うんだうんだ
21時33分。デジタル時計を見ていた。この数字を23時46分に変えることは簡単だ。そして、デジタル時計に合わせて、我々の世界の時間が2時間13分進んだとしよう。地球が2時間13分自転するエネルギーはどこに消えてしまうのか。その地球の上で仕事をしている人。テレビを見ている人。眠っている人。2時間13分の間に起きたことは消えてしまうのか。我々、地球上の生物は地球の自転のような膨大なエネルギーに支配されていると東田は考えている。止まることも、途切れることもないエネルギー潮流。我々、人類はその膨大なエネルギー潮流に時間と空間という定義を当てはめて、今、生き続けている。そして、東田は人類の夢、タイムトラベルを実現しようとしている。
例えば、化石学者の話をしよう。地層に眠る化石から恐竜の生きていた時代を解明しようとしている。石となった生物の骨から、その恐竜がどのような生活を送っていたのかを研究する。食生活、繁殖パターン、そして、絶滅の原因。化石は決して喋らない。物言わぬ化石に問い掛け、予測し、理論を組み立てる。その結果、ティラノサウルスが捕食者であること、トリケラトプスが草食の被捕食者であることが判明した。
例えば、進化生物学者の話をしよう。彼らは生物の遺伝形質から進化の過程を導き出す。全く似ても似つかぬ生物同士が同じ祖先の遺伝形質を持ち、異なる環境要因から全く別の生物となった。より環境に適応した、優れた生物が進化の扉を開き、現在に生き残っていること、今も地球上の生物が進化していることが証明された。
化石学者は蓄積された地層から、進化生物学者は進化した生物の遺伝形質から、この時間と空間を支配しているエネルギー潮流の解明に取り組んでいる。
東田はX大学の物理学助教授だ。ニュートンをこよなく愛し、物理学という視点から時間と空間を支配しているエネルギー潮流を解明しようとしている。バック・トゥ・ザ・フューチャーの映画は何度も見た。後は、ドクと同じようにタイムマシンを作り出すだけだ。空間と時間の歪みを人為的に作り出し、物質を分子レベルに分解し、再度、歪みの中の別空間、別時間軸で再生する。それが東田が考えるタイムマシンであり、将来的に実現するであろうタイムトラベルだ。
例えば、青森県産ふじりんごを1メートル先に移動させる場合、手で移動するのは1秒とかからない。では、空輸でアメリカに空輸しようとした場合、検疫も含めて、十何時間の時間を要する。もし、仮に青森県産ふじりんごを1メートル先に移動させるようにアメリカに持っていく方法はあるのか。それが時間と空間の移動である。
東田が今、行っている実験は青森県産ふじりんごを分子レベルで分解したものを再生することにある。これがなかなかうまくいかない。もちろん、クローン技術を応用すれば、物質のコピーは可能だ。同じ遺伝形質を持つ青森県産ふじりんごを再生はできる。だが、ただのクローンで、時間と空間を飛び越えるという話ではない。
一瞬で分解し、再生する。その結果、青森県産ふじりんごが1mmでも移動していたら、タイムトラベルへの入り口が開ける。一瞬で分子レベルで破壊することは簡単だ。それは破壊的なエネルギーを与えるだけでいい。ここで必要なのは分子レベルに分解された青森県産ふじりんごを再生するために結合因子を接合面に発生させなくてはならない。破壊的なエネルギーではなく、生産的なエネルギーでなくてはならない。分解された分子を傷つけることなく、接合面に+-という電気的負荷を帯びさせるエネルギーだ。青森県産ふじりんごを傷一つ付けることのないエネルギーを見つけなくてはならない。
ちなみに、東田は青森県出身だ。父と母はリンゴ園を経営し、年老いた体に鞭を打ち、今も現役で働いている。父と母は共に60歳を超えた。東田も34歳だ。この実験が成功し、タイムトラベルが可能になれば、父と母も収穫した青森県産ふじりんごをボタン一つで市場に送ることができる。東田を今でも自慢の息子と言ってくれる父と母のため、この実験を成功させよう。東田が真っ赤に熟れた青森県産ふじりんごを皮ごとかじる。酸味と甘味が絶妙なバランスで舌を刺激する。口の中でそれを楽しんでいると、学生が「先生。」と急に飛び込んできた。
大学構内に不審者が紛れ込んだということだ。年齢は80前後の自分の名前も言えない老人ということだ。それならば、私ではなく、警備だろう。東田は思った。だが、その老人が東田と同じ東北弁っぽい言葉を言い、しかも、東田と顔が似ているということから、もしかして近親者ではという理由から東田に声がかかったのだ。確かに酔っぱらうと今でも東北弁が出てしまう。だから、学生も東北弁を知っていたのだろう。だが、正確には津軽弁だ。同じ青森でも津軽弁と南部弁に分かれているのだ。まあ、そんなことはどうでもいいのだが。東田はスマホで父に番号をコールしながら、早歩きする。確か叔父さんももう死んでいるし、80歳ぐらいの近親者などいないはずだが。警備室に着くと、ボロ雑巾のような老人が座っていた。「ふじりんごを。うんだ。うんだ。」と小さな声で繰り返していた。確かに津軽弁だ。その時、耳元に当てていたスマホに父が出た。懐かしい声だ。懐かしい津軽弁だ。もちろんだが、父であるはずがない。近親者でもそんな老人がいないことも確認できた。スマホを切っても、父の懐かしい声が残っていた。
「うんだ。うんだ。」東田の津軽弁に反応するように老人が相槌を打つ。これまた、懐かしい響きだ。老人の顔を見ると、確かに父にも東田にも似ている。だが、近親者では、こんな老人はいないのだ
伸び放題の髭も、ボロボロの衣服もよく観察する。何かの違和感を感じる。全部が全部ボロではないのだ。全体的には正にボロ雑巾だ。だが、所々で、修正された生地の部分が残っている。縫合されたというよりは、接着された感じだ。髪の毛も、髭もだ。皮膚にも傷があるのだが、それは熱反応で接着されたように見える。家族に虐待されて逃げてきたのか。病院にも連れていかれず。東田は警備員に警察に連絡するように伝え、研究室に戻った。それから、老人がどうなったかは知らない。
東田はもう54歳になった。助教授から教授になり、研究で忙しい日々を過ごしている。物質の分子レベルの分解と再生、時間と空間のエネルギー潮流の研究もかなり進んだ。ようやく、青森県産りんごとマウスの1メートル先の移動に、1秒後の物質の再生に成功したのだ。分子レベルに分解された物質はそのまま再生され、マウスの心臓もきちんと動いている。時間と空間を支配しているエネルギー潮流に歪ませ、タイムトラベルを可能としたのだ。
今日、東田は自分をタイムトラベルにかける。学生達は先に帰らせた。もう父も生きていれば、80歳だ。過労がたたり、10年前に亡くなった。リンゴ園は母一人でやっている。このままでは、母も倒れるだろう。だから、この実験を成功させて、リンゴ園を自分が継ぐ。そして、20年前の若かりし自分に時間と空間のエネルギー潮流の謎の解明を20年前の自分自身へ伝えるのだ。東田が開発したエネルギー照射装置に手をかける。そして、エネルギー照射装置のスイッチに手をかけた。
細胞が解けていく。特に痛みは感じない。体が分子レベル分解されていく。体が存在しなくなるが、自分自身が存在している感覚はあった。分子レベルに分解された体が生きている。マウスの心臓も再生できたのだから、人間も同じようになるはずだ。理論は間違っていない。ゆっくりと分解されて、ゆっくりと再生される。熱さを感じた。+-の電気的負荷のせいだろうか。熱反応は上がり続ける。熱い。とても熱い。これがエネルギー潮流にいるからか。分解された一つの分子が熱反応で溶解した。何が起きているのか。分子の溶解が連鎖し、体に痛みが走る。おかしい。何かがおかしい。考えられる原因を探す。1メートル先は成功したではないか。1秒後ではうまくいったではないか。思考が鈍る。考えが纏まらない。思考を司る重要な器官の分子が溶解した。もしかして、老化現象か。20年の時間と空間を遡る負荷が老化現象として現れたのだ。エネルギー潮流が持つ強大なエネルギーが東田に負荷をかけて、分子を破壊しているのだ。
21時33分から23時46分に飛び越した時の2時間13分はどうなるのか。1メートル、1秒後ではたいして影響は出ない。単純計算で54歳から74歳に一気に老いた。その20年のエネルギーの影響は計り知れない。東田の各器官の分子は溶解し、損傷する。一度、狂った歯車が噛み合うことはない。再生すべき分子が存在しないが、+-の電気的負荷が分子を無理やり結合する。あるべき場所でない故に拒否反応が起こり、綺麗には結合されない。それは東田の体に幾つもの傷を作る。髪の毛も、髭もそうだ。伸び続け、劣化し、千切れることを繰り返す。身に着けていた衣服もだ。綺麗に再生されるが、エネルギー潮流の熱に灼かれて、劣化し、ボロ雑巾のようになる。断片的に存在する記憶に、あの老人が見える。あれは20年後の世界からタイムトラベルしてきた東田本人だったのだ。東田はもう考えることができない。ふじりんごを。うんだ。うんだ。ふじりんごを。うんだ。うんだ。ただ、それだけを繰り返していた。
「大丈夫ですか?」学生と警備員が老人に声をかける。「お名前は?」その問いかけに「ふじりんごを。うんだ。うんだ。」と繰り返すばかりだった。とりあえず警備室に連れていこう。警備員の言葉に従い、学生は老人に肩を貸した。「ふじりんごを。うんだ。うんだ。」、老人はただ、それを繰り返すだけだった。