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うつぼ作品集  作者: utu-bo
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古ぼけた籐のベビーカーを押す女


◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇


 カラリカラリ。タイヤが回る乾いた音。耳にこびりついて、離れない。そう、僕はこの音を知っている。あれは十年以上前のことだ。記憶の螺旋をゆっくりと遡る。鮮やかな景色がセピア色に変化し、その音の記憶に僕は辿り着いた。



◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇



 僕は後ろを振り返った。風に揺れる緑が空を覆って、その隙間から太陽光線が差し込む。自転車のペダルから足を離すと、自転車が僕の意思を汲んで、緩やかに止まる。後ろに伸びるのは六十度の勾配。そこそこに体を痛めつけてくれる程度だと思う。自転車を生業にしているわけではないから丁度いい。額に汗が流れる。首を伝い、背中を伝い、上から下へと流れていく。体は風を纏って、汗を乾かすことで熱を発散する。これが人間の持つ体温調節機能だ。極めて効率的な仕組みだと思う。

 自転車をガードレールに傾けて、スポーツドリンクで喉を潤す。思えば、遠くに来たもんだという程でもないが、気の向くままに遠くに来てしまった。もちろん初めて来た場所で、住所もはっきり分からない。まあ、なんとかなるだろう。若気の至りで強引に幕を引いて、納得させる。


 カラリカラリ。


 風が吹き抜ける音。葉や枝が揺れる音。太陽光線が降り注ぐ音。地面の水分が奪われる音。それは自然が聞かせてくれる音ではなかった。


 カラリカラリ。


 古ぼけた籐の籠のベビーカーのタイヤの音だった。六十度の勾配をゆっくりと登ってくる。僕は魅入られたようにベビーカーを見入る。カラリカラリという音が耳の奥の感覚器から脳みそに侵食してくる。

 古ぼけた籐の籠のベビーカーを押すのは同じく古ぼけたレース調の白いワンピースと顔を覆い隠すほど大きい面積を持つ白い麦藁帽子を纏った女だった。

 六十度の勾配のせいか、歩様がゆっくりで、地面を咬むように登ってくる。反面、ベビーカーのタイヤの回る音が乾きすぎて、軽く感じられた。ゴクリ。僕は唾を飲んだ。少しばかりの邪な感情を覚える。物音は自然が聞かせてくれる音とタイヤの乾いた音だけ。僕の内から鼓動が激しく打ち鳴らし始める。唾を飲む音と鼓動を打ち鳴らす音が聞こえないか、心配になる。そう、ここには僕とベビーカーを押す女しかいないのだ。遠目だが、細身で、スレンダーなシルエットに映る。麦藁帽子から覗くのは風に揺れる黒髪。非常にエロティックだ。下腹部が熱くなる。欲望と欲棒。邪な感情が加速し、妄想が始まる。スポーツドリンクを口に運び、欲望も、妄想も洗い流す。そんなことなどあるはずもない。そして、タイヤの乾いた音が止まり、ベビーカーが目の前で留まる。


「暑いですね。」


 乾いた砂漠でようやく出逢ったオアシスのように潤った声が耳の奥の感覚器に絡みつく。


「ええ。」


 戸惑いながら、何の細工もない返事をする。ベビーカーの中は涼しげな青草のデザインされたタオルケットで覆われている。死んだように熟睡している。もし、この目の前の女を押し倒して、あられもない行為に及んでも、タオルケットでくるまれ、眠り続けているだろう。邪な感情は治まる術を知らない。いや、治まる術を知らないはずがない。妄想の実行。そのボタンを押すだけで邪な感情は治まるはず。僕は下から舐めるように女を観る。

 古ぼけたレース調のワンピースが太陽光線でほんのり透ける。スレンダーながらも、胸の膨らみも、お尻の丸みも観て取れる。ヒールの低いサンダルを履いているが、足首がキュッと締まっている。風に薫る女が発散する匂いを吸い込んで、噛み砕く。このまま、手を伸ばして、押し倒してしまおう。


「あたしの赤ちゃん、かわいいですよ。」


 唐突に女は云う。


「見ますか?」


 邪な感情が見透かされたのか。女は赤ちゃんを盾に攻め込んできた。僕は未婚である。まだ結婚する気もない。ましてや、子供のことなんて。そんな想像力などあるはずもない。赤ちゃんは盾。邪な感情が矛。矛が盾を貫いた。僕はこの名も知らぬ女を押し倒した。


 風が吹き抜ける音。葉や枝が揺れる音。太陽光線が降り注ぐ音。地面の水分が奪われる音。僕と女が絡み合う音。音が混じり合い、大自然のオーケストラが完成した。


 女は騒ぐことも、抗うことも、泣くこともなかった。むしろ、僕の邪な感情を喜んで受け入れる。なまめかしく、エロティックに身をよじり、僕に絡みつく。時間という概念が消失した。本能のままに踊り続ける太古の民族のように僕と女は混じり合う。何度も、何度も求め合い、果てていく。不思議なことだが、その最中にベビーカーの赤ちゃんが女を求めることはなかった。

 僕と女は服や下着に付いた草や土を落とす。何事もなかったように下着をはく女。僕の邪な感情は妄想の実行によって満たされた。僕と女は会話もなく、元通りに服を着た。


「あたしの赤ちゃん、かわいいですよ。」


 女がワンピースの裾を伸ばして、云う。


「見ますか?」


 さっきも同じことを云っていた。邪な感情を満たされた僕に断る理由はない。何事もなかったかのようにベビーカーに顔を向けた。女がゆっくりとタオルケットをまくって、赤ちゃんが現れる。


 干からびて。


 黒ずんで。


 固まって。


 頭部は骸骨にしか見えない。


 目の部分から深い闇が僕を観ていた。


 数秒だろうか。数分だろうか。僕は動けなかった。顔の筋肉が引きつって、ミイラ化した赤ちゃんから目を離せず、腰を地面に落とした。女が何を云ってるのか。僕が何を観ているのか。分からないまま、女が近寄ってくる。さっきまでのなまめかしさも、エロティックさも感じない。純然たる恐怖が僕を硬直させていた。


「あたしの赤ちゃん、かわいいでしょう?」


 女は笑う。目が血走って、口角の筋肉をひきつらせて。


「ねえ、あたしの赤ちゃん、かわいいでしょう?」


 僕はやっとの思いで顎を縦に振る。


「ケッケッケッケッケッケ…。」


 血走った目を見開いて、笑い続ける女。僕は女を弾き飛ばして、自転車へと走る。何度も転んだ。擦りむいても、痛くても、僕は走る。ガードレールに傾けた自転車に跨がり、ペダルを踏み続ける。六十度の勾配を抜けると下り坂があった。車のクラクションが聞こえる。あぶねえぞ。ドライバーの怒声も聞こえる。それでも、僕はペダルを踏み続ける。ベビーカーの女が追っかけてくる気がして、下り坂を一気に駆け降りていった。



◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇



 十年以上前の前の若気の至りが過ぎた思い出だ。あれからしばらくベビーカーを見かけるだけで冷や汗が止まらなかった。でも、時間とともに純然たる恐怖が薄れていく。時間の経過が純然たる恐怖に不純物を注入し、濁らせたのだろう。


 カラリカラリ。


 あのベビーカーのタイヤの乾いた音だった。冷や汗があらゆる汗腺から噴き出してくる。喉が渇いて、声が出ない。僕はゆっくりと周りを見渡した。あの古ぼけた籐の籠のベビーカーを、レース調の白いワンピースと麦藁帽子を探した。

 幾つものベビーカーがあった。でも、あのベビーカーも、あの女もいなかった。そうだ。いるはずない。ここは産婦人科の病院なのだから、ベビーカーのタイヤの音など当たり前だし、聞き間違いだ。

 あれからすぐにニュースを調べた。でも、あの土地でミイラ化した赤ちゃんのニュースなど見つからなかった。あれは暑さにやられた僕が見た幻か。それとも、精巧に作られたフィギュアで、誰かのいたずらだったのだろうか。それとも。僕は首を横に振る。今から我が子に初めて会いに行くんだ。もう十年以上前のことなどどうでもいい。ちょっと仕事が押して、出産に立ち会うことはできなかったのは残念だったが、つい二時間前に無事、生まれたと妻から写メールを貰った。ワクワクしながら、仕事をようやく終わらせたのだ。だから、早く僕の赤ちゃんに会いに行こう。




◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇



みいつけた。



あたしのかわいい赤ちゃん。



ケッケッケッケッケッケ…。




 病院の自動ドアが開く。幾つかの人に紛れて、古ぼけた籐の籠のベビーカーと女が消えていった。




【了】



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