渡辺金一郎の造り上げた世界【改訂版】
夏の日差しに汗が滴り落ちる。そう、滴り落ちるのだ。この汗は。体中にある汗腺から。じわりじわりではない。そんな表現が適切だった。
夏は暑いのが当たり前だ。寒い夏があるか。古き時代を知る人はそう云って、干からびていく。
温暖化、温暖化と云われて、時間が過ぎて、暑い夏が毎年のようにやってくる。いや、暑い夏ではない。熱い夏だ。クーラーが24時間フル稼働しても、熱い夏が容赦なく加速していく。
夏が暑いのは当たり前だ。そう云う古き時代を知る人の干からびた死体が毎日のように発見される。発見するのは郵便ポストに溜まった新聞の束を心配した新聞配達のアルバイトじゃない。ネットショッピングの注文履歴でデータ集計を取るパートタイマーのおばちゃんでもない。国民の場所を管理するGPS機能の電波が途切れることで干からびた死体が発見されるのだ。
「国民の義務は勤労、納税、子供に教育を受けさせることであり、国民の権利は生存権、参政権、教育を受ける権利である。義務を果たすので国民であり、義務を果たすから国民の権利を得る。義務を果たさない人間は非国民であり、国民の持つ、あらゆる権利を得るべきではない。私はそう考える。」
我が国の内閣総理大臣である渡辺金一郎は国会議事堂で演説を始めた。
「そして、国民の義務に生体情報の提供を新たに追加することを提案しよう。生体情報を国営生体情報バンクに提供することで今まで通り、国民の権利は守られる。生体情報は国家機密レベルの体制で保管を約束しよう。そして、その生体情報は国民の義務である納税にも活用する。生体情報に基づいた国民総背番号制度を施行し、そのシステムにより国民の資産を管理し、脱税を許さない税金徴収システムを確立する。国の財源を確保し、透明性を持った、極めて健康的な経済を確立するためだ。」
国会議事堂は乾いた空気が充満していた。この総理は何を言っているのか。突然、始まった渡辺金一郎の演説を挑発的な欠伸で国会議員達は迎え撃つ。渡辺金一郎は壇上で拳を握りしめ、時折、ミネラルウォーターで口を湿らし、また、言葉を発する。誰にも口を挟ませない。強い決意に壇上が震える。
「また、生体情報バンクに登録された生体情報により国民の管理をシステム化する。例えば、犯罪が起きた時には、生体情報と犯罪の証拠との照合により早期の犯罪検挙を実現する。生体情報を登録すると同時に体内電気によって、その個体が生きている限り稼働するマイクロチップを埋め込ませてもらう。マイクロチップはGPS機能を有し、犯罪が起こった時に犯罪の証拠に適合した生体情報を有する個体の位置情報を元に警察が事件解決に尽力する。犯罪検挙率は格段に上がるはずだ。犯罪検挙率を上げること自体が犯罪抑止策となり、きっと我が国は平和を取り戻すだろう。」
正義と平和。振りかざすのは簡単だ。これまでの政治家も同じようにそんな言葉を発した。だが、言葉を裏付ける政策をはっきりと口にする政治家などいなかった。
「このマイクロチップはGPS機能以外にmemories機能を有する。memories機能とは生体情報が発した言葉を記録する機能だ。memoriesに記録される言葉は記録達と呼ばれて、国営生体情報バンクに保管される。生体情報に紐付いた記録達として国家機密レベルの体制で保管される。その記録達を犯罪の検挙に伴って起こされる裁判の証拠として提出することを認めよう。これで極めて精度の低い証拠が作り出す冤罪というものを排除できよう。」
渡辺の演説はあらゆるメディアで垂れ流される。だから、あらゆる世代が目にし、耳にすることができた。
「プライバシーの侵害だとか、人権侵害だとか、喚く輩が数多く出るだろう。それに便乗して、私を失墜させようとする輩もおろう。それでは駄目なのだ。経済大国として名を馳せた我が国の経済は低迷の一途を辿っている。経済の低迷が経済的な貧困を生み出し、経済的な貧困は精神的な貧困を引き起こす。負の連鎖が途切れず、社会生活すら不安定になっていく。朝も、昼も、夜も安心して街を歩くことができない。いつ引ったくりに合うのか。いつ犯罪行為に巻き込まれるのか。普通に生まれて、普通に学校に行き、普通に働く。普通に生きていくだけなのに、犯罪行為に巻き込まれる。何の落ち度もないのに、犯罪行為に巻き込まれて、命を失う。犯罪行為に巻き込まれたら、運が悪かった。それで終わりなのだ。死人に口なし。裁判は加害者の言葉で進む。そこには被害者の言葉が存在しない。被害者の叫びに耳を傾けるため、加害者の嘘を暴くためにmemories機能は存在を許されるのだ。」
渡辺の言葉が波打って、拡散する。誰かの口を、耳を、手を介して、路地裏で眠る浮浪者にまで届く。
「経済的な貧困が心の豊かさを奪っていくから、全てが間違って見えるし、全てが正しく受け入れられない。誰にも心が許せなくなる。生体情報の提供という義務が追加されれば、脱税などの犯罪行為を明確にし、確実な税金徴収による国の借金を減らすことができる。寄付という名目の政治献金も、企業の資金の流れも透明化されて、経済の健全化がなされる。そして、マイクロチップのGPS機能によりあらゆる犯罪の早期検挙と100%の検挙率が当たり前になる。犯罪行為は成功しない。だから、真っ直ぐに生きよう。そうしたメッセージを全国民に伝えよう。これが最も有効な犯罪抑止策として稼働するのだ。」
これを希望と言うのだろうか。波打って、拡散する言葉が跳ね返って、人波を造る。寄せては返す波のように人波は徐々に国会議事堂へと近づいていた。
「memories機能で残された記録達は亡くなられた被害者の方の言葉を教えてくれる。どんなに苦しくて。どんなに辛くて。その命を奪われたのかを。加害者がどんなに弁解しようと、記録達が正義をきっと証明しよう。我が国のあらゆる犯罪行為を駆逐し、この手に正義を取り戻すため、生体情報の提供を国民の義務に追加するのだ。」
国会議事堂の空気が急速に変わる。渡辺の言葉に動かされた国民が国会議事堂に押し寄せてくる。国会議員達は秘書からそんな連絡を受けて、慌てふためく。なんとかならんのか。秘書に怒鳴る国会議員達はもはや何も考えられない、錆び付いた玩具でしかない。
「もし、この生体情報の提供の義務がこの国の正義につながらなかったら。例えば、犯罪行為が0にならないのなら、私は喜んで、総理大臣を辞任しよう。政界からも一切手を引く。もう、二度と政治家として国民の前で演説することもない。これが私のケジメである。私は約束する。生体情報の提供による国民管理システムが今、必要なのだ。この国の正義を取り戻すために。」
国会議事堂の周りを囲った国民が民意であった。老若男女。世代を超えて、国民は民意を振りかざす。
「私は国民に問う。この国で、こんな国で満足なのか。もっと、もっと、いい国にしたくないのか。この国の正義を取り戻したくないのか。この国を救いたくないのか。私は約束しよう。生体情報の提供により、この国を変えることを。私は国民に誓おう。この掲げた手に正義と平和を手に入れることを。」
歓声が波打った。在る者は吠える。在る者は跳ねる。在る者は服を脱ぐ。汗臭いが、心地よい熱気が国会議事堂に充満している。渡辺金一郎という政治家は雄弁に演説を続け、全てを支配していた。もう誰も止められない。民意という津波がこの国を覆い尽くし、洗い流してしまう。生体情報の提供が国民の義務として確約された日の出来事である。
20XX年に生体情報の登録とその生体情報に基づいた、あらゆるシステムが稼働し、国家による国民管理社会が始まったのである。
報道記者である俺は汗を拭う。年がら年中、熱いままで、汗を拭うハンカチを絞って、小さな水たまりを造る。渡辺金一郎という政治家は生体情報の提供を国民の義務に組み込むことに成功した。その頃の俺はまだ小学生で、渡辺金一郎の演説の意味も理解していなかった。だが、父が熱狂的に拳を振り上げて、国会議事堂へと走っていったから、この人は凄い人だと単純に受け入れた。
父と母と俺、3人家族だった。正規職員になれない父とパートで支える母。俺の家は貧乏だった。父は生真面目に働いた。それでも、給料がたいして増えるわけではない。母も同じだ。靴下に穴が空けば、糸で縫う。穴が何度空いても、それを繰り返した。
父は渡辺金一郎の演説に走り出した。渡辺金一郎の演説に夢を見たのだ。少しでも暮らしがよくなるのではないか。正直に生きて、損をしないのではないか。そんな父は生体情報の登録の義務化賛成の署名に喜んで書き込み、友人知人に署名するようお願いに回る。
その甲斐あってか、渡辺金一郎の演説の2年後に正式に生体情報の提供が義務化されて、父と母と一緒に保健所で生体情報の登録とマイクロチップの埋め込みをする。痛みはたいしてなかったが、異物感を我慢していたのを覚えている。
国家による国民管理社会が動き出すと世界が変わった。突然、友達が突然、呼び出される。万引きをしたとか。いじめをしたとか。今まではスルーされてきたことが見逃されなくなる。
大人の世界と同じだ。毎日、ニュースに流れるのは偉い人達の謝罪と弁解の言葉。今までスルーされてきたのだろう。偉い人達がニュースを騒がすたびに父と母は喜んでいた。それで生活がよくなるわけじゃない。給料が上がるわけじゃない。だが、父と母は喜んでいた。
正直に生きて、損をしなくなったから。それが父と母が喜ぶ理由だ。父と母は正直な人間だった。だから、周りがズルをしても、ズルをしない。たとえ損をすることになっても、ズルをしないことを誇りとしていたように見える。でも、そんな立派な人間ではない。ズルをして、バレることに怯えていただけ。父も母も臆病者だったのだ。結局、人間は良心など脆くて、弱いのだ。
臆病者の父と母はズルをできないから、ズルをして、うまく世の中を渡っていく輩に内心、嫉妬し、うらやましく思っていた。でも、それはズルすることを迎合することになる。だから、そんな感情を抑え込む。マイナスよりもプラスを。父と母は正直に生きることを誇りにすることで自分自身を抑え込んでいたのだ。
感情を抑え込むことで、自分で解決できないフラストレーションが膨れ上がる。きっと父や母だけじゃない。正直に生きることを誇りにしている人間がいる。ズルをすることより、ズルがバレることに怯える人間がいる。誰もが、この国の非常識にフラストレーションを感じて止まなかったのだ。
それが渡辺金一郎の演説で揺り動かされ、膨れ上がったフラストレーションが破裂する。人波は津波となり、この国を洗い流した。
生体情報の義務化により経済の健全化が断行され、結果、深い闇に澱むように沈んでいた、巨大な資金がゆっくりと流れ始める。ゆっくりとだが、目的使途の正しい経路が透明化されて、健全な経済システムを取り戻しつつある。
父と母の給料が上がったわけではない。相変わらず貧乏で、生きるのに苦労していた。でも、父と母は汗水を流して、正直に生きていた。ニュースを騒がすのは悪いことをした人。悪いことをすれば、きちんと法の下に裁かれる。だから、正直に生きよう。父と母は報われたのだ。
父や母だけじゃない。正直に生きることを誇りにしている人間も、ズルをすることより、ズルがバレることに怯える人間も報われる。渡辺金一郎のおかげで救われた人間が数多くいるのだ。
父と母ももうこの世にはいない。正直に生きて、穏やかな晩年を送り、安らかに死んでいった。穏やかな晩年は渡辺金一郎のおかげだと思う。この国が正義と平和を取り戻し、父や母は生き甲斐を得たのだ。だから、余計に俺は渡辺金一郎という政治家が記憶に残っているのだろう。
渡辺金一郎の造り上げた生体情報に基づいた国家による国民管理社会はとうとう犯罪検挙率100%を実践したのだ。犯罪をすれば、必ず検挙される。これは確実に犯罪抑止策として効果を上げていた。さらに脱税の摘発も確実に行い、摘発された者のリストには政治家の名前も並ぶ。個人だけではない。企業も同様だ。正直をモットーに営業文句を唄っていた企業でさえ、このシステムに引っかかり、ニュース番組を賑わせた。
マイクロチップのGPS機能により誘拐された人質、家出人や行方不明者などもすぐに見つかる。孤独死をする独居老人も埋め込まれたマイクロチップの機能停止により、その電源が、その命が止まってしまったことが分かるのだから、放置されて、白骨化することはない。
マイクロチップのmemories機能の記憶達があらゆる事件で活用される。特に密室で行われた犯罪行為を証明する証拠として裁判に提出される。裁判は正しく真実を追求し、正義の下に裁きが言い渡される。
渡辺金一郎の云った通り、我が国の正義と平和は確実に向上した。
国家財源の確保と経済の健全化。
犯罪検挙率100%に基づいた犯罪抑止策。
記憶達による真実の追求と正義の下の裁き。
渡辺金一郎が正義と平和を取り戻すために行ったことである。どれも素晴らしい成果を上げた。だが、渡辺金一郎は生体情報の提供の義務化から8年後、政界から姿を消した。
「残念だ。」
渡辺金一郎はそんな言葉を残して、総理大臣を辞任し、政界から退いた。その潔さに国民は拍手を送る。また渡辺金一郎の支持層が政界復帰のデモ行進を起こしたりもした。だが、渡辺金一郎は姿を現すことなく、デモ行進も尻すぼみに消えてしまう。
今では学校の教科書の国民の義務と権利の項目に渡辺金一郎総理大臣が生体情報の提供の義務化が追加されたと載っているぐらいである。
総理大臣の継続が望まれる中、渡辺金一郎が政界から退いた理由は犯罪行為が0にならなかったとなっている。
渡辺金一郎は何を残念と言ったのだろうか。政治家を辞めることをだろうか。いや、きっと違う。
汗を拭ったハンカチをさらに絞る。さっきまであった水たまりはすでに蒸発している。熱い夏にいくら呻いても、涼しくなることはない。
父や母と同じく、渡辺金一郎ももうこの世界にはいない。政治家を辞めて以降、全くもって存在を消してしまった。元内閣総理大臣であれば、死亡のニュースだって流れないわけない。が、政治家を辞めてからの一切の足跡を消してしまった。
犯罪の発生率は検挙率に伴い、確実に減少した。だが、ある一定の数字で減少は止まってしまう。大小関係なく、犯罪は生まれている。脱税も、殺人事件も消えることはなかった。マイクロチップのmemoryies機能による記録達が真実を語っても、平気で人間は嘘をつく。そんなことは記憶にない。言っていない。真実を認めない輩には必ず罰がくだる。だが、犯罪はなくならない。犯罪件数が0になることはないのだ。
報道記者として、今日も殺人事件の裁判を傍聴する。記憶にない。そんなこと言っていない。きっと加害者はそう繰り返すだろう。生体情報に基づいた国家による国民管理社会で、あらゆる個人情報が記録されている。memories機能が、記録達が真実を明らかにしても、きっと嘘を平気でつくのだろう。
俺は生体情報を提供し、国民の権利を得た。同時に国家による国民管理社会に組み込まれて、報道記者として生きている。今もこれからも変わらない。何かしらの情報を、この目で見たものを、この耳で聴いたものを記事にし、発信し、真実を報道する。
「何故、人は犯罪を起こし、嘘をつき続けるのか。残念だ。」
俺は呟いた。渡辺金一郎はこう云いたかったのではないか。渡辺金一郎は本当に国民を信じたかったのだろう。この世界は渡辺金一郎が造り上げた世界だ。が、残念なことに渡辺金一郎が望んだ世界ではないのだ。
【了】