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うつぼ作品集  作者: utu-bo
63/65

棺桶屋マリー

マリー

マリー

棺桶屋マリー

マリーが棺桶を作る

町の誰かが死ぬ

鉋で削る音は死神の囁き

鑿で掘る音は死神の足音

マリー

マリー

棺桶屋マリー


 これは呪いの詩。口ずさむと少し楽になる。昔と変わってしまった町の姿に後悔することはない。全てが呪いから始まっているのだから。


 自由奔放に木々が枝を伸ばす。太さが異なる枝は湾曲し、絡みつく。それらは不揃いな輪郭を空に描く。鮮やかに濃淡映える葉が陽光を受けて彩りを添えている。風に枝が揺れ、木々と葉々に生まれる隙間、そこから見える町の姿。深い森に囲まれた小さな町、あたしが生まれた町だ。

 当たり前に起こる小さな出来事、例えば商店街の会合で生まれる爺婆の言霊という沈澱物が積み重なり、小さくとも城となる。それは町の歴史。今、眼の前に流れ繰り返される足音も足跡もあたしも町の一部だ。

 古ぼけた景色の中に当然の如く存在する町。その中心に噴水がある。濡れないようにあたしは縁に腰掛ける。空にかかる水のカーテンが差し込む陽光によって虹を作り出した。子供であれば、「きれい」と素直に感動する。これは太陽光の屈折現象、そう知っているあたしが感動することはない。右手でアルミ箔の包みを開けて、手作りサンドイッチを取り出す。それをムシャムシャと頬張り、日常的な町の景色を一望する。この景色にあたしは嫌悪感しか感じなかった。

 眼の前に鳩が舞い降りる。その羽音はか細く、着地音は驚くほど優しい。鳩は足元で踊るように廻り、常に視線がサンドイッチを貫いている。口に頬張るサンドイッチをこぼしてしまうほどの間抜けにあたしが見えるようだ。馬鹿にするなと腹ペコな鳩に舌を出す。

「マリー、どうした?」声とリンクした嘴の動きに鳩が喋った気がする。しかし、すぐに間違いだと気がついた。舌を出すと同時に、現れたのは父。足音が足跡のように地面にへばりつき糸を引いている。

「何でもないよ」言葉を吐くと同時に舌を巻き上げるから思わず噛みそうになる。父の言葉、足音、その存在に鳩はバサバサと翼を鳴らし大空へ消えていく。

「買い物は終わったの?」鳩が消えた空から父へと視線を落とす。商店街で買ったものを両手に持つ父。その姿はバランスを取るやじろべいだ。「ああ」と父は無愛想に答えた。父はこの町で生まれ育った。父は町の全てを知っている。町も父の全てを知っている。父はこの町でしか生きられない人間だった。

「マリー、ちょっと商店街の連中と飲んでくる。先に帰ってな」足元にはカラフルなピンコロ石が敷き詰められた道が広がる。陽光が作り出した影の向こうで商店街の仲間が父に手を振っている。父はあたしに踵を向け、「おお」と跳ねるように歩いていく。父の影はすでに遥か彼方、足音と足跡だけが残る。取り残されたあたしと荷物。その行動に呆れ、いつものことだと独りごちる。

 無造作に取り残された荷物を担ぎ、あたしは家へと向かう。その後ろ姿はさぞ淋しげに見えるであろう。しかし、決してそんなことはなかった。むしろ父という不必要なストレスのない世界に居心地の良さしか感じない。ふと気づくと空に舞う鳩が映る。多分さっきの鳩だ。あたしにも翼があれば。その自由な世界に憧れ、翼の如く両手を広げた。あの鳩のように自由に空を舞う。そんな想像すらこの町は許さない。翼を模した両の手に深く食い込むのはピンコロ石の隙間から伸びる鉄の鎖。それがあたしの腕に絡みつく。皮膚、筋肉、骨が軋み、悲鳴を上げ、翼を閉じざるえない。あたしと同じように母もこの鎖に繋がれて身動きできない状態だったのだろう。今はもういない母に思いを馳せ、心とは裏腹に晴れる空を睨む。母の思い出は優しくない。だって、母はこの町に殺されたのだから。


 学校から帰った幼いあたしの眼の前でロープにぶら下がる母。ロープは天井の梁と母の首を固く結ぶ。母を支える結び目がじりじりと音を立てていた。夕日を浴びた真っ赤なランドセルの背中が熱い。母の姿にあたしは呼吸を忘れた。視神経から伝達される情報。ゆっくりと脳に浸食する母の姿。干からびた百舌鳥の早贄のように力なく、風見鶏のように回ることもない。酸素が足りない。これは身体が発した悲鳴。警報のように繰り返す。早く息を吸って吐けと。悲鳴と同時に思い出したかのように息を吸って吐いた。それでも、景色は変わらない。

 父はあたしの傍らにいた。いつからいたのか分からない。呼吸を忘れて卒倒しそうなあたしを見ることも支えることもしない。父はぶら下がる母だけを見ている。その顔は見えない。悲しんでいるのか。泣いているのかも分からない。この景色が夢であれば。そう望んだ。フローリングを這う母の影が足元に絡みつき、これは夢ではないと簡単に否定する。あたしは知らぬ間に膝まづいていた。父が黙って脚立を組み立て始める。その太い腕が母をゆっくりと下ろし、丁寧に横たえる。冷静な所作で呼吸がないこと、脈がないことを確認し、母の死というパズルを組み立てていく。この母の状態を見て、どうして冷静でいられるのか。この男は決して悲しんでいない。泣き叫ぶことのない父に怒りを覚えた。「もう息絶えている」父が吐いた言葉。言葉は残酷だ。言葉にすることで母が死んでしまったという事実が現実となる。警察と医者を呼ぶと言い残し、父は母とあたしを置いて、電話をかけに消えた。

 息絶えた母と取り残されたあたし。とても静かだ。フローリングを走る冷たい風が舞い上げる埃の音すら聞こえる。心臓を叩く鼓動が激しく鳴り止まない。あたしは母の手を握る。その手は冷たく、すでに血が干からびているように感じた。冷たく痩せこけた母の手。「お母さん」震える声を振り絞る。何度も何度も。言葉が母に届かないと知っていても。頬を走る涙の熱さ、対照的な父の冷たさ、あたしに残る母の最後の思い出だ。

 母は数年前から精神に異常をきたし、まともな会話ができなくなった。母の心を壊したのは父とこの町だ。

 父の元に跡継ぎを生むためにやってきた母。地図に小さく名を刻む町。環境的資源も文化的遺産もない。世界を支配し駆け巡る経済潮流という怪物は経済的価値を見いだせない町の存続など許さない。サイコロを転がし、その出目で統合や合併が起こり、小さな町の名前が地図から消えることは簡単かつ必然だ。町民はこの町に固執する。他の町との合併や統合など認めない。この町がこのまま変わらずにあればいい。そんな強迫観念が町を支配する。強迫観念は町の中心にある古臭い商店街に使命を与えた。商店街が町民の生活の全てを支えること。町民の生活が小さな町で循環し、完結する限り、町は永遠に存続する。そう信じた。町を永遠とするために、商店街を潰さないためにその跡継ぎを絶やさないという呪いが生まれる。

 呪いは跡継ぎを求め続ける。

 呪いのために父に嫁いだ母。父の店の跡継ぎを生むことだけが母の仕事。呪いによって生まれたのはあたし。男の子ではない。跡継ぎを生めなかった母を役立たずと罵る町民。町民の蔑みから母を守らない父。あたしを生んだ後、幾回か妊娠をしたが、跡継ぎを生まなければという重圧で流産を繰り返す。緩やかな坂を転げ落ちるボールが止まることはない。母が壊れていく。そんな過程をあたしは見ていた。今でも思うこと。あたしが男の子であったならば、母が壊れることはなかったかもしれない。

 竹製のカウチはしなやかで軽い。母はそこから動かない。呼吸も止まっていない。心臓も動いている。でも、心がない。生物学上生きている母は一日中、カウチと一体化した。笑うことも泣くこともなく、動くこともない。

 幼いながらも母の異常に気付いていた。学校から帰ると竹製のカウチに横たわる母の傍に行くのが日課。学校であった出来事を機関銃のように話し続ける。いつか母が笑ってくれる。あたしの頭を撫でてくれる。そんな馬鹿げた夢を見ていた。

 父は違った。竹製のカウチと一体化する母を見ることも、何か言葉をかけることもない。カウチと母の区別がつかず、ただの無機物、そう母を扱い、死への階段を一段ずつ登らせる。あたしは母に寄り添い、話をしていただけ。結局、母が笑うことも撫でてくれることもなかった。あたしも父と同罪だと思う。それでも、父を許せなかった。

 母が壊れてからも、死んでからも変わらない父。商店街の一部である自分を誇りに思っている。町民の安らかなる死のためには棺桶が必要。そのために棺桶を作る。この町で唯一の棺桶屋であることが父の誇りであり、存在意義なのだ。

 父が作る棺桶がないと町民は安らかなる死を迎えられない。父はそのために生きている。母の葬儀に父は一番上等な棺桶を使った。父が彫った美しいレリーフ、ヒノキの匂いが充満したクッションが母の亡骸を包む。母が安らかなる死を迎えた。父はそう思っている。違う。母は安らかなる死など迎えていない。母はこの町に来てから、あたしを生んでからもずっと苦しみ続け、殺された。

 町の存続には棺桶屋の後継ぎが必要という呪いに父は選択する。後継ぎとして根本的に足りないあたしに棺桶を作る技術を叩き込むことを。雨の日も晴れの日も関係ない。甲高い鑿の音、鋭く唸る鉋の音、耳から離れない。手足にこびりつくヒノキの匂いが消えない。「この音を、この感覚を忘れるな」職人らしい言葉を父は繰り返す。父の指示通りのことができなければ、容赦なく材木の切れ端が飛んでくる。幼いあたしの体はいつも青あざだらけだった。町民はそれを見て心配することはない。全ては町の存続のために必要なことだと思っている。母を失ったあたしが得たものは父の暴力と棺桶を作る日々だった。


 ピンコロ石の敷き詰められた道を歩いていくあたし。視界に入るのはこの町で唯一のパン屋。傾いた看板に虫食いの穴。大人ほどの大きさの石窯で焼き上げる石窯パンが売り。いや、そもそも石窯パンしか売っていない。店主はジェイクと言う。ジェイクはパン屋に似つかわしくない屈強な肉体を持っていた。逆三角形にデザインされた上体から生えるあの腕で殴られたらと考えると恐怖しか感じない。ジェイクも父と同じようにこの町で生まれ育った。パン屋という仕事に誇りを持ってこの町で生きている。ジェイクの焼き上げる石窯パンがなければ、町民のテーブルにパンが並ぶことはない。それがジェイクの存在意義。父と変わらない。

「よお、マリー」ジェイクが馴れ馴れしく名前を呼ぶ。あたしは父と同じ誇りを胸に生きるジェイクが嫌いだ。ジェイクだけじゃない。母を殺したこの町の人間が嫌いだ。そんな感情を隠すことなく嫌悪感を込めた視線でジェイクを貫く。その視線の先、ジェイクの脇から幼い少年が見えた。二五〇度の熱を帯びる石窯の前で汗をかいている。彼もあたしと同じ。パン屋を継ぐためにやってきた。母は男の子を生むことができず町の期待を裏切った。町民はあたしという失敗作を教訓とし学ぶ。母という跡継ぎを生むための媒体はいらない。必要なのは跡継ぎそのもの。だから、男の子である彼を養子として連れてきたのだ。紙切れで結ばれた血縁関係でもいい。ただパン屋が潰れなければいい。彼は石窯パンを焼き上げる技術を叩き込まれ、いつか町民のテーブルに彼の焼き上げた石窯パンが飾られる。そんな気持ち悪い夢に心が陽光の届かない世界に沈んでいく。

「なんか用?」言葉は冷たかった。石窯が発する熱でも溶けることはない。そんな言葉もジェイクが身に纏う呪いという鎧に傷さえつけることはできない。

「この石窯パンを持ってけよ。お父さんにだ」この世界にパンは数多くあるのにジェイクの石窯パンしかあたしは知らない。昼間のサンドイッチもこの石窯パンで作った。父はこの石窯パンが大好きだった。だから、いつも無理やり石窯パンをあたしに持たす。ジェイクの誇りで焼き上げた石窯パン。ジェイクの屈強な肉体と笑顔。香ばしいバターの焦げた香り。全てがアンバランス。その美味しさをあたしが理解することはない。石窯パンを拒否ったところで無理やり持たすといういつもの結末に諦めて何も言わず受け取り、カバンに乱暴に詰め込んだ。この石窯パンも、跡継ぎとしてやってきた彼も町民と同じ。この町に呪われている。

「石窯パンしかないよね。いつも」石窯パンは呪いでしかない。そんな石窯パンを卑下するように毒を吐く。

「石窯パン以外に必要なのか?」呪いの鎧で守られた精神と肉体にそんな毒など効かない。つくづく思う。この町には未来を見る意志も力もない。だから、石窯パンしか作ることができない。下らない職人気質も誇りも町が積み重ねる過去への執着でしかない。

「確かに必要ないね」このジェイクとのやり取りを終わらしたかったあたしは諦めと終いの言葉を投げつけ、ジェイクに背を向ける。ジェイクが何か言っていた。聞こえないふりをして逃げるように早足で歩いていく。店の奥でパン屋の修行をする彼もいつかジェイクのようになる。それは特別な出来事ではない。いつも通りの気持ち悪い日常だ。

 古びた柱と壁板を組み上げた立方体の建物が道路の両側に展開する。どれも似たような顔つき、色褪せた老人の風体で我が物顔で鎮座している。壁を這う蔦が血管のように脈打つ。枯れ果てた蔦が時折混じり、生と老いが同居している。空に走るのはかまぼこ状の屋根、鉄材と合成樹脂パネルで形成されている。鉄材は錆びつき、合成樹脂パネルがくすむ。経年劣化と呼ばれる老化現象が進行し、薄暗い陽光、いや、陽光というには程遠く、か細い光を落とすだけ。これが町の心臓。老化現象著しい心臓の一角に父の棺桶屋があった。

 あたしの部屋は棺桶屋の二階。窓を開けると昨日より年老いた景色が映る。町民はこのままであることを望んでいる。現実にはありえない。町も人も老いる。商店街も同じ。景色が昨日よりも、一昨日よりも年老いて映るのは当たり前のこと。か細い光が落ちてくる景色に錆びついた風が通っていく。父はまだ帰ってきていない。ジェイクが無理矢理渡した石窯パンも、買い出しの荷物ももう片付けた。誰もいない。あたし一人だ。

「悪魔の計画よ」あたしの独り言に答えるものはいないはずだった。バサリと突然、窓枠に飛び降りたのは鳩。さっきの鳩か分からないが、コミカルに首を上げ下げする。

「餌なんかあげないよ」鳩に言葉など分かるわけないと知りながら、孤独を埋めるように言葉を並べた。返事をするように鳩は首を傾げる。

「この小説はつまらない三文小説よ。でも、大事なことを教えてくれたの」本棚から取り出した赤いブックカバーの本。題名も作者の名前も見えない。あたしは本を開き、ページをめくる。紙が擦れる。乾いた摩擦音が響き、物語の扉が開いた。


 三文小説の舞台は権力を行使する側と行使される側、そんな境界線で区切られた世界。権力を行使する側が罪を犯しても裁かれることはない。権力を行使される側は道端に転がる石ころと同等に扱われる。

 主人公は権力を行使される側。その妻が権力を行使する側の男によって命を奪われた。交通事故だ。普通に罪を裁かれればよかった。それで気が晴れるわけでも、救われるわけでもないが、まだましな結末だ。

 アスファルトに残されたのはタイヤのブレーキ痕ではなく、妻から流れ出た血の跡と大量のアルコールと薬物にまみれた男の吐瀉物。事故当時の状態が容易に想像できる。しかし、男が裁かれることはなかった。権力という頑強無比な鎧によって守られる男。次々と消えていく証拠と証言。終いには妻の命を奪った交通事故さえもなかったかのように、妻さえも存在しなかったかのように世界は廻っていく。憎しみが生まれた。底の見えない深い沼に降り積もるヘドロのようにヌルリとした感情だ。主人公の心が淀んでいく。辿りつく深く暗い世界で思いついた復讐劇は陳腐なものだった。

 トリカブトという植物がある。推理小説で使い古されたネタとなる猛毒の植物。そんな毒を使って復讐を果たすこと。それが妻を失った主人公の生きる目的となった。権力に守られる犯人を見つけるまでの流れはつまらなかったから覚えていない。復讐を果たした後、主人公は贖罪を求める。このトリカブト殺人事件の犯人として逮捕される。正義の女神テミスが支配する法廷でこの世界の不条理を訴え、真実を曝露する。復讐と贖罪と揭露。これが彼の作り上げた復讐のストーリーだ。

 主人公はいつ逮捕されてもいいようにスーツとネクタイを身に纏う。妻の無念を晴らすのに恥ずかしい格好ではいけない。だが、おかしい。一向に警察は現れない。確かにトリカブトを使って、復讐を果たしたはず。これは事実だ。人殺しとなった主人公に必要なのは贖罪。いつまでも逮捕にやってこない警察、裁かれなくてはいけないという焦燥感、主人公の足は自然と警察へと向かう。そこで主人公は真実を知った。トリカブトによって殺されたはずの男は急性呼吸不全による心停止という死亡診断書が書かれ、すでに火葬されているということ。トリカブト殺人事件としてメディアが取り上げるはずだったのに。「都合が悪かったんだよ。その殺された男がメディアに出ることが」深い闇の底に響く声が真実を語る。血液検査の結果からもトリカブトの毒による殺害は明らか。しかし、医者は急性呼吸不全による心停止と死亡診断書を書く。権力は強大だ。人間一人を嘘で取り繕い、簡単に虚実を作り出す。出世のため、医者は権力と握手を交わす。これは契約。あの男の罪を永遠に闇に沈めるための。

 この不平等な世界に埋もれていく真実。都合の悪いものには蓋をしよう。この世界を支える根幹が謳う。殺人を犯しながらも、贖罪できない重圧と揭露できない絶望を背負った主人公の未来を想像しろとばかりにエンディングがやってくる。


 くだらない三文小説で大事なことは二つ。殺人という罪は死亡診断書という紙切れでどうとでもなるということ。そして、トリカブトで人を殺すことができるということ。語り終わった後、鳩は理解したかのように首を上げ下げした。赤いブックカバーの本を片手にあたしは秘密の場所に向かう。

 町外れにある朽ち果てた無人駅、町の外の世界に興味ない町民の誰も行かない場所だ。着いた頃にはカーテンを閉めたように空が薄暗かった。

 無人駅の改札を灯すべく電灯はすでに事切れている。月明かりと星明かりだけが光源。淡い闇と深い闇が重なり合う世界に鬱蒼とした木々が茂る。木々が揺れ、葉々が擦れる音、尺取虫の足音が聞こえるほどの静寂に包まれていた。

 半分崩れている石階段、積み重ねた時間の経過を物語る。それに腰を落とすとヒヤリとした感覚が尻から伝わる。赤いブックカバーを傍らに置いた。三文小説が教えてくれたこと。罪にならなかった殺人の顛末。母を殺した父への、町への復讐。そのためにトリカブトが必要だった。

 花とは雄しべを中心に複数枚の花弁とがくが重なり出来上がる。花弁の数も色もその個性と言わんばかりに様々だ。葉の形も匂いも然りだ。猛毒という個性を持つトリカブト、名前の由来通り独特の形で雅楽での鳥兜に似ている。写真で何度も見た。アルカロイドという神経系の毒を花、葉、茎、根っこ全体に蓄える。それらを人の体内に入れることで麻痺と呼吸不全を引き起こし絶命する。

 目の前に群生する紫色の小さな花。写真と同じ姿。ヤマトリカブトだ。こんな無人駅にヤマトリカブトが群生しているなんて。これを見つけたのは偶然。父の暴力に怯え、町から逃げ出すためにたどり着いた無人駅。町の存続にしか興味のない町民にはたどり着けない場所。だから、あたしだけが出会えた。いや、偶然ではない。あたしが復讐を思いついたから。これは運命。あたしは新たなる呪いを作り出すのだ。


 それは静かな夜、月が空に浮かび、蝙蝠が我が物顔で横切っていく。町にとっては当たり前の夜。あたしにとっては特別な夜。

 父はテーブルで夕ご飯を待つ。キッチンであたしがホワイトシチューを煮込む。

「今日はホワイトシチューか。母さんも得意だったな」そう母の得意料理だ。あなたが殺した母の。

「そうだったね」あたしはひきつる顔を隠しながらシチューをかき回す。

「ようやくお前だけの棺桶が出来上がったな。上等な出来だ。あのレリーフもなかなかだ。あれなら誰もが安らかなる死を迎えられる」上機嫌にあたしの棺桶を作る技術を褒める。棺桶屋の跡継ぎとして生まれた女の子。まるで期待していないくせにあたしに技術を叩き込んだ。

「まあ、でも、お前は結婚して、子供を生めばいい。男の子だ。そうすれば、町は安泰だ」そう、町民の安らかなる死のために。父にとってあたしは棺桶屋の跡継ぎではない。ただの中継ぎ。次の跡継ぎを生むだけの道具。母と同じ。黙ったまま、シチューをスープ皿につぎ、机に並べる。そこにはジェイクの石窯パンが並んでいた。母が得意だったホワイトシチューとジェイクの石窯パン。最高の組み合わせが最後の晩餐。ホワイトシチューにはたっぷりのヤマトリカブトが入っている。何も知らない父はスプーンでそれを口に運んだ。うまいうまいと言いながら。

 鉛のように重い時間が過ぎていく。ジェイクの石窯パンを千切って、シチューをきれいに平らげる父。そして、復讐の時がやってくる。

 スプーンが力なく落ちて、カツンと床で跳ねた。父の額に浮かぶ血管と脂汗。あたしの世界から音が消えた。父の呻き声も聞こえない。映像だけがスローに流れた。両の手で首から胸を掻きむしる。体を支える筋肉が失われ、枯れ木のように簡単に体が折れる。床に転げ落ちる父。無様に床の上で身悶える。ヤマトリカブトの毒が父を侵食し、父を死へと誘う。

 父は汚らしい吐瀉物をまき散らす。その手が助けを乞うが、あたしに届くことはない。毒を盛ったのはあたし。これは母を殺した復讐なのだから。

 父はもがき苦しみ、死に至る。動かなくなった父。その過程を記憶に焼き付け、残ったシチューを流しに捨てる。これからだ。父は急性呼吸不全による心停止で死んだ。決してヤマトリカブトの毒ではない。そんなストーリーを作り上げるためにあたしは走り出した。

 月は全てを見ていた。それを誰かに伝える術はなく、月は空に浮かぶだけ。そんなことを悔しがる気配もないが、いつもより月が明るい。そんな月明かりに浮かび上がるカラフルなピンコロ石の道、足音がカチリと弾んだ。行先は町で唯一の医者が営む診療所だ。

 その医者は母の死亡診断書も書いた。白髪混じりで無精ヒゲの医者は町民の病気を全て一人で診る。簡単に診察をして適当に薬を出すだけ。風邪とか、老衰ばかりの町民を診るだけの医者の腕は鈍り、知識は錆びる。要はヤブ医者だ。まともな診察などできない。だから、いいんだ。ヤマトリカブトの毒に気づくわけがない。

 診療所の入口は濁ったガラス戸。ガラス戸を激しく鳴らし、あたしはヤブ医者を叩き起こす。眠たげに欠伸をしてヤブ医者がガラス戸の向こうに姿を現した。

「どうした?マリー」

「父さんが、父さんが」走ってきたせいで髪が乱れていた。それもいい。肺が破裂寸前で呼吸が整わない。それもいい。渇いた喉が水を欲して、言葉が出ない。それでも言わなくてはいけない言葉があった。

「父さんが死んだの」決してあたしが殺したわけではない。突発的に死んだ。ヤマトリカブトによって。


 ヤブ医者は父を簡単に診て、死亡診断書を書いた。ヤマトリカブトという猛毒を盛った殺人は急性呼吸不全による心停止となった。とても簡単。あの三文小説と同じく殺人という事実は消えていく。

父の死を勘ぐる町民はいた。しかし、誰もそんなこと口にしない。父の突然死に疑念を訴え、警察の捜査が入れば、商店街から棺桶屋はなくなり、町民が安らかなる死を迎えることができなくなる。だから、何も言わない。町民に必要なのは父ではない。正義でもない。自分達の安らかなる死のための棺桶というベッドだけ。父の作った棺桶でなくてもいい。あたしでも棺桶は作れる。町民はそれを知っていた。

 あたしが起こした殺人はヤブ医者と町民の思惑から自然死となる。欠けたパスルを埋めるように父の代わりとなったあたし。町民の安らかなる死のために棺桶を作ることとなった。

 父はあたしが作った棺桶で安らかなる死を迎えた。黒い服に身を纏う町民。火葬場の屋根に突き刺さる煙突から煙が流れる。父の残りカスだ。うっすらと灰色に染まり、空に消えていく。記憶の中、死にゆく父の姿を思い出す。あたしに手を伸ばした死に際の父、きっとあたしは笑っていた。悪魔の計画はまだ終わっていない。これは兆し。新たなる呪いの始まりだ。


 あり得ないことが思い込みで起きる。プラセボ効果だ。人の心と体は連動している。心が壊れれば体も壊れる。心を支配できれば体も支配できる。まことしやかに流される噂が呪いのロジック。それがトリガー。

「あたしが棺桶を作る。町の誰かが死ぬ」

始まりは父の死。棺桶屋を潰させないという町民のエゴによって生まれた疑念。あたしの吐いた呪いのロジックと繋がり、町民に疑心暗鬼を生む。あたしが今すべきこと。とにかく棺桶を作る。棺桶を作る音が町に響き渡り、町民の心をノックする。町民が一人死んだ。トリカブトを使ったわけではない。ただの自然死。しかし、あたしが吐いた呪いのロジックが暗示となり、町民の心を飲み込んでいく。

 狙い通りに町民から笑みが消えた。あたしが棺桶を作る。町の誰かが死ぬ。新たに生まれた呪い。商店街の店主が死ねば、跡継ぎのいない店は潰れる。店が潰れ、商店街から店が消えれば、町民は生活の支えを失う。いびつに歴史を紡ぎ、作り上げた町が崩壊する。愉快だ。とても愉快だ。あたしの心は踊る。

 町の姿は一変した。あたしが棺桶を作る。町の誰かが死ぬ。ヒノキの匂いがたちこもる作業場、鉋で削る音は死神の囁き、鑿で掘る音は死神の足音、町民にはそう聞こえる。町民のために棺桶を作り続ける。父と同じ道をあたしは歩む。そこには父が自負していた誇りなどない。あたしが棺桶を作り、町の誰かが死ぬこと、その喜びだけだ。

 あたしが作り上げた呪いのロジックで町は死に体であった。町唯一のパン屋であったジェイクも死んだ。跡継ぎであった少年はジェイクが死んだ途端、町から逃げ出した。もう町民のテーブルにあの石窯パンが並ぶことはない。

 ピンコロ石で敷き詰められた道がアスファルトで舗装された道路となる。町を隠していた深い森が更地となり、地上に映えるヤマトシロアリの巣のような巨大な総合商業施設が立ちそびえる。堅牢な要塞のごとく近代的な工場ができていく。町は合併され生まれ変わる。

そこは経年劣化著しいかまぼこ状の屋根の下にある商店街。そこにはあたしの棺桶屋と数軒の店が残る。それも今日明日残っているという保障はない。かつての心臓はとてもか細く鼓動を刻むだけ。もうあの町の面影などなかった。

 あたしが棺桶を作る。町の誰かが死ぬ。町民全て呪い殺すまで棺桶を作ることをやめない。「まるで死神だ」こびりついたヒノキの匂い。緩やかに弧を描く美しいレリーフ。鉋で削る音は死神の囁き。鑿で掘る音は死神の足音。あたしは棺桶屋マリー。今も棺桶を作り続けている。今も呪い続けている。今も呪われ続けている。


了 


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