とりかえっこ
あれから一週間過ぎた。ちょうど一週間過ぎたのだ。心が弾んでいる。サトシは会社帰りの電車にゆられながら、一人笑いをこらえていた。
仕事を終えて、家に帰るのをこんなにワクワクするのは何年振りだろう。思い出すこともできないくらい新鮮な気持ちが湧いてくる。
いつもなら憂鬱な気持ちで電車にゆられていた。
家に帰ったところで妻と会話をするわけでもない。家庭内別居みたいな状態が何年も続いている。
恋愛期間の熱い感情はすでに失せて、今、流行りの熟年離婚間近という感じなのだ。かといって、離婚を切り出す勇気など持ち合わせていない二人だから、困ったもので、ズルズルと時間が経過するだけだった。
サトシは仕事が終われば、家路に急ぎ、妻は愛情のカケラもなく、ご飯、味噌汁、オカズにサラダと定食屋のように作って待っている。
長い間、繰り返された作り事みたいな暮らしが死ぬまで続くのだ。
そう考えては満員電車に揺られるまま、家路に向かうしかない無力感が途方もなく広がっていた。
その日は星空が広がる夜だった。
ふと流れ落ちる星に願いをかけたくなる夜だった。
「リフレッシュしたい。」
サトシは願いをつぶやく。
駅のホームは静かで疲労感に溢れていた。
そして、奴が現れる。
サトシと同じ顔をした奴が向かいのホームの椅子でにやついていた。まるで鏡を見ているような感覚だ。右手を上げれば、向かいの椅子の奴が左手を上げる。鼻の頭をかけば、向かいの奴も鼻の頭をかく。だが、奴は鏡ではなかった。
「お前が呼んだんだよ。」
そう呟いて、にやついていた。
まるで双子のように並ぶサトシと奴、ドッペルゲンガーに出会う時、そいつは死ぬとか、この世界には三人のドッペルゲンガーがいるとか、巷の都市伝説が頭を過ぎる。
奴はサトシと同じ声で言った。
この世界には鏡に映る世界のように幾つものパラレルワールドがある。だが、それが殆ど交わることはない。誰もがその世界の1本の線の上を歩いていて、稀に線が鏡に映る世界に繋がることがあるらしい。それが今だ。
奴は鏡の向こうの世界で生活をしている。同じ姿で、同じ声で生活をしているのだ。
奴はこう言った。
「妻を交換しないか?」
とても簡単に言ったのだ。妻の写真を見せてもらうとサトシの妻と同じ顔をしている。サトシと目の前にいる確信犯的なドッペルゲンガーと同じように。
夢か?
幻か?
妄想か?
サトシは同じ顔をした奴と契約を交わす。
印鑑証明もいらない。
住民票もいらない。
必要なのは真っ黒な布でできた誓約書に血で名前を書くだけ。
まるで悪魔との契約みたいだ。
いい大人が夢を見た。働き盛りのいい大人が有り得ない夢を見た。あれから一週間が過ぎて、約束の期日は今日だった。朝は何事もなく、普通に始まり、会話のないまま、仕事へ出掛けた。妻はいつもと変わらない。家庭内別居はいつもと変わらない。だが、サトシはあの夢の制約書に心を踊らせていた。
そんなことを考えながら、駅で降りると、向かいのホームに見慣れた顔が並んでいた。
奴だ。
サトシは鏡に映った自分の姿を見ている気分だった。
ニヤつく顔、奴の隣には妻の姿があった。
妻が屈託なく笑い、奴の肩にしなだれかかる。
あんな妻を見るのは何年ぶりだろうか。記憶のカケラを思い出せないまま、電車がホームの間に走り込んでくる。一瞬、視界が遮断されて、奴と妻の姿は消えてしまった。
取り残されたサトシはいつもの駅のホームにいる。有り得ない契約が遂行されたのだ。
サトシは妻の笑顔に後ろめたさと羨ましさを感じながら、家路に向かう。家路に向かう間、少し夢を見た。妻と談笑しながら、食卓を囲う夢だ。
奴と妻のようにサトシは明るい家庭を取り戻せるのだろうか。期待と不安を抱えたまま、家に着いた。
いつものように鍵を開けて、いつもと違って、声を上げた。
「ただいま。」
無音…。
返事のない家は前よりも冷たく感じる。
何故だ?
俺は奴のようにはなれないのか?
同じ顔を、同じ人間であるはずなのに。
期待より不安が肥大化していく。このまま外へ逃げ出したい気分だった。
奴の妻は?
不安よりも好奇心が上回り、衝動は物音しない家の中へと向かう。
そこには妻がいた。
奴の妻なのか?
俺の妻なのか?
区別がつかない。
「あら、お帰りなさい。」
自然に流れる言葉は懐かしく、暖かい。
「ああ、ただいま。」
悪夢ではない。イヤな妄想は消え去り、サトシは安堵の末、ソファーに崩れるように座り込む。
「どうしたの?疲れているわね。」
優しい声と仕草、サトシはネクタイを緩めながら、タバコに火を点ける。白く濁った煙の向こうでは妻が鼻歌で夕飯の準備をしていた。そして、机に散らばった書類の束を見た。
○×金融
□△金融
と、明らかに怪しげなローン会社の請求書である。
サトシは思う。
欠点のない妻をわざわざ手放すわけがない。
奴の妻と交換したことにより奴の妻の持つ債務もサトシの元にやってきたのだ。
タバコの火がすでにフィルターまで来ていた。押し消したタバコが鈍く閃光する。奴の妻が邪魔クサイとばかりに請求書の山を押しのけて、笑顔で温かい夕飯を並べる。
「これもありか。」
サトシは呟く。
「なに?」
聞き直す奴の妻、いや、俺の妻に笑顔だけを向けた。
明日から金策に走り回ろう。妻が笑っていてくれれば、頑張れるだろうから。
【了】