけている。この子はずっと一人で罪を背負って生きていくのだろう。
「分かったわよ。どうせ失業中だし、契約するわ」仮初めの母親でも、本当の母親がするように、自然に湧いた感情のまま、ユウを後ろから抱き締めた。
「うん」ユウは小さな声で頷き、ゆっくりとその手をほどく。ユリを残して、ユウは川原を歩きだした。砂利を削る足音がどんどん遠くなる。もう二度と会うことはない。言わなくても分かっている。どんな言葉を吐いても、ユウは帰ってこない。それが分かっていても、言葉を吐かずにいられなかった。
「ケイの母親になるって契約だよね。そしたら、あんたもあたしの息子だからね。いつでも帰ってきていいんだからね」とても子供じみた宣言だった。馬鹿げている。こんなの。どうして、こんなに胸が張り裂けるほど苦しいのか。女優という仕事をクレバーに続けてきたはずなのに。クレバーになりきれない。ユリは佐久間が残してくれた通帳を鞄にしまい、ユウと逆方向に歩きだした。せせらぎの音がやけに優しく聞こえた。
医師が頭を掻いた。慣れない電子カルテを見ながら、キーボードを叩く。
「もう入院の必要はないね。左手の作業も大分慣れてきた。足の方も、しばらく松葉杖で、普通に歩くことができるようになると思う。まあ、週一でリハビリに来るように」そう言って、キーボードから目を離す。
「ありがとうございました」ケイは丁寧に頭を下げた。車椅子の必要なくなった足で椅子から立ち上がるケイをユリが肩で支えた。医師には普通の親子にしか見えない。
「先生、お世話になりました」普通の母親がするように礼を言うユリ。診察室のドアを開けて、ケイは松葉杖で器用に歩く。
「ねえ、ユウは優しいんだ。優しいから、僕がレシーバーを使わないでいいように、傍にいないんだ」ケイは悔しそうにユウは優しすぎると繰り返した。その言葉が重かった。ユウはトランスミッターでケイの記憶を改竄した。レシーバーのことは覚えている。特殊能力で父と母を殺したことも、佐久間の依頼で痕跡を残さない殺し屋続けていたことも、その組織をつぶしたことも覚えていない。ユウはケイにとって都合のいい記憶だけを残したのだ。ケイはユウのことを忘れることはないだろう。ユウがケイのことを忘れることがないように。契約が一番だと知っている。これまでそう生きてきた。ケイを見ていると、それに息苦しさを感じる。時間は毒だ。二人と過ごした時間が長過ぎた。しかし、そんな時間が今はとても居心地がいい。仮初めの家族、いや、仮初めでも家族。ユリはケイの背中を叩いた。
「しゃんとしなさい。ユウが見てるよ」ユウから貰った、途方もない金額の通帳、きっと契約期間内に使いきることはないだろう。いつか本当の家族になれたらいい。ゆっくりと歩いていこう。ユリはらしくない感情に心を委ねることにした。
街は静かに眠る。どこにでもある住宅街、街灯に戯れる蛾達が影絵を作りだす。その影絵が映った家、幸せを絵に描いたような外観だった。その家の中、父が嗚咽を上げている。とっくの昔に出ていった妻。父が妻に抱いた悔しさと憎しみは子供らへ向かう。子供らに行ってきた虐待行為の数々。それで心を包む黒い霧が少しだけ晴れた。今夜も父は拳を握る。寝巻き姿で怯える子供達。突然、父の心を包む黒い霧を風が飛ばしていく。そこには懐かしい景色が見えた。子供らと公園に向かう自分と妻。五月の青葉が風に揺れる。そうだ。あの頃は違った。世界がとても温かくて、優しい気持ちになれた。父は胸を押さえる。拳を握った理由も、子供らを殴りつけた理由も懐かしい景色に色と形を失っていく。父にはあの頃の笑い声が耳に聞こえていた。子供らに映る父の姿。今夜も殴られるはずだった。しかし、いつも殴りつける父が泣いて、床に崩れ落ち、胸を鷲掴みにしている。父の頭に浮かぶのは子供らと過ごした毎日で、色鮮やかな世界。それは子供らにも伝播した。父の胸に溢れる後悔と懺悔。抑えきれない慟哭の衝動。父は声を上げて泣いた。子供らはどうしていいか分からず、一緒に泣いて、父にすがる。肌と肌が触れる温もりが家族を包む。今夜だけかもしれない。それでもいい。明日を、きっと今日と違う一日を信じられる。それだけでいいんだ。
街灯の下、相変わらず蛾の影絵は優雅で楽しげだった。ユウはトランスミッターで懺悔と後悔の衝動と父の心の奥底に眠る懐かしい記憶を受信機に植え付ける。世界のどこかで誰かが救われて、明日が信じられるようにと。父と母を殺した罪が消えることはない。これまで行ってきた罪が償えるわけがない。それでも、自分にできることは同じ罪を背負わないようにトランスミッターを駆使するだけだった。
あの日、ケイは組織の人間だけでなく、感じる限りの人間にレシーバーで受信機を埋め込んだ。世界のあらゆる場所で受信機と繋がる糸が揺らめいている。ユウはそれを追跡し、トランスミッターを駆使し、生きている。これがトランスミッターの正しい使い方なのかは分からない。それでも、そうやって生きることに決めた。ケイはきっと大丈夫だ。ケイにはユリが、母さんがいる。ユウには確信があった。佐久間とユリと家族として過ごし、ケイが無意識にレシーバーで受信機を埋め込んだかもしれない。ユウが無意識にトランスミッターで自然に溢れた感情を佐久間とユリに植え付けたかもしれない。いや、レシーバーもトランスミッターも関係なく、家族ごっこを過ごす時間の中で自然に育った感情かもしれない。真実は分からない。所詮、目に見えない特殊能力なのだから。それでも、ユリに温かみのある感情が生まれているのが分かった。そのおかげで仮初めでも本当の家族のように感じることができる。ユウの心は希望に満たされていた。ケイ、幸せに生きてくれ。そう祈ると自然と笑みが零れる。目の前の景色に受信機から伸びる糸が街灯に照らされ、虹色に煌めいている。この虹色の景色がなくなるまで、生き続けよう。父さん。これでいいよね。ユウはゆっくりと歩いていった。
了