零の記憶
あたしがママのことで覚えているのは柔らかい歌声と夕陽に燃ゆる時計台。施設の人も、先生も、友達も誰も信じてくれなかった。だって、あたしは生まれて、すぐに捨てられた子供だったから。生まれて、すぐに捨てられたくせに覚えているわけないだろ。施設の人も、先生も、友達も決めつける。でも、あたしが学校の作文でママのことを書く時は必ずママの歌声と夕陽に燃ゆる時計台のことを書いた。これは嘘じゃないから。あたしはママのことを忘れないから。
そんなあたしのママの話を唯一否定しなかったのはU君だった。でも、きっと信じてくれたわけでない。U君はママに虐待されて、この施設に保護されている。ママに生まれて、すぐに捨てられたあたしとは違う。虐待したママでもU君にはちゃんといるのだ。あたしにはいないママがいるのだ。ママに捨てられたあたしとは違いすぎる。U君はママのことを教えてくれる。4才になるまで毎年、誕生日には手作りのケーキを焼いてくれたこと。5才の誕生日からひとりぼっちで誕生日を過ごすようになったこと。ママは男と毎晩、遊びまわって、夜はほとんど1人で家にいたらしい。ママが家にいるようになると、ママの恋人が家に泊まるようになって、定職のない恋人はママの稼ぎでパチンコに行ったり、ママのいない時に知らない女を家に連れ込んだり、5才になったばかりのU君を虐待したり。U君はそれでもママがいつか迎えに来ると信じている。きっとU君のママはU君のことなど忘れて、どこぞの恋人とよろしくやっているのに。あたしを生んで、すぐに捨てたママのことを覚えていて、夕陽に
燃ゆる時計台に行けば、ママに会えると信じているあたしと同じだった。だから、あたしもU君を否定
オなかった。
施設の人も、先生も、友達もあたしとU君が捨てられた子供だと思っている。だから、現実を見て、強く生きられるようにあたし達を再教育しようとしている。似たような環境にいる友達ですら、施設の人や先生と同じ台詞であたし達を諭す。みんなだって、ママに捨てられても、絶対、会いたいくせに。みんな、施設の人に、先生に再教育されて、洗脳されて、ママの優しさを忘れていく。あたしも、U君も忘れたくないだけなのに。
あたしとU君はこの世界で孤立していた。
再教育は飴と鞭、罰と罪の繰り返し。優しかったママに始まり、そんなママが汚されていく。それを信じないU君に食事抜きの罰が与えられ、そして、U君の罪が確定する。U君は日増しにやつれていく。食事抜きの罰のせい?いや、違う。汚されていくママが悲しくて、食事も喉を通らない。そもそも食事抜きの罰などU君には意味がなかったのだ。汚されていくママの姿だけで十二分過ぎる罰なのだ。それでも、U君はママのことを忘れないように健気に努力をする。毎日、ノートにママのことを書き記した。優しかったママのことをだ。U君が正気を保っていれたのは毎日の日課のように続けた、この行為のおかげであろう。
あたしにもU君と同じように飴と鞭、罰と罪を繰り返されて、再教育される。でも、あたしの覚えているママは柔らかい歌声と夕陽に燃ゆる時計台だけで。汚しようがなかった。汚されたのは誰かのママで、嫌悪感を抱いたし、食事抜きの罰も応えたけれど、罪が確定したところで何の効果もなかった。いや、全く効果がなかったわけでもない。まだ見ぬママに不安を抱くようになって、夢に現れる想像のママがとても冷たく笑うようになった。まあ、確率的にはママの夢の何十回に1回という稀な確率であったし、夢に必ずママが現れるわけでないし、夢を全て覚えているわけでないし。不安にはなったが、全然耐えうる再教育であった。あたしの覚えているママの記憶、柔らかい歌声と夕陽に燃ゆる時計台を忘れることはなかった。
やっぱり、あたしとU君はこの世界で孤立していた。
飴と鞭、罪と罰という再教育期間を耐え抜いて、あたしはママの柔らかい歌声と夕陽に燃ゆる時計台を忘れずにこの日を迎えた。あたしはこの施設から抜け出す権利を得た。あたしはママのことを否定しなかったのはU君だけだから、他の誰にも話さない。だから、あたしがまだママを信じているなんて、施設の人にはバレていないはずだ。きっとあたしの再教育が成功して、ママのことを思い出すこともないと思っている。でも、あたしはママの柔らかい歌声と夕陽に燃ゆる時計台を覚えている。決して忘れない。そして、U君は?U君は?U君は?そうU君はもう個室から出られなくなった。あたしのいる棟から離れた監視棟に隔離されている。再教育という名の飴と鞭、罰と罪がU君を壊してしまった。それでも、1ヶ月に1回、あたしはU君に面会に行く。それには施設の人がもちろんついてくるし、U君と2人で話ができるわけでもない。それでも、あたしはU君に会いに行く。それはU君のためじゃない。それはあたし自身のためだ。
U君は監視棟の個室で拘束されていた。いつも拘束されているようだ。眠る時も、起きている時もだ。両の手を後ろで固定され、両の足を固定され、声をあげれぬように猿轡をされている。まるで芋虫だ。床を這いずる芋虫。人じゃない。U君は芋虫のように床を這い回り、食事の時だけ猿轡を外される。そして、床が汚れるのも、顔が汚れるのも気にせずに食事をし、排泄物で拘束服が汚れるのもまるで気にしない。U君の個室に近づけば、近づく程、悪臭が鼻をつく。でも、あたしはU君に会いに行く。その理由はママの柔らかい歌声と夕陽に燃ゆる時計台を忘れないため。唯一、あたしを否定しなかった芋虫、いや、U君と会うことでママの記憶を心に刻み込む。U君が優しかったママのことをノートに書き記した行為と変わらない。U君のようにノートを使えば、あたしもU君と同じく個室で拘束されて、芋虫のように床を這いずるしかなかっただろう。でも、心に刻み込むことで、誰にも知られず、ママの柔らかい歌声と夕陽に燃ゆる時計台を忘れないでいられる。U君はママの記憶を失わない
ための鍵なのだ。あたしはそのために1ヶ月に1回、芋虫、いや、U君に会いに行った。
でも、U君は徐々に動きが悪くなっていく。最初は泣きながら、あたしの足元まで這いずってきた。でも、時間が過ぎるにつれ、U君は足元まで這いずってくるのが困難になっていく。いつかU君は動かなくなるだろう。芋虫が蛹になるように。でも、蛹は成虫へと羽化するが、U君は拘束服という蛹のまま、動かなくなる。近い未来にだ。U君が動かなくなると、あたしがU君に歩み寄ることにした。U君は猿轡で話すことができない。でも、いっぱいの涙を目に溜めて、あたしに訴えていた。多分、ママが迎えに来てくれる。きっと、そんなところだろう。U君はまだ希望を捨てていない。でも、ママは迎えに来ない。きっと。あたしはU君にそんなこと言えなかった。だって、あたしもママの柔らかい歌声と夕陽に燃ゆる時計台を探しにいくつもりなのだから。
数ヶ月が過ぎる。あたしがこの施設から抜け出す権利を得た頃、U君は動かなくなる。芋虫が蛹になった。U君は目を開いたまま、閉じない。眼球に蠅が止まっても、まばたきもしない。U君は蛹のままで何も動かなくなり、翌月からあたしが個室に行くことはなくなった。
あたしはこの世界で孤立したまま、U君は孤立した世界から旅立った。
あたしは小さな鞄と古臭いコートを羽織り、孤立した世界を歩いていく。ママの柔らかい歌声と夕陽に燃ゆる時計台を探すため。あたしの再教育に失敗した施設の人も、先生も、友達もいい気味だ。あたしはあの施設から抜け出すことに成功した。U君のおかげだ。U君がいなければ、今のあたしはいないし、ママの柔らかい歌声も夕陽に燃ゆる時計台も忘れていたし、きっとU君と同じように蛹になって、羽化できずに動かなくなっていただろう。あたしはU君に感謝した。U君の死を無駄にしないために、あたしはママを必ず見つけよう。
この世界には数え切れない程、時計台が建っていた。
幾つもの時計台をさまよい、夕陽を眺めた。この世界は広い。あたしの記憶が曖昧になっていく。世界地図にバッテンマークをつけながら、ママの夕陽に燃ゆる時計台を探した。でも、曖昧になったあたしの記憶はどの時計台も違うと言っている。もう時計台など区画整理かなんかで破壊されてしまって、存在しないのではないか。なんて、弱気になっていた。だって、あたしの記憶は?あの施設での再教育が蘇る。ママはあたしを捨てて、どこかの男と幸せになって、新しい家族と家に住んでいる。あたしの居場所など新しい家族にも家にもない。ペットの眠るスペースはあっても、あたしの眠るスペースはない。だから、あたしは捨てられた。要らないから。必要ないから。ママは幸せそうに笑って、あたしは捨てられるという罰を受けて、あたしは生まれたことという罪を背負う。こんなところであたしの再教育は完了する。この世界の片隅で、時計台も見つけられず、あたしは膝をついた。星も見えない。月も見えない。真っ黒い夜。絶望という拘束服があたしを拘束する。U君と同じ芋虫で、蛹
になって、羽化できずにそのまま死んでいく。
その時、この世界は柔らかい歌声で包まれた。
柔らかい歌声。あたしは覚えている。この歌声はママの声。小さなテレビだった。ノイズ混じりの歌声が聞こえる。あたしは電気屋のショーウインドウに並ぶテレビに釘付けになる。あたしと同じ顔で、あたしと同じ声で、あたしが覚えているママの柔らかい歌声だ。間違いない。夕陽に燃ゆる時計台は見つけられなかったけれど、あたしはママの柔らかい歌声を見つけた。
あたしは電気屋で携帯型テレビを買って、何回もママの柔らかい歌声を探した。毎日、ママはテレビの中で歌っていた。そして、消えていく。毎日、テレビで歌うということはそれなりに売れているのだろう。ママのコンサートがいつ、どこでやるのか。あたしは探して、そして、チケットを買って、ホールにたどり着く。椅子に座って、ママを待った。あたしを生まれて、すぐに捨てたママを。
きらびやかにスポットライトが現れる。ホールの天井から舞台へ光がうごめいて、視覚的に催眠術にかけられている気分だ。古臭いコートのあたしはホールで明らかに浮いていた。でも、大丈夫だ。そんな冷たい視線には負けないし、逆にママが気づいてくれるかもしれない。あたしはそう思って、パンフレットを開く。あたしと同じ顔のママが素敵な衣装で載っていた。難しい漢字ばっかりで読めないから、ママの写真だけをずっと見ていた。そして、ライトが落ちる。暗闇にあの柔らかい歌声が聞こえた。涙が止まらない。あの柔らかい歌声だ。やっぱりママだ。あれはママだ。あたしはママに会えたんだ。足が自然と立ち上がって、あたしは歩いていた。整然と並ぶホールの椅子の間の通路を光につられる虫のようにあたしは進む。ああ、蛹が羽化したんだ。ママの顔が徐々に明らかになる。きっとあたしの顔も明らかになっているだろう。同じ顔のママ。同じ声のママ。あたしよ。ママが生んで、すぐに捨てたあたしよ。覚えているの。ママの柔らかい歌声と夕陽に燃ゆる時計台。あたしの0才の記
憶。ママのお腹にいた頃の記憶。みんな覚えているの。だから、こうして、ママを見つけられたの。ね
ヲ、ママ。ママ。ママ。
やっぱりあたしはこの世界で孤立していた。
あたしは施設の人に囲まれて、身動きができずに押さえつけられる。そして、肩にチクンと痛みが走る。何?どうしたの?ママがいるの。あたしのママが。言葉がまず消えた。感覚が次に消えた。あたしはマネキンのように動けなくなる。最後に残ったのはママの映像。柔らかい歌声は聞こえないけれど、ママは歌っていた。でも、それも消えてしまった。
あたしは施設に連れ戻された。あたしを再教育するために飴と鞭、罰と罪が繰り返された。もちろんU君と同じ拘束服で、芋虫のように床を這いずるしかない状態だ。監視棟の個室で施設の人は言った。あいつはママのことを忘れていない。U君がそう言っていたと。繰り返し、繰り返し、そう言っていたと。あたしはU君に売られたのだ。でも、U君は見返りに何を貰ったのだろう。芋虫のまま、排泄物で汚れて、蛹から羽化もできずに、何を貰ったのだろう。きっと何も貰えなかったのだろう。だって、U君は壊れていたのだから。そして、あたしも壊れつつある。ママの映像は確実にあった。想像じゃない。リアルなママだ。そして、優しくて、暖かいママがあたしを抱きしめてくれる。会いたかったよ。ママ。ママ。あたしの言葉にママは凍りついていく。そのまま、あたしをもう1度捨てた。追いすがっても、しがみついても、あたしをけりはがす。あたしは何度もママに捨てられた。それはあたしの罰。そして、あたしが生まれてきたことが罪となり、確定する。もう聞こえないよ。ママの柔ら
かい歌声も。もう忘れちゃうよ。夕陽に燃ゆる時計台も。みんなみんな。あたしはあたしを失っていっ
ス。
皆さん、静かに。三角形のメガネの先生があたし達に言う。あなた達は親のことを知らない。この世界で捨てられた子供です。不幸な生い立ちに負けないように先生が教育してくれます。だから、一生懸命、生きなさい。一生懸命、勉強しなさい。あたし達はイエスと返事をした。先生は正しい。あたし達が間違っているから。親がいないのはあたし達が生まれてきたことが間違いだから。その罪を償うためにあたし達はこの施設で先生に世界のことを教えてもらっている。あたし達が生きていられるのは先生のおかげで、あたし達は先生のために生きている。何もおかしくない。
今日はあなた達のために世界的に有名な歌手の映像を見せます。あなた達みたいなクズにはもったいない程の歌声を存分に噛みしめなさい。先生が手を上げたので、あたし達は拍手をした。もちろん小さなテレビ画面にである。拍手のテンポは決してずれることはない。だって、毎日、訓練しているから。一瞬でもずれたら、罰が待ってるから。静かに緞帳が上がる。世界的に有名だけど、あたし達の知らない歌手が歌い出す。とても素敵な衣装で。とても柔らかい歌声で。あれ、何だろう?涙が溢れてくる。頭の中がおかしい。まだ朝なのに夕陽が見える。時計台の影法師がまっすぐ伸びて。あれ、おかしいよ。世界的に有名な歌手の歌声を噛みしめなければ、あたしは罰を受ける。でも、噛みしめられないよ。ほら、涙が止まらなくて、おかしいよ。こんなに柔らかい歌声があたしに染み込んで。あたしを突き動かして。あたしは立ち上がった。他のみんながあたしを見ている。先生もあたしを見ている。でも、あたしはみんなも、先生も見ていない。世界的に有名な歌手の柔らかい歌声を体で感じて
いる。まるでママのお腹の中で泳ぐ魚みたいに。でも、次にU君が現れて。拘束服を着て、芋虫みたいに
這いずって、あたしに近づいてくる。その目はまばたきもしない。ずっと蠅が止まっていて。あたしの足元に絡みつく。誰?U君って誰?ねえ、U君って?あたしはそのまま、マネキンのように動けなくなる。U君と同じ拘束服を着させられたみたい。芋虫が蛹になって、羽化を待つ。寒い冬が終われば、羽化できるのに。季節は冬のまま。あたしは動けない。蛹のまま腐っていく。あの柔らかい歌声がこびりついて、あたしを離さない。あたしを。駄目。歌が終わる。拍手をしなくては。罰が、罪が待っている。みんなと同じように拍手を。U君?どうしてあたしの足を掴むの?拍手ができないよ。あたしは夕陽に燃ゆる時計台を探しにいくの。ママの柔らかい歌声が聞こえるよ。だから、あたしは。先生があたしを連れ出した。拘束服を器用に着せて。あたしは監視棟の個室に連れていかれる。皆さん、静かにしなさい。いつもの発作ですよ。罪があるから、発作が起きるんです。だから、罰があるんですよ。皆さん、静かに世界的に有名な歌手の歌声を噛みしめなさい。先生はそう言って、U君が蛹
のまま、永遠に冬を越せない個室へとあたしを引きずっていった。
【おしまい】