5,5丁目の先客
君、レントゲンに気になる影があるんだ。
うちみたいな小さい病院じゃなくて、大きい病院で精密検査を受けた方がいいよ。
この手紙を持って、このレントゲンを持って、早く行きなさい。
手遅れになる前に。
彼は手紙とレントゲンを持って、町に放り出された。右も左も分からない町、彼が記憶喪失になったのか。それとも、町が変わってしまったのか。よく分からない。それでも、右も左も分からないとして、彼は行かなくてはならない、そんな使命感から手紙の宛先に書かれた大学病院へ足を向ける。
だが、彼の足は正直だった。行きたくないと道路にしがみついて、歩くことを許さない。彼の意志に反して、靴が道路にしがみついて、同化していく。
どうにも前に進めないから、彼は靴を脱いだ。靴下のまま、2,3歩進んで、再び歩けなくなる。靴と同じく靴下も道路と同化していくのだ。彼を歩かせないようにだ。だから、靴下も脱いだ。
とうとう裸足になった彼は裸足で道路を歩いて、裸足で電車に乗って、裸足で電車に揺られて、何とか大学病院にたどり着いた。
直接、来られても困ります。
もう受付時間が過ぎてしまってますので。
向こうの病院で何と言われたんですか?
ああ、手紙があるんですね。
早く云っていただかないと。
少々お待ちください。
少々お待ちください。
少々。
少々。
少々。
ファーストクラス並みのソファーにもたれ込む彼、ずっと裸足のままだった。足の裏に突き刺さったガラス片が高級感溢れる間接照明の光が乱反射する。
幾つもの顔が行き来した。幾つもの声が行き来した。でも、すぐ忘れていく。何日も放置された気分で、彼はソファーに沈んでいく。1cm沈んだら、受付嬢の顔が見づらくなった。10cm沈んだら、受付嬢のパンツが見えた。ちょっとラッキーだった。
突然、彼を見下ろすように人が現れた。特殊な形状のメスを持った医者とやたら針の太い注射器を持った看護士だ。2人とも悦に入った笑顔を見せていた。
大丈夫ですよ。先生は名医ですから。
大丈夫ですよ。私は名医ですから。
ほら、こんなに勲章がありますから。
ほら、こんなに注射器も用意しましたから。
だから、安心してください。
彼は待ちくたびれた疲労感から動けずにいると、医者の指示のままに看護士が正確に動いて、彼をストレッチャーに乗せる。そして、落下防止の安全バーを立てた。
痛いよと云う間を与えない手際の良さに彼は閉口させられ、拘束された。でも、彼の足の裏に突き刺さったガラス片はそのままで、高級感溢れる間接照明の光を乱反射し、ゆっくりと伝い落ちる血の色で彼のいる世界が染まっていった。
痛い時は云ってくださいね。注射を打ちますから。
苦しい時は云ってくださいね。注射を打ちますから。
えらい時は云ってくださいね。注射を打ちますから。
嬉しい時は云ってくださいね。注射を打ちますから。
泣きたい時は云ってくださいね。注射を打ちますから。
何にしても、注射を打つようだ。無色透明の液体は水にしか見えないけれど、血管を通って、身体に行き渡ると、とても穏やかな気持ちになる。全部、忘れてしまうほどだ。
現実にこの病室に何日も隔離されているが、何日経ったのかは分からない。壁に傷をつけて、過ぎ去った日をサバイバル的に覚えようとしたが、掃除のオバサンが全部、綺麗に修正してしまうから、数えるのも、覚えるのも諦めた。
けれども、考えるのを諦めたわけではない。一体、いつまでここに隔離されているのか。それだけを常に考えていて、考えていたら、感情がより尖っていく。隔離という抑圧された反動から、乱暴な気持ちを抱き、看護士に襲いかかった時もある。
だが、そんなことは全部、失敗に終わった。彼は惨めに抑えつけられて、高圧電流の罰に悲鳴をあげる。そして、注射を打たれて、穏やかな気持ちになる。そんな繰り返しだ。
調子いいようだね。
うん、顔色もいい。
うん、検査結果も順調だ。
それも、これも私が名医だからだね。
そうですわ。先生が名医ですから。
はっはっはっはっはっはっはっはっ。
少し薬を変えましょう。
少しカラフルになりますから。
大丈夫。名医ですから。
はっはっはっはっはっはっはっはっ。
彼は虚ろな目で天井を見た。そして、ゆっくりと視線を窓に移動させる。そこには空があった。綺麗な空だった。
次の日、癒し系のグリーンですわと看護士が薬を見せてくれた。青汁にしか見えない。それを彼は注射器で血管に注入される。皮膚に浮かぶ血管がグリーンに染まって、身体中を癒し系のグリーンが流れていく。
この薬にどんな効果があるのか、説明もないままに次々と薬が変わる。次は柑橘系のオレンジですわと酸味がかった薬を打たれた。魅惑系のパープルですわ。情熱系のレッドですわ。冷徹系のブルーですわ。黒魔術系のブラックですわ。彼の身体中を駆け回るカラフルな薬。でも、決して楽にならない身体。彼は逃げ出すために看護士を殴りつける。白衣の天使が真っ赤に染まって、壁を削るように倒れていく。えっ。そんなに強く殴ってない。筋肉だって落ちて、腕も足もこんなに細いのに。なんで?なんで?なんで?彼はベッドの下の籠にある服を乱暴に掴んで、走って、逃げ出した。
全部怖かった。真っ赤に染まった白衣の天使も、名医を気取る医者も、パンツを見せる受付嬢もみんな怖かった。だから、彼は必死で歩き続けた。
お大事にしてください。
お大事にしてください。
お大事にしてください。
お大事にしてください。
大学病院の外に出るまで、何度も云われた言葉。彼を引き留める声ではない。彼を追い出す声だ。息が苦しい。胸が苦しい。注射を止めたから。もう一度、あの病室に戻れば、楽になるだろうか。穏やかな気持ちになるだろうか。否。病室には真っ赤な血で染まった白衣の天使がいるだけ。きっともう注射も打ってくれない。また最初から始まるんだ。
彼はゆっくりと呼吸をして、身体のリズムを整えていく。整いました。心に浮かぶ言葉。あれは確か1発屋で?あれは誰だっけ?記憶が追いつかない。でも、このままの、検査着の格好ではいけない。店と店の隙間の路地裏で検査着を脱いで、いつも着ていたスーツに腕を通して、ネクタイを巻いた。顔色を除けば、きっとサラリーマンにしか見えない。ああ、駄目か?靴と靴下がない。裸足のサラリーマンなんていないな。1人笑って、地面に転がるシケモクを拾う。1本20円のブルジョアなタバコだから、ハーフサイズのシケモクでも10円か?都合よく転がる100円ライター。運よくガスも残っている。路地裏に座り込んで、シケモクに火を点けた。
何の意味もないが、充実感を得た。ああ、久しぶりだ。彼は内から湧き出る記憶をたどる。彼は愛煙家だった。でも、今は禁煙家だ。どうして?タバコが値上がって、ブルジョアな嗜好品になったから。お小遣い制の彼にはキツい値上げだ。お小遣い制?なんで?家族がいるから。愛くるしい妻と大切な娘。そうだ。彼には家がある。家族がいる。
右も左も分からない町だけど、彼の家があって、家族が待っているんだ。シケモクがスイッチとなって、彼は部分的に記憶を思い出していく。愛くるしい妻と大切な娘とのささやかな幸せ。蘇る記憶が感情を揺り起こす。帰ろう、家に帰ろう。彼は泣きながら、家へと向かった。
おかえりなさい。
早かったのね。
ちょうどご飯できたとこよ。
ああ、パパ、おかえりなさい。
サヤカが今度スキー行こうって。
泊まりだけどいいかな?
サヤカのママも一緒だから。
ねえ、いいでしょう?パパ?
はいはい、ご飯さめちゃうから。
話は後々、早くパパも着替えてきて。
みんなでご飯食べるわよ。
はぁ~い。
右も左も分からない町で、彼は間違いなく我が家にたどり着いた。道順は不思議なほどスムーズで、迷うこともなかった。右も左も分からない町が嘘みたいだった。でも、正確に道順を覚えていたわけではない。むしろ道順など分からなかった。まるで覚えていないのだ。それでも、彼は裸足のままで右右左真ん中左右左と足を進めた。
足の裏のガラス片が足の中に取り込まれて、溶接痕のような傷と隆起を残している。途中、落ちていた右だけの靴を拾って、足に当てる。もう道路と同化することはない。運よく左だけの靴も落ちていたから、柄違いだけど、両足に靴を当てることができた。裸足よりもマシな感じになった彼はさらに足を進めた。
左左右左真ん中左左右と記憶に残された我が家の前で立ち止まる。ああ、我が家だ。ようやく帰ってこれた。病院に何日いたのか、分からない。だから、何日、この我が家を離れていたのか、分からない。彼は緊張で手に汗をかいていた。胸の苦しさも変わらない。愛くるしい妻と大切な娘、とるに足らない会話が頭に流れていく。ああ、スキーとか云ってた。ああ、妻の料理はいつでも温かかった。記憶の中の映像は色褪せることなく、鮮やかで、匂いとか、温もりとかも伝わってくる。
彼はドアノブに手をかけた。冷たい金属質の質感がゆっくりと体温で溶解する。ドアノブが溶解して、生き物のように彼の手を握った。ドアを開けたのは彼ではない。ドアが自ら開いたのだ。そして、彼を我が家の中に引きずり込んだ。
小刻みに空気を揺らすモーターの駆動音がする玄関で、彼は口をパクパクさせる。まるで餌をねだる金魚だ。夏祭りの金魚すくいでおまけに貰えた金魚、小さくて、弱々しい。一夏越えることも難しそうだった。だが、意外に金魚は長生きする。玄関の下駄箱の上で、小さな水槽の中、幾つも夏を越えて、金魚は逞しく生き続けていた。今もモーターの駆動音が響いていて、緑の苔が付着したガラス面に金魚特有の鮮やかな色彩がうっすらと現れて、消えていく。
毎日、餌をあげるのは彼の仕事だった。水槽を綺麗に洗うのは彼の仕事だった。すまないと金魚に云おうとしたが、金魚のように口をパクパクするしかできない。家に入った時もそうだった。愛くるしい妻と大切な娘の名前を呼ぼうとしたが、言葉が出てこなかった。妻の名前も、娘の名前も欠落している。金魚のように口をパクパクするしかなくて。緑の苔の向こう側で金魚が笑っている気がした。同時に愛くるしい妻と大切な娘の記憶の中の映像が薄っぺらな紙に描かれた落書きのように現実感を失っていく。本当にここは我が家だろうか。本当に家族がいたのだろうか。
モーターの駆動音以外は聞こえない。彼が歩くたびに床が軽く軋む。我が家はともかく静かだった。愛くるしい妻も、大切な娘もいない。記憶の中、名前は欠落しているが、その存在を信じたい。
彼は家中を探し回った。寝室にはベッドもなく、子供部屋には勉強机もない。だだっ広いフローリングの床が広がっていて、後ろを振り向くと、彼の足跡だけが浮かんで見える。何年も放置された家で埃が床を覆い隠している。愛くるしい妻と大切な娘の痕跡は皆無だった。だが、彼は現実感のない記憶が間違いとは思えず、床に座り込み、嗚咽を漏らす。
ここは誰の家なんだ。床を思い切り叩くと、埃が舞った。窓から差し込む光で、埃は光の粉のように見える。そして、無意識に追った視線の先に彼はくたびれた週刊誌の束を見つけた。
横領罪にて逮捕。
エリートサラリーマンが何故?
8億5千万円はどこに?
真面目な顔の裏には。
黙秘。黙秘。黙秘。
犯罪者の子供。
犯罪者の家族。
償え。償え。償え。
金とsexとギャンブル。
弄ばれた女。
ストーカーされた美人受付嬢。
実家は沈黙。
インパクトのみを追求した週刊誌の見出しに目を通して、彼は思い出していく。逆再生される映像と都合よく蘇った記憶の映像が螺旋状に絡み合って、合致する。
8億5千万横領エリート会社員逮捕。
そこには冴えない表情の彼が載っていた。
最初は10万から始まった。怪しげな投資会社の営業の話に冗談で投資したら、18万になって返ってきた。彼は通帳の金額を確認する。投資会社の取り分は10%だから、彼の純利益は8万となる。1日、投資しただけで、何故?まともに働くのが馬鹿らしくなる。投資会社の営業に聞くと、それは知らない方がいうとニヤリと笑う。
それ以来、彼は投資会社の営業と頻繁に会って、お金のやり取りをする。投資金額は倍々に増えて、必ずプラス収支で通帳のお金が増えていく。通帳のお金が2000万に達した頃、投資会社の営業は云う。大勝負しませんか。この時の彼の金銭感覚はすでに狂っていた。2000万か?彼が笑うと、投資会社の営業は首を振った。そして、5本の指を開いて、5億です。簡単に云って、ニヤリと笑った。
彼は会社では経理の仕事をしていた。そして、係長という役職もあり、帳簿をいじることは簡単だった。馬鹿げている。間違っている。彼は心がそう叫ぶのを聞いた。会社のお金を横領するなんて。いや、投資会社に投資すれば、倍になって返ってくる。パソコンのキーを叩く音は鳴り止まない。真っ暗なオフィスで彼1人、パソコンのライトで不気味に浮かぶ。
残業ご苦労様です。警備員が敬礼をして去っていく。そして、簡単に帳簿操作は完了した。簡単な作業なのに、手が汗でびっしょりなのを覚えている。
会社から彼の口座に5億移動した。彼の口座から投資会社に5億2000万移動した。そして、9億3600万のお金が彼の口座に戻ってくる。内、5億を会社に戻すから、彼の口座には4億3600万のお金が残る。彼の未来は順風満帆だ。愛くるしい妻にプレゼントを買おう。大切な娘に英才教育をほどこそう。そして、ブルジョアな嗜好品と化したタバコも愛する生活を送ろう。無限に広がる未来に彼は笑う。そして、投資会社の営業からの連絡を待っていた。大勝負ですから、いつもより時間がかかります。5日はみといてください。帳簿操作もバレないように気をつけてください。いいですか。大丈夫ですから。僕を信用してください。彼があまりに手を離さなかったので、投資会社の営業はそう云って、手を振り払って、町へと消えていった。
何事もなく、1日目、2日目も過ぎる。投資会社の営業に電話すると、大丈夫ですから。金額が大きいので、少し時間がかかってすいません。そう云って、電話を切ってしまう。3日目が過ぎて、4日目が過ぎて、彼はまた投資会社の営業に電話した。約束は5日だが、経過を聞きたかった。投資会社の営業の声を聞くだけで安心できるのだ。
お客様のおかけになった電話は現在、使われておりません。番号を確認の上、おかけ直しください。
メッセージが幾度も繰り返される。血の気が音をたてて、引いていく。どういうことだ?騙された?投資会社に直接電話した。幾度も電話した。汗だか涙だか分からない液体で、彼はびしょびしょになっていた。
お客様のおかけになった電話は現在、使われておりません。番号を確認の上、おかけ直しください。
そして、どの電話にかけても、投資会社の営業の携帯と同じメッセージが永遠に流れ続けていた。
投資会社は当然もぬけの殻。
5億の横領もじきにバレる。
どうすればいい?
投資会社の営業を探す。
どうやって?
警察に被害届を出して。
騙されましたなんてねと。
どうしようもないんだ。
どうしようもないんだ。
愛くるしい妻と大切な娘の前で彼は手錠を掛けられる。結局、妻にも、娘にも何も話していない。話せるわけないじゃないか。こんな馬鹿げた話を。どう順序立てて話すのか。
彼は取り調べ室で強面の刑事に洗いざらいぶちまけた。確かに横領したのは悪い。だが、彼も騙されたんだ。一銭もお金は残っていない。5億2000万のお金を持ってかれたんだ。彼の言葉に刑事は首を傾げて、云う。8億5000万の間違いだろうと。
数学は嫌いじゃない。数学はむしろ得意だ。だから、はっきり覚えている。彼が帳簿操作したのは確かに5億だ。8億5000万も操作していない。
くってかかる彼に会社の帳簿の履歴と彼の通帳の履歴のコピーが渡される。確かに8億5000万のお金が彼が帳簿操作した日に流れている。そして、投資会社の営業とやり取りしたお金の履歴が消えていた。おかしい。これは間違っている。証拠の捏造だ。
さらにくってかかる彼を刑事は力で押さえつけた。奥さんと娘さんからも証言があってな。ギャンブルに女癖、相当悪かったみたいだな。裏金融からも催促の電話も頻繁だってよ。なあ、会社の評判も悪いぞ。セクハラ、パワハラ、上司のごますり。美人受付嬢にストーカーもしてたってな。なあ、そろそろ認めようや。8億5000万をどこに隠したんだ?そう云って、刑事は安っぽい机をガツンと叩いた。
もちろんだが、彼は浮気などしていない。娘とだって、一緒に買い物にもよく行ったはずだ。競馬だってやらないし、競輪のルールを知らない。風俗だって行ったことない。キャバクラだって行ったことない。セクハラ、パワハラの類もしたことがない。
そして、8億5000万の横領だ。彼は5億のお金を横領し、騙し取られたのだ。だが、彼を取り囲む世界では、ギャンブルと女に狂った彼が8億5000万ものお金を横領したとなっている。馬鹿げている。何度も何度も彼は刑事にくってかかる。その度に彼の知らない彼の話を聞かされる。
キャバクラの愛人にマンションを買ってやったとか。そんなことは記憶にないのに。美人受付嬢にストーカー?会社の受付嬢はそんなに美人じゃないし、興味はない。どうして彼の知らない話が世界に溢れかえっているのか。分からないまま、彼は黙秘した。何もしゃべらない。この世界の真実が分からなくなったから。彼の持つ真実が信じられなくなったから。
嵌められた。
誰に?
投資会社に?
会社に?
愛くるしい妻に?
大切な娘に?
彼を取り囲む世界に存在するもの全てに?
じゃあ、嵌められたならば、どうすればいい?
警察に訴える?
裁判を起こす?
両方とも実行中だ。
じゃあ、逃走?
ただの会社員に何ができる?
ハリウッド俳優じゃない。
じゃあ、この茶番は何だ?
彼だけが知らない真実と証拠の山。
彼が間違っているのか?
彼の頭がおかしいのか?
だんだん彼の歯車がおかしくなっていく。
だんだん。
だんだん。
全てが茶番だった。彼だけが知らない彼の真実について幾つもの証言が語られて、幾つもの証拠が提示される。
傍聴席に妻と娘を探した。だが、姿形は見えない。弁護士づてに離婚届が送られてきたから、彼は泣きながらサインをして、印鑑を押した。
最後に顔を見たいから、裁判の時、1度だけでいいから、顔を出してくれ。弁護士にそう伝えてとお願いをした。弁護士は伝えますが、あまり期待しないようにと笑う。来るわけがない。来るわけがない。そう思えば、涙が止まらなくなって、彼は嗚咽を漏らし、立っていられなくなった。
それでも、車椅子に拘束されて、彼の、彼の知らない真実についての裁判が続けられた。
そして、裁判が終わる頃。
彼の歯車が壊れて、動かなくなる。
壊れた歯車は新しい歯車に交換される。
彼だけが知っている真実がねじ曲げられて。
彼だけが知らない真実が世界の常識となって。
彼は塀の中で刑に服した。
ようやく彼は塀の外に出た頃。
どこまでが真実で、どこまでが妄想なのか分からない状態で。
町をさまよい歩いた。
奇跡的にたどり着いた我が家で。
彼だけが知っている真実を思い出した。
そして、彼だけが知らない真実を思い出した。
でも、愛くるしい妻と大切な娘の顔ももう思い出せなくて。
絶望だけがとめどなく溢れて出して。
柄違いの靴のまま、我が家を後にした。
何気に曲がる5丁目のタバコ屋の角。
先の見えない道が伸びていた。
道の先に違和感を感じることはない。
むしろ何も見えない道の先に心が惹かれていた。
あの病院の下りも妄想かもしれない。
だとしたら、この柄違いの靴は?
足裏に突き刺さったままのガラス片は?
この道の先には何があるのか?
どこに続いているのか?
彼はなんとなく知っていた。
風の噂。
町の噂。
世界の噂。
アナログ、デジタル関係なく。
囁かれていた。
絶望が溢れて。
絶望に押し潰された時。
道は開かれる。
5丁目のタバコ屋の角を曲がると。
先の見えない道がひたすら伸びている。
絶望が溢れて。
絶望に押し潰された者だけが。
たどり着ける場所。
そこは5丁目でもない。
そこは6丁目でもない。
そこは5.5丁目と云う。
廃ビルに囲まれて、空も見えない。
灰色の世界に木製の椅子がポツンと在る。
見えない空から1本の縄が伝って。
首を吊る輪っかが揺れることなく。
ぶら下がっている。
そんな噂の場所。
彼はそっと木製の椅子に乗った。
そして、縄を首に掛けて。
木製の椅子からそっと飛び降りた。
もう愛くるしい妻と大切な娘を思い出せないことに苦しむことはない。
(了)
揺れることなく。
ただぶら下がる先客に。
あたしは思いを馳せる。
先客はどんな絶望を得たのだろう。
ここは5丁目でもない。
ここは6丁目でもない。
ここは5.5丁目。
5丁目のタバコ屋の角を曲がるとたどり着ける。
絶望が溢れて。
絶望に押し潰された者だけがたどり着ける場所。
先客の絶望などあたしは知らない。
だから、あたしが好き勝手に彼の絶望を想像してみた。
廃ビルが取り囲む世界にぶら下がる先客。
絶望に押し潰されて、5.5丁目にたどり着いたあたし。
5.5丁目の先客にそっと触れる。
先客は音もなく。
粉々に砕けて。
灰色の土になって。
落ちていった。
先客が纏っていたスーツも。
ネクタイも灰色の土と化した科学的な根拠も分からないが。
何も知らないあたしに絶望を語られる先客を不憫に思う。
もし、あたしも先客と同じように。
たった今空いた木製の椅子に。
足をかければ。
先客と同じように。
あたしの絶望もあたしを知らない誰かに無責任に語られるのだろう。
そう思うと。
どうにも足を踏み出せなくなる。
どうせこんなものか?
あたしの覚悟など。
あたしは今、来た道を戻っていく。
絶望が消えたわけじゃない。
絶望に勝ったわけではない。
絶望は今も溢れて。
絶望が今もあたしを押し潰している。
でも、あたしの絶望を知らない誰かに。
無責任に語られるのもしゃくにさわる。
ただそれだけだ。
そうして、あたしは5.5丁目を後にした。
あの日以来。
どんなに絶望が溢れて。
絶望があたしを押しつぶしても。
あたしに5.5丁目の道が開くことはない。
【おしまい】