【灰色の精悍な狼はバイオリンの音色のような遠吠えを奏でた。】
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森の奥の。
真っ白な屋根の一軒家で。
音楽家と音楽家の娘が2人で暮らしています。
真っ白な雪がたくさん降った夜でした。
音楽家がバイオリンの優しい音色を奏でて、音楽家の娘が暖炉の前で寝息を立てています。
外は真っ白な雪の世界。
【サクサク】
雪の結晶が崩れる音がします。
【カリカリ】
音楽家の一軒家の扉を削る音がします。
音楽家はバイオリンを弾く手を止めて、扉を開けました。
真っ白な雪の世界に灰色の小さな狼が震えています。
「寒いだろうに、こっちにおいで。」
灰色の小さな狼は音楽家に抱きかかえられ、暖炉のそばに置かれました。
【パチパチ】
暖炉で薪が弾ける音がします。
【スウスウ】
音楽家の娘の寝息が聞こえます。
音楽家は木箱と毛布で灰色の小さな狼の寝床を作ります。
灰色の小さな狼は毛布にくるまれて、音楽家の作ってくれた寝床に入れられました。
灰色の小さな狼が不思議そうに音楽家を見ていると、音楽家が頭を撫でてくれました。
灰色の小さな狼はなんだか嬉しくて、音楽家の手をなめました。
そして、音楽家はまたバイオリンを手に取り、優しい音色で子守唄を奏でます。
【スウスウ】
音楽家の娘の寝息が聞こえます。
【スウスウ】
灰色の小さな狼の寝息が聞こえます。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森の奥の。
真っ白な屋根の一軒家で。
灰色の小さな狼は音楽家と音楽家の娘と一緒に暮らすことになりました。
音楽家は一人で兎狩りに出かけます。
音楽家の娘も灰色の小さな狼もまだ小さいので、一緒に連れてってくれません。
音楽家が帰ってくるまで、音楽家の娘と灰色の小さなオオカミでお留守番です。
音楽家の娘は掃除に洗濯、皿洗いと家事を頑張ります。
灰色の小さな狼は家事などしたことないので、音楽家の娘の後を嬉しそうについて回ります。
音楽家の娘が後を向くと、灰色の小さな狼は嬉しそうに尻尾を振ります。
だから、音楽家の娘は灰色の小さな狼と一緒に家事をすることにしました。
一緒に床を雑巾がけして。
一緒に洗濯物を物干し竿に干して。
一緒にお皿を食器棚に片付けて。
音楽家が帰ってくるのを音楽家の娘と灰色の小さな狼はピカピカの家で待ちます。
音楽家が扉を開けると、音楽家の娘と灰色の小さな狼が飛び跳ねて、音楽家にまとわりつきます。
音楽家も嬉しそうに音楽家の娘と灰色の小さな狼を抱きしめてくれます。
そして、音楽家と音楽家の娘と灰色の小さな狼でテーブルを囲みます。
兎のとろとろシチューと。
手作りの小麦パンと。
あったかあま?いミルクで。
一軒家が暖かくなります。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森の奥の。
真っ白な屋根の一軒家で。
音楽家と音楽家の娘と灰色の小さな狼の笑顔で溢れていました。
音楽家は少し歳を取り、音楽家の娘と灰色の小さな狼も少し大きくなりました。
そして、音楽家の娘は音楽家にバイオリンを習うようになりました。
音楽家の娘は一生懸命、バイオリンを練習しますが、なかなかうまく弾けません。
音楽家の娘がうまく弾けないと、音楽家は厳しく怒ります。
でも、音楽家の娘が優しい音色を奏でると、音楽家は抱き締めて、褒めてくれます。
灰色の小さな狼はバイオリンが弾けないので、一緒に練習はできません。
だから、バイオリンの練習の時にはいつも黙って、木箱に体を埋めています。
うまく弾けなくて、怒っている音楽家と泣いている音楽家の娘を見ていると、なんだか悲しい気持ちになりました。
優しい音色を奏でて、嬉しそうに笑いあう音楽家の娘と音楽家を見ていると、なんだか嬉しい気持ちになりました。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森の奥の。
真っ白な屋根の一軒家には。
いつもバイオリンの音色が溢れていました。
音楽家は毎晩、バイオリンを弾いてくれます。
灰色の小さな狼は窮屈になった木箱の中で毛布にくるまって、バイオリンの音色を楽しみます。
音楽家の娘もバイオリンの腕も上達し、音楽家とセッションできるくらいになりました。
灰色の小さな狼は一緒にセッションできなくて、さみしい気持ちでした。
でも、音楽家と音楽家の娘が楽しそうなセッションを見てると嬉しくなります。
バイオリンの楽しい音色に自然と体が揺れて、踊ってしまったり。
バイオリンの優しい音色にいつのまにか眠ってしまったり。
灰色の小さな狼は音楽家と音楽家の娘のセッションが大好きでした。
灰色の小さな狼は音楽家に育てられました。
だから、自分が狼であることを知りません。
雪の森に同じ灰色の狼がいることも知りません。
雪の森の灰色の狼は自分の牙で兎を狩り。
自分で狩った兎をシチューにしないで。
そのまま食べることも知りません。
かといって。
音楽家のようにバイオリンを弾きたくても。
弾くこともできないので。
音楽家でないことも知っていました。
【僕は誰だろう?】
灰色の小さな狼がそう考えるようになった頃。
もう灰色の小さな狼ではなく。
灰色の精悍な狼となっていました。
灰色の精悍な狼の生活はずっと変わりません。
音楽家が兎狩りに行く時には音楽家の娘に教えてもらった通り家事をします。
床を雑巾がけして。
洗濯物を物干し竿に干して。
お皿を食器棚に片付けて。
そして、家をピカピカにして音楽家の帰りを待ちます。
でも、音楽家を待っているのは灰色の精悍な狼だけでした。
音楽家の娘はもうこの一軒家にはいません。
真っ白な雪の森を越えて。
真っ白な雪の山を越えて。
ずっと遠くの国の。
ずっと遠くの街の。
音楽の学校に行ってしまったのです。
それはもう何年も前のことです。
暖炉の明かりに音楽家と音楽家の娘の影が揺れて、2人のセッションが始まります。
灰色の精悍な狼は2人のバイオリンが奏でる音に聞き入っていました。
でも、いつもと違いました。
2人のバイオリンの音色が微かにずれています。
いつもなら、音楽家のバイオリンについていけなくなった音楽家の娘のバイオリンの音色が聞こえるのだけど、2人のバイオリンの音色が逆転しています。
音楽家が音楽家の娘のバイオリンの音色についていこうと必死でした。
音楽家の娘はただバイオリンと話をするように優しい音色を奏でます。
そして、音楽家はバイオリンを弾く手を止めました。
音楽家の娘もならうようにバイオリンを弾く手を止め、
「あたし、学校に行く。」と口を開きました。
それから、間もなくして、音楽家の娘は小さな鞄を引きずり。
雪の森を越えて。
雪の山を越えて。
ずっと遠くの国の。
ずっと遠くの街の。
音楽学校に旅立ちます。
「一人前になるまで、帰ってくるなよ。」
音楽家は音楽家の娘に声をかけ、抱き締めました。
音楽家の娘は灰色の精悍な狼に言います。
「父さんをよろしくね。」
そして、灰色の精悍な狼の首をしっかりと抱き締めます。
灰色の精悍な狼は何も言葉を話せない自分が悲しくて、小さくなっていく音楽家の娘にずっと眺めていました。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森の奥の。
真っ白な屋根の一軒家には。
音楽家と灰色の精悍な狼の2人が残りました。
音楽家の娘がいなくなってからも生活は変わりません。
雪は止むことはなく。
雪の広がる世界で。
音楽家が兎狩りに出かけている間。
灰色の精悍な狼は。
床を雑巾がけして。
洗濯物を物干し竿に干して。
お皿を食器棚に片付けて。
家をピカピカにして。
音楽家が帰ってくるのを待ちます。
音楽家が帰ってくると。
灰色の精悍な狼は飛び跳ねて。
音楽家と灰色の精悍な狼でテーブルを囲んで。
兎のとろとろシチューと。
手作りの小麦パンと。
あったかあま?いミルクで。
一軒家が暖かくなります。
夜になったら。
暖炉の前で音楽家はバイオリンの優しい音色を奏で。
灰色の精悍な狼は窮屈になった木箱に身を埋めて、音楽家のバイオリンの優しい音色を楽しみます。
音楽家の娘がいないことは、さみしかったけれど、音楽家が毎日、一緒にいてくれるので平気でした。
音楽家の娘からたまに手紙がきます。
そんな日の音楽家のバイオリンの音色はとても素敵なものでした。
灰色の精悍な狼は字が読めないので、手紙を鼻に当て、音楽家の娘の匂いを吸い込み、音楽家の娘のバイオリンの音色を思い出します。
何年も繰り返された生活は変わることはありませんでした。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森の奥に。
真っ白な屋根の一軒家で。
音楽家と灰色の精悍な狼で音楽家の娘が帰ってくるのを待っていました。
それは真っ白な雪がたくさん降った夜でした。
音楽家は兎狩りに出かけ。
灰色の精悍な狼も。
床を雑巾がけして。
洗濯物を物干し竿に干して。
お皿を食器棚に片付けて。
ピカピカの家で音楽家の帰りを待ちます。
いつもと変わらない1日でした。
【サクサク】
雪の結晶が崩れる音がします。
「・・・」
音楽家の微かな声が聞こえました。
灰色の精悍な狼は耳をピンと張ります。
「・・・」
聞きなれた音楽家の声を間違うわけありません。
音楽家が声をあげて。
「灰色の精悍な狼」と。
そう呼んでいました。
灰色の精悍な狼は扉を開けました。
外はたくさんの雪が降っています。
【サクサク】
灰色の精悍な狼が歩くたびに雪の結晶が崩れる音がします。
「灰色の」
音楽家の微かな声を頼りに。
「精悍な」
真っ白な雪をかきわけて。
「狼」
雪の森を進んで行きます。
灰色の精悍な狼は音楽家に拾われて以来、初めて雪の森に入ります。
【ずっと音楽家が守ってくれていたから。】
灰色の精悍な狼は冷たい雪風に息を詰まらせながら、音楽家を追います。
微かに聞こえていた音楽家の声も雪風に途切れ途切れになります。
灰色の精悍な狼は雪に顔を突っ込み、雪に鼻を当て、音楽家の匂いを追います。
そして。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の中に。
音楽家の欠片を見つけました。
灰色の精悍な狼は雪の上を跳ねるように近づき、音楽家の欠片を噛んで、引っ張りあげます。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の中から。
音楽家が現れます。
音楽家の頬をなめると。
「灰色の精悍な狼」
音楽家は小さく言いました。
でも、音楽家の頬は氷のようでした。
灰色の精悍な狼は音楽家の体を引きずって、雪風の中を一軒家へと雪道を進みます。
【バタン】
灰色の精悍な狼は一軒家の扉を乱暴に開けると、雪風が家中を走り回ります。
灰色の精悍な狼は冷たくなった音楽家をベッドに乗せました。
暖炉の火が消えていたので、音楽家がやっていたように薪をくべます。
でも、火が消えてしまっているので、ちっとも暖かくなりません。
冷たい雪風が走り回り、一軒家の中まで凍りついていきます。
灰色の精悍な狼は音楽家の口元をなめました。
でも、音楽家は何も言いません。
灰色の精悍な狼は音楽家の襟元を噛んで、揺すりますが、音楽家は動きません。
灰色の精悍な狼はバイオリンを音楽家の脇に押しあてますが、音楽家はバイオリンを弾いてくれません。
音楽家はしだいに氷のように冷たくなっていきます。
昨日まで。
昨日の夜まで。
音楽家はバイオリンを弾いてくれたのに。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森の奥の。
真っ白な屋根の一軒家から。
冷たくなった音楽家を残して、灰色の精悍な狼が出ていきました。
灰色の精悍な狼は雪の森を歩いていきます。
おなかも空いて、おなかの音が鳴ります。
いつもおなかが空いた時は音楽家が温かい兎のとろとろシチューを作ってくれました。
だから、音楽家のように兎を捕まえてくれば。
音楽家が兎のシチューを作ってくれて。
音楽家が元気になってくれるはず。
灰色の精悍な狼は真っ白な雪の森で兎を探します。
でも、狩りなどしたことないので、兎を狩るどころか、見つけることさえできません。
灰色の精悍な狼は途方に暮れて、力なく歩いていきます。
おなかが空きすぎて、足がまず止まりました。
次に雪風の冷たさに目をつむりました。
そして、灰色の精悍な狼は雪に埋もれていきます。
【サクサク】
雪の結晶が崩れる音がします。
【ハアハア】
誰かの息遣いが聞こえます。
灰色の精悍な狼が目を開けると、目の前には自分と同じ灰色の狼がいました。
音楽家の頬をなめたように灰色の狼が灰色の精悍な狼をなめてくれます。
そして、目の前には兎が転がっていました。
灰色の狼が鼻で兎を押して、灰色の精悍な狼の口元にやります。
灰色の精悍な狼は兎を口に入れました。
少しずつ、少しずつ噛み砕き、飲み込みます。
【そうか、僕は狼なんだ。】
灰色の精悍な狼は自分が何者か知りました。
そして、雪の森での生き方を灰色の狼に教わります。
雪道の走り方。
兎の狩り方。
遠吠えの仕方。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森に。
灰色の狼の遠吠えが響きます。
灰色の狼の遠吠えを聞いて、灰色の精悍な狼は音楽家のバイオリンの音色を思い出します。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森で。
灰色の精悍な狼は月に凛と顔を向けました。
そして、音楽家のバイオリンの音色のような遠吠えを奏でます。
僕は音楽家じゃないから、バイオリンを弾くことはできない。
でも、僕は狼だから、吠えることはできる。
バイオリンを弾くことはできないけれど、バイオリンの音色のような遠吠えができるんだ。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森で。
バイオリンの音色のような遠吠えがずっと響いていました。
灰色の精悍な狼は兎を口にくわえて、音楽家の一軒家に走ります。
【バタン】
音楽家が扉を押すと、家の中から冷たい雪風が流れてきます。
家の中は外と変わらない冷たさでした。
灰色の精悍な狼は兎を床に置いて、外のポストを見に行きます。
ポストには音楽家の娘の手紙が来ていました。
灰色の精悍な狼は音楽家の娘の手紙を音楽家の襟元に置きます。
音楽家はあの日のままベッドの上で眠っています。
灰色の精悍な狼は姿勢を正して、音楽家のバイオリンの音色のような遠吠えを奏でました。
一軒家の中に灰色の精悍な狼のバイオリンの音色のような遠吠えが響き渡ります。
それでも、音楽家は動くことはありません。
灰色の精悍な狼は音楽家の頬をなめます。
音楽家は氷のように冷たくて、何も言ってくれません。
灰色の精悍な狼は音楽家の娘の手紙を机に並べます。
そして、静かに眠る音楽家の口元をまたなめて、雪の森へと去っていきました。
何年も。
何年も。
灰色の精悍な狼は。
雪の森と音楽家の一軒家を。
通い歩きました。
何年も。
何年も。
雪が止むことはなく。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森の奥の。
真っ白な屋根の一軒家は雪に埋もれていきました。
ここは場末のスナックのステージ。
アルコールの匂いが空気を満たし、煙草の煙が風に流れます。
音楽家の娘は音楽家を想い、灰色の精悍な狼を想いました。
降り止まない雪の森の奥で家族が暮らしている。
暖炉の前で。
毎晩、音楽家がバイオリンを弾いていて。
灰色の精悍な狼は窮屈になった木箱に埋まっている。
場末のスナックのステージの上で音楽家の娘はバイオリンを構えました。
音楽家の娘は音楽学校を卒業しました。
でも、バイオリンを生業にはできませんでした。
だから、音楽家の元に帰ることはできません。
「一人前になるまで帰ってくるな。」
音楽家はそう言ったから。
音楽家の娘は街の小さな工場で仕事を見つけ、仕事以外の時間を。
バイオリンを費やします。
バイオリンを弾けるのは休憩時間と仕事が終わってから。
仕事の合間にご飯よりバイオリンを選べば、同僚からうるさがられます。
仕事が終わって、疲れはてた体でバイオリンを弾けば、安アパートの天井を蹴られます。
でも、音楽家の娘にはスタジオを借りるお金などありません。
だから、エアバイオリンで練習するしかなくなりました。
でも、音の出ないエアバイオリンでは音楽家の娘を満たしてくれません。
やがて、音楽家の娘はエアバイオリンすら弾かずに。
眠る日が多くなり、バイオリンから遠退いていきました。
音楽家の娘はそのたびに、音楽家とのセッションを思い出し。
そして、灰色の精悍な狼が窮屈になった木箱に身を埋めていたことを思い出し。
このままではいけないと場末のスナックの門を叩きました。
「バイオリンを弾かせてほしい。」
酔っ払った客相手でもなんでもいいから、バイオリンを聞いてほしい。
場末のスナックのママに何度も頭を下げて、頼みます。
「客が文句いったら首だよ。」
場末のスナックのママは。そう言って、音楽家の娘を雇いました。
場末のスナックには多種多様な人種がきます。
みんな、何かに追われて、何かを背負い、疲れはてていました。
?【ステージは1時間に1回。】
?【客から文句がでたら、ステージは即終了。】
場末のスナックのママは音楽家の娘に2つの条件を出しました。
音楽家の娘はバイオリンに想いを託します。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森の奥の。
真っ白な屋根の一軒家で。
音楽家と灰色の精悍な狼がいて、音楽家の娘はそこでバイオリンを弾いていました。
音楽家のバイオリンの音色が聞こえて。
灰色の精悍な狼の寝息が聞こえて。
音楽家の娘は頭に思い浮かべます。
音楽家の娘が奏でるバイオリンの音色に。
酔っ払いはグラスの氷が溶けるのを忘れ。
スモーカーは煙草の灰が落ちるのを忘れ。
場末のスナックのママはグラスに酒を注ぐ仕事を忘れました。
そして、音楽家の娘は場末のスナックのステージにいるのを忘れました。
音楽家の娘は今。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森にある。
真っ白な屋根の一軒家で。
音楽家と灰色の精悍な狼と一緒にバイオリンを弾いていました。
音楽家の娘の演奏が終わると。
酔っ払いが拍手をしてくれ。
スモーカーが指笛を鳴らしてくれ。
場末のスナックのママが音楽家の娘を優しく抱き締めてくれました。
音楽家の娘はなぜだか涙が出ました。
場末のスナックには多種多様の人種がやってきます。
毎日。
毎日。
音楽家の娘は。
場末のスナックのステージで。
バイオリンの優しい音色を奏でます。
客から客へ噂が伝わり。
音楽家の娘のバイオリンを。
聞きにくる客も来るようになりました。
場末のスナックの客足は途絶えることなく。
やがて店に入りきれない客が行列が作るようになりました。
場末のスナックのステージから。
街の音楽ホール。
そして。
国一番に歴史の深いコンサートホールへと。
舞台が大きくなります。
音楽家の娘は。
バイオリン弾きとして。
名前も売れました。
音楽家の娘のバイオリンを聞くために。
世界中から人が集まってきます。
音楽家の娘がコンサートを開く時、必ず場末のスナックのママにチケットを送ります。
場末のスナックのママは観客席から優しく見守ってくれます。
でも、まだ音楽家には手紙しか送れません。
音楽家のいう一人前になったのか。
自信がありません。
確かに音楽家の娘のコンサートには世界中から客が集まります。
でも、一人前になったのか。
自分でははかれませんでした。
コンサートの後、場末のスナックのママが言いました。
「お父さんに会いたいなら会いにいけばいいじゃない?大丈夫よ。あなたはもう一人前よ。」
きっと誰かが背中を一押ししてくれるだけで空を飛べるほど、音楽家の娘の心は軽くて、雪の森にいる音楽家と灰色の精悍な狼に傾いていました。
音楽家に会いに。
灰色の精悍な狼に会いに。
バイオリンを弾きに家に帰ろう。
場末のスナックのママが背中を押してくれて、音楽家の娘は決心をつけることができました。
真っ白な雪の山を越えて。
真っ白な雪の森を越えて。
音楽家の娘は一軒家へと急ぎます。
小さな鞄とバイオリンケースを抱えて、雪道を歩いていきます。
久しぶりの雪道は歩きづらくて。
何度も転んで。
何度も雪に頭を突っ込んだけれど。
笑顔が消えません。
だって。
音楽家と灰色の精悍な狼に会えるのだから。
何度も滑りながらも。
何度も転びながらも。
たどり着いた一軒家の前で。
真っ白な屋根も変わらなくて。
音楽家の娘は泣きそうになります。
そして、扉へと近づいて。
手を触れました。
扉は木というより氷のよう冷たく感じました。
音楽家の娘が扉をそのまま押すと。
【バタン】
扉は引っ掛かることなく開きます。
そして、冷たい風が一軒家の中から流れてきました。
音楽家の娘は一軒家の中に入っていきます。
床も。
柱も。
何もかもが凍り付いています。
「お父さん。」
音楽家の娘は音楽家を呼びました。
でも、返事がありません。
一歩一歩足を進め。
音楽家の娘は。
凍りついた音楽家と。
凍りついた兎の山と。
凍りついた手紙の山を見つけました。
音楽家の娘は音楽家に触れても、音楽家は凍ったままで動くことはありません。
音楽家の娘はポケットからコンサートのチケットを取り出して、音楽家の襟元に置きます。
「ただいま。今、帰ったよ。」
音楽家の娘は。
バイオリンを取り出して。
目をつむり。
静かに深呼吸し。
バイオリンを構えます。
【キシキシ】
凍り付いた空気が砕ける音がしました。
音楽家の娘のバイオリンの音色が。
家中に響き。
窓を抜けて。
壁の隙間を抜けて。
雪の森に流れていきました。
【バタン】
音楽家の娘がバイオリンを弾き終えると、扉が開く音がします。
【ハアハア】
灰色の精悍な狼が舌を出して、息を切らして、飛び込んできます。
音楽家の娘は。
逞しくなった灰色の精悍な狼を見て。
凍り付いた兎の山を見て。
凍り付いた手紙の山を見て。
気付きました。
音楽家が凍りついた後も。
灰色の精悍な狼は
毎日。
毎日。
兎を狩ってきて。
毎日。
毎日。
手紙をポストから出して。
毎日。
毎日。
音楽家のそばにいてくれて。
音楽家の娘は灰色の精悍な狼を抱き締めます。
「ありがとう」とギュッと力を込めて、声を上げて、泣きました。
真っ白な月が上ります。
真っ白な雪が積もります。
真っ白な屋根の一軒家は凍りつきます。
音楽家の娘はバイオリンを構え。
音楽家と灰色の精悍な狼で暮らしていた頃のように。
バイオリンの優しい音色を奏でます。
灰色の精悍な狼は窮屈になった木箱の中に身を埋めて。
音楽家の娘のバイオリンの音色を聞いて。
バイオリンの音色のような遠吠えを奏でました。
灰色の精悍な狼の遠吠えは音楽家のバイオリンの音色のようです。
とても温かくて。
とても優しくて。
音楽家の娘のバイオリンの音色と。
灰色の精悍な狼のバイオリンの音色のような遠吠えのセッションが。
一晩中、雪の森に響いていました。
次の日。
音楽家の娘と灰色の精悍な狼とで。
凍りついた音楽家を土に埋めました。
灰色の精悍な狼は不思議そうに土に埋まっていく音楽家に鼻を鳴らします。
「もう、父さんはいないんだよ。」
音楽家の娘が灰色の精悍な狼の頭を撫でて。
「もう、兎を狩ってこなくてもいいんだよ。」
灰色の精悍な狼の首を抱き締めます。
音楽家の娘は。
小さな鞄とバイオリンケースを抱えて。
真っ白な屋根の一軒家を眺めました。
隣には灰色の精悍な狼がいます。
【サクサク】
雪の結晶が崩れる音がします。
【ハアハア】
灰色の精悍な狼の息遣いが聞こえます。
音楽家の娘も。
灰色の精悍な狼も。
じっと真っ白な屋根の一軒家を見ています。
すると、灰色の精悍な狼が音楽家の娘の前に立ちました。
そして、バイオリンの音色のような遠吠えを奏でます。
あの日、音楽家の娘を見送ってくれた音楽家のように。
音楽家の娘は灰色の精悍な狼の首を。
「ありがとう。」と。
抱き締めます。
そして、真っ白な屋根の一軒家に背を向けて。
真っ白な雪の森を越えて。
真っ白な雪の山を越えて。
音楽家の娘を待つ世界へと歩いていきました。
灰色の精悍な狼は音楽家の娘が見えなくなっても、バイオリンの音色のような遠吠えをずっと奏でていました。
ここは雪に閉ざされた世界です。
真っ白の月の真下。
真っ白な雪の森に。
1人の狩人が紛れ込みました。
寒さに震えて。
手もかじかんで。
辛うじて猟銃を抱えています。
微かに感覚の残る指で。
ラジオのチューナーを調節します。
【ザザザ・・・ザザザ】
スピーカーからはノイズしか聞こえません。
それでも、狩人は諦めず。
チューナーを調節していると。
偶然にバイオリンの音色を拾いました。
狩人はラジオを耳に当て。
ボリュームをMAXにします。
電波も弱いので。
ノイズ混じりですが。
バイオリンの優しい音色が流れ。
雪の森に響きます。
【ドサッ】
感覚がなくなった手からラジオが落ちます。
「とうとう死ぬのか。」
狩人が覚悟を決めた時。
バイオリンの優しい音色が大きくなり。
ノイズ混じりでなく。
はっきりとした音色に変わります。
【サクサク】
雪の結晶が崩れる音がします。
【ハアハア】
獣の息遣いが聞こえます。
狩人は猟銃を構えました。
真っ白な月の光を受けて。
2つの白い目が光っています。
狩人は最後の力で。
猟銃の引き金を引きました。
【パン】
猟銃の乾いた音がします。
【ズサ】
獣が倒れる音がします。
狩人がはいつくばって、駆け寄ると。
灰色の年老いた狼が倒れていました。
その脇には兎が転がっています。
狩人は兎を拾い、「命拾いをした。」と安堵します。
そして、灰色の年老いた狼を見ました。
灰色の年老いた狼は。
穏やかに笑っているように見えました。
【ザザザ・・・素敵なバイオ・・ザザ・・・ですね。いつもどん・・・気持ちで演奏さ・・・ザザザ・・ですか?・・・ザザザ・・・】
雪の中に落ちたラジオからノイズ交じりに聞こえます。
【・・・ザザザ・・・雪の・・ザザ・に残した家族を想って・・・ザザザ・・・いつも・・ザザザ・・・オリンを弾いてい・・ザザザ・・】
音楽家の娘の声がラジオからノイズ交じりに聞こえます。
真っ白な月の真下。
真っ白な雪の森の奥で。
灰色の年老いた狼は。
音楽家と音楽の娘と。
バイオリンの音色を夢見て。
雪に埋もれていきました。
【おしまい】