死神と蝉
【死神の独白】
まあ、話をしようじゃないか。
寿命が尽きるまで。
ゆっくりと。
わたしの名前は死神で。
わたしの仕事は命を奪うことで。
わたしの仕事道具は黒い鎌で。
死神とはそういうものだが、命を奪わずにいられるのだろうか。
肉食動物は肉を食べ。
草食動物は草を食べ。
食虫植物が虫を食べ。
フンコロガシは糞を転がす。
それぞれの生物が存在するために必要な掟を本能として持っている。
死神が命を奪うということが本能であれば、やはり命を奪わなくてはわたしの存在が許されないのだろう。
あえて本能を否定して、死神以外の存在になる気はないので、わたしは迷わずに命を奪うことを選択する。
そう死神の本能のまま、わたしはこの黒い鎌で命を奪う。
死神の命の奪い方にもそれぞれの個性というか、性格が現れる。
寿命が切れるのを待てずに魂を奪ってしまう短気な死神もいれば、寿命が尽きるまで肩に乗って、何年もついて回る呑気な死神もいる。
すべて性分であろう。
わたしの命の奪い方は死神の中では特殊かもしれない。
わたしが奪う命は不慮の事故で未来の見えぬ命だということ。
人間が死ぬ時、大切な思い出がルーレットみたいに回る。
大切な思い出は電気信号で作られた映像であり、それは頭蓋骨で守られた脳細胞に保存されている。
だいたいにして不慮の事故にであった命は脳細胞の中の大切な思い出にしがみつくのだ。
脳細胞にしがみついた命は肉体を動かすこともできない。
ただ大切な思い出にしがみつく。
ただの電気信号にしがみつく。
生体反応しか見せない肉体。
かろうじて脳細胞にしがみつく命。
わたしはこの黒い鎌でそのつながりを断つのだ。
まあ、そう怒らずに話を聞けよ。
大切な思い出にしがみつく気持ちは分かるさ。
若い命であっても、老いた命であっても、不慮の事故にあって、肉体から無理矢理離されるわけで、どんな命だって大切な思い出にににしがみつくよ。
たとえそれがただの電気信号であっても、きっとしがみつくよ、うん。
だから、わたしは簡単にこの黒い鎌を簡単には使わない。
わたしはまず話をするんだ。
まずはわたしのこと。
わたしが死神であることを話して。
わたしが君の大切な思い出になる。
ただの電気信号の再生だがね。
目の前にいるのは君が大事に思っている人だ。
さあ、わたしと話をしようじゃないか。
寿命が尽きるまで。
ゆっくりと。
まだ時間はたっぷりとあるのだから。
【死神と僕】
お人好しな死神だな。
僕ならば迷わずにその黒い鎌で断つよ。
僕は死神の声に目を覚ました。
実際、何があったのか、あまり覚えていない。
でも、一瞬で何かが弾けたことだけを覚えていた。
いや、僕の腕が弾けたんだ。
痛みよりも熱さが腕にへばりつく。
一瞬の間に何が起きたのか、僕は知らない。
知っているのは死神の独白と黒い鎌で命を断つということだけ。
やはり僕は死んだのか。
マンガで見る死神と同じだった。
切れ味抜群っぽい黒い鎌で。
黒い布地のパーカー付きの服で。
ガイコツチックな顔が見え隠れする。
死神は僕の目の前にいる。
とにかく僕が死んでしまったから。
目の前にある映像が溶けだして。
死神も笑いながら溶けだして。
そして、懐かしい彼女が現れた。
彼女の名前はサリー。
青春真っ只中の証のソバカスが眩しい。
僕が回るルーレットから引き当てたのは彼女との大切な思い出。
目の前にいるサリーは不自然な箇所を見つけられないくらいリアルだった。
死神が僕の大切な思い出を勝手に再生しただけ。
あれはサリーじゃない。
あれは死神だ。
でも、サリーは笑っていた。
あの頃と同じで笑っていた。
そう、サリーは僕の2つ上の幼なじみ。
やんちやでわがままな僕はサリーの言うことはよくきいた。
その理由は自分でも分からない。
だから、あれはサリーじゃないって。
なんとか僕は自分の意識を保とうとする。
頬をつねり、頬を打つ。
そんな行為で痛覚を刺激する。
確かに痛みがあった。
だが、僕はすでに死んでいるのだ。
僕の肉体はここにない筈なのに痛みを感じる。
とても不自然で、矛盾していて。
何故だ?
僕はサリーの形をした死神に聞いた。
サリーはただ笑う。
死神はただ笑う。
そして、サリーを含んだ景色が溶けだして。
天井の見えない空から。
底の見えない闇が落ちてきて。
僕を一気に飲み込んだ。
サリーは僕より2つ上。
小6の時に中2。
中1の時に中3。
中2の時に高1。
中3の時に高2。
同じペースで時を刻む。
決して追い付くことのない時間の壁に苛立ちを感じることはなかった。
僕はサリーの身長に追い付いたのは中3の夏。
サリーのおばあちゃんはイギリス人。
サリーの家は僕んちから15メートル先。
親同士が仲が良かった。
環境的な要因。
それが大きかった。
でも、それだけじゃない。
サリーは恋人未満。
僕は弟未満。
僕とサリーは一線を越えることなく、僕はサリーの身長に追い付いた。
河川敷。
赤い夕日。
川を跳ねる魚。
夜の手前がやけに眩しかった。
僕はサリーのために四つ葉のクローバーを探す。
「四つ葉のクローバーが欲しい。」
サリーが急に言い出した。
「はあ?」
聞こえていたが、疑問系で返す僕。
誰かが四つ葉のクローバーを河川敷で見つけたって。
そんな噂話を聞いた気がして。
四つ葉のクローバーは三つ葉のクローバーの突然変異。
見つけると幸せになるらしい。
三つ葉のクローバーを情報を確認してゆく。
この河川敷に数えきれない三つ葉のクローバーがあるが、その中に幾つの四つ葉のクローバーがあるのだろうか。
コリドラスのアルビノが生まれる確率よりも高い確率で生まれるのだろうか。
下らないというか、全くもって生産性のない問い掛けだった。
しかも、答えなど知らないし、直感的に考えれば、コリドラスアルビノの生まれる確率が高いと感じるぐらいで。
コリドラスアルビノは熱帯魚屋さんに必ずいるが、河川敷で四つ葉のクローバーを必ず見つけるわけではない。
これが一番正解かもしれない。
極めて自己中な答えに満足していた。
でも、人為的に生まれたコリドラスアルビノと超偶然に生まれたコリドラスアルビノという条件をオプションとしてくっつけたら、結果は違うかもしれない。
「くだらない考察だ。」
自分の思考回路と電気信号に呆れて。
四つ葉のクローバー探しに飽きれて。
僕は三つ葉のクローバーの布団に背中から突っ込んだ。
背中がふんわりと跳ねて、風が起きた。
青草の匂い。
川の水の匂い。
そして、お日さまの匂いが鼻を刺激する。
サリーはザクレベルにありふれた三ッ葉のクローバーを僕の鼻の下に置いた。
ツンと青草の匂いが鼻を刺激する。
そう、この三ッ葉のクローバーが僕の大切な思い出で、今もしおりにして、お気に入りの本にささっている。
いや、これはただの電気信号の再生だ。
僕は死神に夢を見せてくれている。
大切な思い出の再生を。
で、君はサリーじゃない。
で、君は死神だ。
瞬間的に景色が消える。
次の瞬間、白い空間に僕はいた。
僕には影がなかった。
存在は三次元だが、映像は二次元というところか。
そう一息をついたら、『ガツン』と空からブラウン管のテレビが降ってきた。
薄型テレビ推進委員会の力もこの世界には届かないらしい。
空から降ってきたブラウン管のテレビは数分ごとにもう一台、もう一台とい落ちてくる。
もちろんテレビには番組が流れていた。
ただし、番組はサリーがいなくなった後の中学の卒業式から始まる、僕の個人的なドキュメンタリー番組だ。
そう、サリーは姿を消した。
サリーだけじゃない。
サリーの両親も姿を消した。
処理しきれない程の負債を抱え込んだ工場兼自宅を残して、夜逃げ同然に姿を消した。
どうして四つ葉のクローバーをもっと必死に探さなかったのだろう。
サリーが夜逃げしたことを知ってから、何度も後悔していた。
サリーは明日、夜逃げするから、四つ葉のクローバーを探していたのか。
それとも、最後に僕に会うためのただの口実だったのか。
真実はもう分からない。
でも、噂話はくだらないほど誇張されて、サリーの懐妊説までおもしろおかしく流布された。
何がおもしろくて。
何がおかしくて。
僕には笑えなかった。
夏が過ぎても。
秋が過ぎても。
冬が過ぎても。
僕には笑えなかった。
白い空間の中に僕が二次元的に存在して。
三次元的なブラウン管のテレビが囲むように積まれていく。
サリーがいなくなったことで、空いた心の穴を埋めるようにだ。
そう、そうだった。
サリー。
サリー。
サリー。
と想ってばかりいた頃、僕の心を救ったのはサリーとの大切な思い出ではなくて、日常を支配する、ありふれた現実の積み重ねだった。
こうして、ブラウン管のテレビに流れる映像が僕を救ってくれた。
僕はサリーを忘れた。
ブラウン管のテレビの映像ではすでに10年の月日が流れていた。
すでにサリーとクローバーは思い出になっていた。
しかも、綺麗に折り畳まれ、日の光も届かない、古ぼけた段ボールの中で。
サリーのことを忘れていたのに。
こんな形でサリーと再会するなんて。
サリーは僕の会社に現れた。
秘書課の人間として僕の前に現れた。
いや、正確じゃない。
現れたのではなく、素通りしただけだ。
僕は営業の末端社員。
サリーは秘書課で上司のフィアンセ。
漫画みたいな設定だが、漫画みたいに再会に燃える展開にはならない。
サリーは僕を素通りする。
僕もサリーを素通りする。
交わらない点と線。
サリーの過去を知るのは僕だけ。
サリーの夜逃げの過去を知るのは僕だけ。
だから、交わらない点と線。
僕はサリーの幸せを祈った。
僕は何もしゃべらないし。
僕は目も合わさないし。
もちろん昔のことなどしゃべらない。
サリーが幸せなのだから。
だから。
だから。
あの日の四つ葉のクローバーを探しにいこう。
僕は有給を取って、懐かしい河川敷に自転車を走らせる。
ペダルをこぐたびに時計の針が1分戻る気がした。
60回こげば、1時間。
1440回こげば、1日。
525600回こげば1年。
僕は時間を巻き戻して。
懐かしい河川敷にたどり着いた。
自転車が慣性の法則で一人転がっていく。
僕はあの頃と変わらない河川敷に倒れこんだ。
鼻をつくのは青草の匂い。
頬を撫でるのは夏風。
耳に刺さるのは川魚の跳ねる音。
僕は思い出した。
超自然的に生まれるコリドラスのアルビノの確率は?
人為的に配合条件で生まれるコリドラスのアルビノの確率は?
河川敷に広がるクローバー群の中の四つ葉のクローバーの生まれる確率は?
三ッ葉のクローバーの変異たる四つ葉のクローバーが生まれる存在意義は?
ただ幸せになりたいから。
ただ幸せになってほしいから。
僕は立ち上がり、目を凝らして、クローバーの世界を見る。
点と線で座標を作り、マップを完成させた。
西から東へ。
北から南へ。
クローバーの世界を座標ごとに区切り、丁寧に検索した。
四つ葉のクローバーを見つけるために。
僕の脳細胞は単純な検索作業を淡々とこなしていた。
三ッ葉か?
四つ葉か?
単純な検索作業とは反比例する膨大なデータ量に脳みそパンクしかける。
ただ四つ葉のクローバーを見つけるために。
ただ幸せになってほしいから。
そして、検索網に四つ葉のクローバーが引っ掛かった。
それは奇跡的な確率で起きたリアルで。
同時に僕の腕に痛みと熱さがへばりつく。
そして、弾けた。
音はワンテンポ遅れてやってくる。
考えてみれば、当たり前だ。
音は電気信号に変換され、既存のデータベースを検索し、合致するパズル片から音そのものを認識し、理解する。
そう考えてみれば、反射的に感じる痛みと熱さより音が遅れてくるのは当たり前だ。
僕の体は夏草の上に叩きつけられた。
その後に鈍い擬音が体を流れた。
痛みと熱さが全身に広がる。
波紋のように重なり、反響し、強くなっていく。
僕はルーレットのように回る大切な思い出を見た。
そこにはサリーがいた。
僕は痛みと熱さに弾けた右手に四つ葉のクローバーを握っていた。
サリーはやさしく笑う。
意外に右手はまだ動いた。
ゆっくりと四つ葉のクローバーをサリーに差し出した。
あれはサリーじゃない。
あれは死神だ。
サリーはやさしく笑う。
僕はサリーに右手を伸ばす。
「サリーに渡してくれ。」
僕は死神に言った。
サリーはやさしく笑って、僕の右手を握る。
「サリーに渡してくれ。」
サリーという電気信号を再生している死神にもう一度言った。
サリー、いや、死神はやさしく笑ったままだった。
僕はサリーから手を離す。
風が起こり。
クローバーが舞い。
僕は頭の先から引っ張られた。
なんとなく居心地がいい。
体と心が分解されていく。
お人好しな死神だ。
僕ならば。
いや、こうやって、逝くのも悪くない。
お人好しな死神に感謝をしなくては。
最後にサリーに会えた。
いや、死神だ。
まあ、どっちでもいい。
ほんとにお人好しな死神だよ。
いつか借りは返すから。
ありがとう。
【死神と四つ葉のクローバー】
男は満足気な笑みを浮かべて、存在にもやがかかったように薄れていった。
かつて、男が存在した場所には小さな四つ葉のクローバーだけが主人を失い、風に漂っている。
「サリーに渡してくれ。」
男が死神に託した遺言。
男の名は拓也。
拓也は河川敷でサリーの幸せのため、自分のけじめのため、四つ葉のクローバーを探していた。
河川敷沿いに通る道路は渋滞を回避する抜け道だった。
そして、1台の車がドライバーの限界を超えたスピードで走り抜ける。
処理しきれないスピードに支配された車は案の定、空を舞った。
処理しきれないスピードが処理しきれないエネルギーを生み、車は一瞬、己が飛行機だと勘違いし、空を走る。
だが、車が空を走ることなどないのだ。
車は所詮、車だと気付いて。
大いなる勘違いに気付いて。
車は処理しきれないエネルギーを蓄積したまま、河川敷へと墜落する。
河川敷には四つ葉のクローバーを探す拓也がいた。
車に蓄積されたエネルギーは炎へと還元され、炎が拓也を包んでいった。
奇跡的に命をつなぎ止めた拓也は意識のないまま、警告音しか聞こえない、カーテンで仕切られた空間で数日を過ごし、今、旅立ちの時を迎える。
わたしは死神手帳を閉じた。
死神手帳には命の履歴が書いてある。
必要な時、必要な命の履歴を教えてくれる。
死神手帳に記された拓也の命の履歴に目を通して、考えていた。
「サリーに渡してくれ。」
拓也は遺言を残した。
死神に遺言を残すなどとんだブラックジョークだ。
死神は死神学の戒律に縛られ、それにはこの一文だけが記されていた。
『死神は生きる者に干渉し、生きる希望を与えてはいけない。』
当たり前のことだが、死神は死を司る神であり、黒い鎌を振りかざし、命を断つ。
それが死神の本能であり、本質であり、生きる者に干渉することを禁止するのは当然といえよう。
それを破れば、死神といえど罰が与えられる。
「サリーに渡してくれ。」
だが、拓也の遺言がやけに耳にこびりついて。
わたしは風に漂う四つ葉のクローバーに手を伸ばした。
サリーは殺風景な部屋にいた。
薄型テレビが毎週見ているバラエティー番組を流している。
くだらなくて、おもしろかった。
芸人さんの滑稽な動きとテンポよいトーク、ボケと突っ込みのメリハリが効いていた。
そんなバラエティー番組に笑い転げるサリーの携帯が突然、鳴った。
聞き慣れた着信音だが、なんとなく渇いて聞こえる。
液晶画面にはフィアンセの名前。
タッチパネルに触るとなめらかに携帯電話は着信の動作をはじめ、サリーもつられてなめらかに携帯電話を耳に当てた。
「もしもし。」
向こうから聞こえる声は着信音と同じく渇いて聞こえた。決して電波環境が悪いわけじゃないのに。
不吉な予感がサリーの聴覚器官にフィルターを張る。
できることなら、耳を塞ぎたい。
それが本音だが、あの人の電話をむげに拒否はできない。
そして、その不吉な予感は的中した。
サリーの父が重い口をようやく開く。
四角いテーブルに父と母、そして、あたしが座る。
「ちょっとサリー、来なさい。」
母がそう言って、部屋に呼びにきてから、すでに無言のまま数分過ぎていた。
ちょっとしたホームドラマ的な空気が重かった。
プラス的な話なら、頬を赤らめて、妹ができたとかって、いくつやねんと突っ込みを入れよう。
マイナス的な話なら、父さんが癌でガーンなんて感じでかオヤジギャグをかまそう。
あたしの頭はくだらない妄想でいっぱいだった。
「サリー、父さんの工場が倒産したんだ。」
父さんと倒産をかけただじゃれではない。
「明日、夜逃げをする。以上だ。」
父はテーブルから離れ、電気のついてない和室へと消えていく。
父さんの工場が倒産。
明日、夜逃げ。
そんな馬鹿な。
あたしはどうなる。
あたしは悲劇のヒロインとなった。
でも、ヒロインを助けるべくヒーローなどいない。
父と母は必要なものを最小限にまとめて、鞄に詰めていく。
あたしは意味も分からず、とりあえず教科書を鞄に詰めていく。
いや、教科書なんていらない。
だって、学校だって通えるか分からないし。
退屈しのぎにお気に入りの小説?
暗がりで小説を読むための懐中電灯。
あと、あと、あたしの思い出は何を持っていく?
あたしは冷たいフローリングに座り込む。
ここはもうあたしの部屋じゃない。
債権者の部屋?
冷たくて、理解しがたい現実だった。
そんな現実から逃避するため、あたしは拓也に電話した。
拓也は幼なじみ兼弟兼恋人未満。
「四つ葉のクローバーを探しにいこう。」
懐かしい河川敷。
夏風が吹いて。
川の上を羽虫が舞う。
夏の匂い。
川魚の跳ねる音。
太陽の暑さに蜃気楼が揺らぐ。
夏草の中に四つ葉のクローバーを探す。
この河川敷で四つ葉のクローバーを見つけたとか。
そんな人の噂など当てにはならない。
でも、明日、夜逃げするという絶対的な絶望条件がそんな人の噂にしがみつかせた。
そんな人の噂でもキラキラと眩しく見えるのだ。
あたしは幸せになるため、四つ葉のクローバーを夏草の中に探す。
探せば、探すほど、みんな同じ顔をした三つ葉のクローバーしか見つからない。
四つ葉のクローバーなど遺伝子工学研究所で瓶底眼鏡をかけた博士の手でSFチックに作られるものかもしれない。
巷に出回っている四つ葉のクローバーの葉っぱの裏に『Made in Japan』なんて書かれているかもしれない。
絶対的な絶望条件からは悲観的な妄想しか生まない。
絶対的な絶望条件を知らない拓也は何を思うのだろう?
恋人未満。
幼なじみ。
弟以上。
あたしは拓也に思春期特有の恋心を抱いていた。
もちろん拓也も思春期特有の恋心を抱いていたと思う。
あたしは拓也を探した。
あたしのために四つ葉のクローバーを探してくれていると思っていた。
でも、拓也は夏草のベッドに眠っていた。
拓也は絶対的な絶望条件を知らないから。
あたしは拓也とすむ世界が違うから。
拓也には四つ葉のクローバーなど必要ないから。
とてもどす黒い嫉妬心が生まれる。
あたしは悲劇のヒロインだ。
悲劇のヒロインを救いにくるヒーローなどいない。
あたしは明日、夜逃げする。
拓也に生まれた、どす黒い嫉妬心をごまかして、拓也の鼻の下に三つ葉のクローバーを置いた。
『さよなら。』
あたしは心の奥底でつぶやいた。
絶対的な絶望条件である夜逃げはこの国の死刑執行のように月夜に隠れて、行われた。
誰にも知られないよう車に最小限の荷物を詰め込み、走らせる。
父はタイムトライアルを目指すみたいに効率よく、スピード感たっぷりに作業していた。
それが夜逃げではなく、ちょっとした小旅行ならば、楽しかったのに。
あたしは諦めていた。
絶望を受け入れていた。
四つ葉のクローバーも見つからなかった。
きっとあたしの世界は変貌するだろう。
そして、その予想は近い未来に現れた。
まず母が消えた。
次に父が消えた。
あたしは他人に近い親戚の家に身を預ける。
転落するのは簡単だ。
人生は基本、坂道でできていると思う。
転げ落ちるほどの急な坂道でできていて、きっと子供は父と母と手をつなぎ、坂道を上る。
急な坂道を転げ落ちることなく、坂道をゆっくりと上る。
でも、父と母のいなくなったあたしはこの坂道をどう上ればよいだろう。
あたしは簡単に坂道を転げ落ちていく。
絶対的な絶望条件に生まれた孤独な日々にあたしは蝕まれいく。
誰も信じない。
誰の手も握らない。
あたしはそう決めて、学校を卒業したら、他人に近い親戚の家を出た。
誰もあたしを知らない場所へ。
誰もあたしの過去を知らない場所へ。
あたしは簡単に過去を捨てて、自分を再生する。
父と母は事故で死んだ。
天涯孤独の身で。
懸命に生きている少女。
これがあたしの設定で、あたしは悲劇のヒロインを演じた。
それからあたしはあの人と出会い、悲劇のヒロインとして恋に落ちる。
あの人のおかげで秘書という職も得て、あの人のおかげで寿退社の永久就職というゴールへ向かう。
だけど、あたしが寿退社する前にあの人は転勤し、あたしも連れ添うように転勤した。
うざい社内恋愛と陰口が囁かれているかもしれない。
でも、あの日、四つ葉のクローバーも見つけられず、家を捨て、父と母に捨てられ、闇の中、ゴールの見えない世界にいた時に比べれば、痛くも痒くもない。
あたしは悲劇のヒロインで、あの人のフィアンセ。
そして、あたしは運命的な再会を果たした。
あの人の転勤先に拓也がいるなんて。
あたしが捨てた過去が再び帰ってくる。
視線が交差するが、絡み合わせない。
できることなら、関わることなく、今のあたしの世界を壊したくない。
それが拓也に通じたのか。
拓也は何もしゃべらない。
拓也は話しかけてこない。
拓也は目を合わさない。
あたしはあたしの過去を捨てた。
父と母は事故で死んだ。
天涯孤独の身で。
懸命に生きている少女。
あたしはあの人とこれからの未来に乾杯するんだ。
じゃあ、あたしは何者なのだろう。
あたしの生まれた記憶を否定して、未来を肯定できるのだろうか。
あたしは誰なんだろうか。
あの人の乾いた声があたしに告げる。
「うちの会社の若手が事故にあった。」と。
「危険な状態で、意識もない。」と。
「でも、出張で今から空港に向かう。」と。
「もし何かあったら、俺の代わりに頼む。」と。
意味が分からなくて。
言葉が理解できなくて。
あたしは情報を集めて、整理した。
最近は中身のない表面的な情報は簡単に手に入るから、それほど苦労しなかった。
交通事故にあったのは拓也。
あたしの過去を知る男。
交通事故があったのは河川敷。
そうあたしの故郷。
どうして、あの河川敷で?
今、死にかけているのは拓也。
だから、あたしがあの人の代わりに拓也に会いにいく。
捨てたはずの過去がいつの間にかそこにあった。
あたしは過去を硬く、堅く、固く、頑なにがんじがらめにした宝石箱の中に綺麗に折り畳んであった。
もちろん防腐処理済み。
失うことも、腐ることもなく、あたしの過去は眠っている。
宝石箱の鍵は拓也。
死にかけている拓也。
だから、あたしは過去を捨てたんだって。
でも、あたしはあの人の代わりに会いにいかなくては。
あの人はやっぱり仕事。
あたしはやっぱり喪服。
あの人の代わりに拓也に焼香する。
拓也は写真の中で笑っていた。
あたしは写真の前で泣きかけた。
でも、あたしが涙を流すことは不自然なので泣くのを我慢した。
問題は懐かしい顔に会ったか、ということだ。
あたしがサリーで。
夜逃げしたサリーで。
おもしろおかしく噂されたサリーで。
そんな過去を知る者に会ったのか。
視界を通る顔、顔、顔。
記憶に流れる顔、顔、顔。
多分、知ってる顔かもしれない。
いや、他人の空似だ。
曖昧で、あやふやな記憶に気が楽になった。
懐かしい再会など過去を捨てたあたしには必要ないのだから。
だから、早くこの場を去ろう。
もう一度、振り返り、拓也に『さよなら』と声に出さずに言う。
拓也の遺影は笑っていた。
でも、どうして拓也はあの河川敷に?
たった一つの疑問が解けないまま、あたしはその場を去ろうとした。
でも、そこには拓也のおばさんがいた。
曖昧でも、あやふやでもない、確実な記憶だった。
時間が数秒止まった。
おばさんも数秒止まっていた。
あたしに気付いた。
きっと気付いた。
あたしはサリーで。
月夜に夜逃げしたサリーで。
おもしろおかしく噂されたサリーで。
全てが終わった。
あたしの未来も、寿退社というゴールも。
言葉が出ない。
『本当にいい息子さんでした。』
違う。
そんな悔やみの言葉はいらない。
あたしは固まった。
フリーズするのは簡単だ。
処理のできない感情を抱けばいい。
その感情にひもづいた言葉が見つからないのだから。
あたしは後手を踏んだ。
蛇に睨まれた蛙みたいに動けない。
目をつむり、次の一手を待った。
きっとおばさんが何かを言うはず。
「久しぶり、元気だった?」
簡単な言葉だが、あたしの未来を簡単に壊せる破壊力を持っている。
言葉を出せないまま、あたしは身構えた。
でも、数秒過ぎても、何も聞こえない。
1分過ぎても、5分過ぎても、何も聞こえない。
恐る恐るつむっていた目を開けた。
暗闇に日差しが差し込み、青草の匂いがした。
そこは河川敷で。
そこには拓也がいた。
目の前で拓也は笑う。
遺影の拓也よりいい笑顔だった。
拓也はあたしの手を握る。
冷たかった。
まるで死神みたいだ。
確かに拓也は死んだのだから。
「サリー、遅くなったけど。」
四つ葉のクローバーが風に漂い、目の前に揺れていた。
そして、拓也が消える。
コンピューターグラフィックスみたいに。
鮮やかな色の粒子に還元される。
拓也であった存在。
あたしの前で揺れる四つ葉のクローバー。
理解しがたい世界にあたしがいる。
でも、あの日に望んだ、あり得ない希望がそこに漂っていた。
あたしは手を伸ばす。
ただ幸せになりたかったから。
風が擦り抜けた。
体を優しく包むように。
心に開いた隙間を埋めるように。
なんとなくだけど、心が晴れた。
あたしは過去を捨てた。
父も母もいない。
天涯孤独の身で。
あの人と結婚する。
あたしは過去を捨てたけれど、過去を忘れない。
勝手な言い草で。
自己満足で自己完結で。
それでも、構わない。
あたしは過去を宝石箱にしまい込む。
宝石箱の鍵は拓也。
鍵はもう存在しないから。
朽ちることもなく。
滅びることもなく。
深海に漂うシーラカンスみたいで。
でも、決して忘れないから。
目の前の景色が戻る。
見慣れたリアル。
おばさんは気付かずにあたしを擦り抜けた。
あたしもそのまま擦り抜けた。
後ろに誰か、いや、拓也がいる気がした。
死神みたいに背中を見ている気がした。
【死神と蝉】
サリーの脳みそに残った電気信号を元に再生された映像。
サリーの背中を眺めて、わたしは納得していた。
が、わたしは死神学の戒律を破ったのだ。
『死神は生きる者に干渉し、生きる希望を与えてはいけない。』
戒律を破ったことに後悔していない。
戒律を破ったことの罰を受ける覚悟もあった。
これから死神裁判が始まる。
裁判官役の死神。
検察官役の死神。
弁護人役の死神。
陪審員役の死神。
傍聴人役の死神。
そして、裁かれるべき被告人役の死神のわたしがいる。
まず裁判官役の死神はゴングを鳴らした。
すると、弁護人役の死神と検察官役の死神が交互にパフォーマンスをジャブ!ジャブ!フック!ストレート!とリズミカルに繰り出す。
陪審員役の死神が目の前を行き来するパンチに点数をつける。
傍聴人役の死神達が黄色い歓声をあげる。
被告人役のわたしはただ黙っていた。
まるでB級法廷ドラマを楽しむように。
わたしの罰は確定する。
罰の名前は『蝉』。
死神という名の剥奪され、死神でなくなるのだ。
わたしは蝉として生まれ変わるのだ。
黒くて、冷たい通路。
死神の黒い鎌のように弧を描いて、光へと続いていた。
わたしはその通路を1人で歩いていく。
その先には死神ではないわたしがいる。
永遠の命と命を断つ本能。
死神でなくなるわたしはそれらを失うわけで。
寿命という限られた世界にわたしは身を投じる。
あの光の先に未来のわたしがいる。
冷たくて、柔らかい土が周りを囲んでいた。
体を包むヒヤリとした感覚に意識を取り戻した。
わたしは蝉の幼虫として、目を覚ました。
すでに死神であった頃の記憶はなく、あるのは蝉としての本能だった。
生まれたての幼虫のボディは白くて、柔らかかった。
でも、節と爪のある足は立派な蝉の幼虫をしている。
そして、死神の鎌の名残なのか、こじんまりした鎌がなんとなくかわいらしかった。
わたしは蝉の幼虫として土の中を徘徊する。
時に樹液を吸い、時に外気を浴びにゆっくりと動いた。
月夜を幾つも眺めているうちに白かったボディが褐色に染まり、硬度を増していく。
蝉の幼虫ごときの脳みそでは刻まれる時間の多さに後悔することもない。
春夏秋冬という四季のサイクルを繰り返すことに反抗することもない。
死神としての記憶のないままに蝉としての本能にわたしは従う。
幾つめかの夏に蝉の幼虫達は一斉に土から頭を出した。
それぞれが本能のまま、己の幼虫としての成熟具合を計り、羽化するために地表へと向かう。
本能のままに蝉の幼虫はかわいらしい鎌を木に引っ掛けて、節と爪のある足でボディを支える。
ボディははち切れそうな膨張し、褐色に染まったボディが月夜に浮かぶ。
羽化は蝉の幼虫の本能。
月夜に浮かぶ褐色のボディはゆっくりと確かな足取りで木を上っていった。
遠くから聞こえるのは東京音頭。
近くから聞こえるのは夏風の囁き。
蝉の幼虫の背中に鋭い亀裂が入る。
亀裂から覗くのは真珠色の生まれたての成虫体。
羽化が始まった。
東京音頭をバックに。
夏風の囁きをバックに。
小さな蝉の儀式が始まる。
緩やかに夜が流れる。
亀裂が徐々に広がり、真珠色の成虫体が全身像を現した。
成虫体が残した脱け殻はかわいらしい鎌と節と爪のある足で脱け殻本体と脱け殻にしがみつく成虫体本体を支えている。
月夜に浮かぶ、真っ白な成虫体は美しかった。
美しい成虫体は本能のままに羽化を続けた。
クシャクシャにたたまれた羽に体液を送り、風船のように脹らまし、夏風で乾かしていく。
幾つも繰り返した春夏秋冬はこの日を迎えるためのものなのだ。
月が沈む頃、蝉の幼虫は琥珀色の脱け殻を残して。
日が昇る頃、蝉の成虫体は夏らしい鳴き声が夏風に乗せる。
夏がやってきた。
蝉の成虫体は幼虫のように気が長くない。
たった7日間の命のみ許されるわけで。
朝から晩まで、日が暮れるまでジージーと鳴きわめいた。
それは蝉の本能。
鳴けば鳴くほど、寿命が削られるような喪失感を感じた。
たとえ寿命が削られるとしても、鳴くのは止められない。
それが蝉の本能。
樹液を吸うのも蝉の本能。
空を羽ばたくのも蝉の本能。
何よりジージーとうるさく鳴くのがわたしは好きだった。
残りわずかの寿命であることも知らず、わたしは鳴いていた。
だが、何げにとまった木の枝で動けなくなった。
ジージーとうるさく鳴くこともできず、網で押さえつけられた。
小学校低学年の子供が虫取りに燃えるのは本能。
帽子に半袖、半ズボンで街を走るのも本能。
わたしをつかんで、子供は言うはずだった。
「とったどぉ~。」
だが、そんな言葉は聞こえなかった。
それどころか網に絡みつくわたしを優しくほどいて、空に放つ。
わたしはジージーとうるさく鳴いて。
わたしは広い空へと羽根を広げた。
高い空。
そよぐ風。
子供の声が微かに聞こえた。
「四つ葉のクローバーの発生率とコリドラスのアルビノの出現率はどっちが高いのかな?」
子供が語るセリフではない。
そして、蝉レベルの小さな脳みそのわずかな脳細胞はそのセリフに似た電気信号を記憶していた。
ただの蝉なので、死神ではないのだから、脳細胞に残された電気信号を再生できないのだが。
子供はすでに小さな点となり、街を走り抜ける。
わたしの眼には小さな点となった小学生低学年の子供がいつまでも映っていた。
蝉は本能のまま。
時に樹液を吸い。
時に高い空にはためき。
時にジージーと鳴きわめく。
そして、力尽き、再び土へと帰る。
わたしは蝉だ。
なあに怖がることはない。
ただジージーとうるさく鳴くわけだが。
まあ気にしないでくれ。
ただジージーとうるさく鳴くのが好きなんだ。
そのうち、力尽きるから。
そのうち、土に帰るから。
だからジージーと鳴かしておくれ。
【おしまい】