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うつぼ作品集  作者: utu-bo
19/65

セミ化する種族

 冷蔵庫のモーターの振動音が低く、重く、沈む。たいした振動でないくせに耳にこびりつく。フローリングを赤く染める夕日が空に霞む。あたしはそっと掌をかざして、影で遊ぶ。まるで子供。一人笑うあたし。いや、一人じゃないよ。あたしはそっとお腹を撫でた。愛おしい。とても愛おしい。とても穏やかな気持ちになる。心が愛に満ちて、お腹があったかくなる。

「のぞみ? 今日のご飯、何がいいかな?」

 返事がないのも心地いい。心地いい空気に身を沈めて、遥か深い地層に眠る化石のふりをする。時計の針がゆっくりと地層を削って、あたしという化石を発掘していく。そして、玄関が勢いよく開いて、あたしは完全に発掘された。

「ただいま~!」

 もう中学生になるお兄ちゃんが帰ってきた。夢はワールドカップと信じていて、サッカー部の激しい練習のおかげで汗臭く、泥臭い。

「ママ、腹減った。」

 育ち盛りのお兄ちゃんはバナナを口に入れながら、器用に喋る。よくバナナのかすが飛び出ないものだ。それには感心する。

「おかえり~! 手洗ったの! 行儀悪いよ!」

 あたしがお腹を支えて、ゆっくりと腰を上げると、自然とお兄ちゃんが腰を支えてくれる。この優しいところは相変わらず変わらないな。あたしがお兄ちゃんの脇を小突き、二人で転びそうになり、逆にあたしが怒られる。そんなありふれた日常が心地よかった。

「ありがとう。今日はオムライスだかんね。」

「ラッキー! 大好物やん。」

 お兄ちゃんは何でも大好物だ。あたしがのぞみと二人で決めたことを知っているから。本当に優しすぎる。少しは自分の食べたい物を言えばいいのに。もう一度、お兄ちゃんの脇を小突きにいき、また怒られるあたし。フローリングはもう赤くない。夕日が沈んで、夜がやってくる。星が浮かび、月が浮かび、雲が流れて、眠りにつく。その前に洗濯しないと。パパも帰ってくるし。これもありふれた日常。今から家事という日常が始まるのだ。

 洗濯と夕飯の準備。まずはそこから始まる。汗臭く、泥臭いお兄ちゃんの服を洗濯機に入れる。鬼のように洗剤と柔軟剤を入れて、手早くスタートを押した。ドラム式の洗濯機の中でお兄ちゃんの服は回る。回る。回る。洗剤と水が混じって、さらに回る。回る。回る。大きな白い泡が生まれて、回転する服でさらに拡散されて、粒子状の泡に変化していく。これでよし。洗濯機の動作を確認して、次は台所に向かう。廊下に前もって足跡があるかのように滑らかに足を進めた。


 お兄ちゃんがワールドカップに出れたらよいな。


 パパが少しでも出世したらよいな。


 あたしはお兄ちゃんの夢が叶うこととパパが出世することを思いながら、冷蔵庫を開けて、卵と玉ねぎとチキンを取り出す。包丁で玉ねぎをみじん切りにして、さっと炒めて、チキンとご飯を順番に投入し、チキンライスを作る。ケチャップと塩コショウで味をととのえて、ふんわり卵焼きで包み込んだ。これもあたしの日常。もう一〇年になる。

 ありふれた日常。きっとそんなものを積み重ねて、地層のように作り上げていくのが生きていくことだと思う。ありがとうというありふれた言葉も大事な積み重ねだ。笑えることばかりじゃないし、泣ける日もある。でも、あたしにはお兄ちゃんもいる。パパもいる。のぞみもいる。だから、こうして生きていられる。


 もしワールドカップに出れなくても落ち込むなよ。


 もし出世できなくても落ち込むなよ。


 大丈夫だよ。あたしがいるから。あたしがぎゅっと抱きしめてやるから。


 心の中、そう念を込めて、四つのオムライスをお皿に並べた。ちょうどいいタイミングでまた玄関が開く。

「ただいま~。」

なかなか出世しないパパが帰ってきた。これもあたしの大切な日常だ。


 セミ化。

 【意味】冬眠越冬するクワガタが幼虫のまま、羽化しない状態のこと。

 【原因】飼育環境。

 【語源】土の中で幼虫のままずっと過ごす蝉の生態から。


 一〇年前のこと。幾つかの産婦人科で赤ちゃんが母体の中で成長しないという現象が起こるようになった。赤ちゃんは成長しないけれど、生きている。赤ちゃんは生きているけれど、成長しない。赤ちゃんは決して死んでいるわけじゃない。何らかの原因で成長ホルモンが阻害されて、成長が止まってしまうだけ。その何らかの原因は不明のまま。でも、その現象はおさまることなく、小さな波紋が重なり、反響しあうように広まっていった。


 【病名】セミ化病。


 妊娠中に子供の成長ホルモンが阻害されて、成長が止まってしまう病気。


 政府の公式発表は【原因の特定はできないが、一〇〇万人に一人の割合だから、安心して、子供を生みなさい。】だった。 あたしとパパには二歳になるお兄ちゃんがいた。もちろん普通に生まれてきた。普通に生まれてきたから、安心して、二人目の赤ちゃんが欲しいと思った。パパも兄弟がいたから、弟でも、妹でもいた方がいいと考えて二人目の赤ちゃんが欲しいと思った。政府が安心して、子供を生みなさいと言っているし、あたし達の赤ちゃんが一〇〇万人に一人の赤ちゃんになるなんて予想もしなかった。だから、あたし達は二人目の赤ちゃんを作ろうと決心した。


 あたしは懐妊する。


 順調に育ってますよと先生が言う。エコー画像に喜んで、名前の字画を計算して、男の子でも、女の子でもいいように黄色の服を買った。もうすぐお兄ちゃんになるんだよってみんなで赤ちゃんを心待ちにしていた。


 もうすぐ。

 もうすぐ。

 もうすぐ。

 もうすぐ生まれるからって。


 でも、一〇〇万人に一人のセミ化病に赤ちゃんはかかってしまった。


 羊水検査を含む、ありとあらゆる検査の結果、セミ化病が発症する原因は特定できなかった。原因が特定できない以上、治療法も見つからない。赤ちゃんは生きているけれど成長しない。赤ちゃんは成長しないけれど生きている。あたしのお腹の中で赤ちゃんは何らかの原因で成長ホルモンが阻害されて、成長が止まってしまったのだ。

 あたし達の赤ちゃんがセミ化病になった頃、政府も病気をようやく認識し始める。後手後手に調査と研究を重ね、そして、セミ化病のための対応策も試行錯誤された。でも、それはセミ化病を治療する目的のものではない。だって、セミ化病の発症する原因も分かってないから、治療することなどできるはずもない。政府の対応策はセミ化病にならないためのものであり、セミ化病になってしまった時のためのものではなかった。

 

  セミ化病の発生率が日々、増えていく。

 一〇〇万人に一人から一〇万人に一人。

 一〇万人に一人から一万人に一人。

 一万人に一人から一〇〇〇人に一人。

 一〇〇〇人に一人から一〇〇人に一人。


 国の機関だけでなく、民間の機関でもありとあらゆる実験と研究が行われ、様々な薬が開発されて、治験が行われて、結果が分析された。でも、セミ化病の急増を止めることはできない。

 セミ化病患者の急増により社会のシステムが変化していく。

 ワイドショーでの生産性のない大騒ぎが鳴りやまない。

 セミ化病患者に対する迫害が各地で起こり、誰もがセミ化病の病気を隠すようになる。


 ついにはセミ化病の発生率が一〇人に九人と逆転する。

 妊娠しても、セミ化病になる世界。

 だから、避妊具がよく売れた。

 だから、卵管結紮が健康保険適応となった。

 だから、パイプカットが健康保険適応となった。

 産休も、育休もなくなったけれど、だからといって、給料が上がるわけではない。

 そして、赤ちゃんが生まれないから、この世界から未来が消えた。


 あたしのお腹にはセミ化病の赤ちゃんがいる。セミ化病が判明した時、お医者さんから人工中絶を勧められた。母胎の安全を第一に考えましょう。成長しない赤ちゃんと未来ある母胎を天秤にかけた結果が人工中絶という選択になる。もちろん、健康保険が適応する。当たり前の選択が目の前を過ぎる。お医者さんからすれば、たくさんいる赤ちゃんのうちの一人だろうけれど、あたしとパパとお兄ちゃんにはただの一人でしかないのに。

 お兄ちゃんは生まれてくる赤ちゃんに興味津々で、いつもあたしのお腹を撫でている。

 セミ化病のニュースばかりやっているが大丈夫なのか? と実家から心配して電話が入る。

 親が子供を選ぶんでなくて、子供が親を選んで、生まれてくるって言うよねとあたし。

 ってことは、俺ら選ばれたんやねとパパ。

 きっとあたしとパパの答えは決まっていた。



 セミ化病の赤ちゃんと未来ある母胎を天秤にかけるのではない。あたし達の赤ちゃんを信じて、待ってみよう。十月十日ではなく、十年十月となるかもしれない。もっと、もっとかかるかもしれない。あたし達を選んでくれた赤ちゃんに会える日をあたし達は待ち続けよう。あたし達は一〇年前、そう決断した。

 一〇年前、パパと二人で何度もお医者さんと話をした。というよりは、妊婦検診を月一でこの子が生まれるまでしてほしいとあたしとパパと二人でお願いをした。あたし達はこの子が生まれるまで何年も待つから。何度も何度も頭を下げた。お医者さんも最初、顔をしかめていたけれど、渋々受けてくれて、それからはずっとあたし達の赤ちゃんを診ていてくれている。今ではあたし達の予約日を心待ちにしているくらいだ。赤ちゃんのいない世界では産婦人科も流行らないからかな。でも、あたし達はお医者さんに感謝している。お兄ちゃんもずっと生まれてこない赤ちゃんを少しずつ理解して、あたしの心配よりも、赤ちゃんの心配をして、あたしに重い荷物を持たせないようにしている。


 あたし達は赤ちゃんの名前をのぞみと決めた。

 名前の通り、あたし達の希望だからだ。

 母子手帳にしっかりと名前を書いておいた。

 予定日がのぞみの誕生日となる。

 お兄ちゃんの誕生日。

 あたしの誕生日。

 パパの誕生日。

 のぞみの誕生日。

 みんなの誕生日には必ずケーキを食べて、お祝いをする。

「のぞみ、おやすみ。」 と、あたしのお腹をそっと撫でて、お兄ちゃんは眠る。

「行ってくるね、のぞみ。」 と、出勤前にあたしのお腹をそっと撫でて、パパは玄関を閉める。


 一〇年過ぎた今、お兄ちゃんはもう中学生だ。パパは主査止まりだ。

「もっと勉強しようかな?俺。」

 お兄ちゃんらしくない発言にびっくりした。

「あんた、熱でもあんの?」

 額を触るが、熱くない。お兄ちゃん曰わく、頭よくなったら、医者になって、セミ化病の治療法を探すんだそうだ。あたしは目頭が熱くなるのをこらえて、熱のない額にデコピンを喰らわせて、ほっぺたをつねった。

「あんたはあたしとのぞみとパパをワールドカップに連れていけばいいの。ほら、さっさとボール蹴ってきなさい。ボールは友達でしょ。」

 あたしはお兄ちゃんをぎゅっと抱き締める。

「それって、昔の漫画でしょ。時代が違うよ。」

 お兄ちゃんは少しもごもごしていたが、やがて居心地のよさに静かになった。中学生になったお兄ちゃんはしっかりとセミ化病ののぞみを受け入れている。それどころか、のぞみの未来を見ていたことにびっくりした。


 でも、お兄ちゃんの未来にワールドカップがあるのだろうか。


 セミ化病の蔓延で人口は減り続けている。赤ちゃんが生まれないから、平均年齢は上昇一途だ。保育園、小学校の統廃合が加速して、いずれ中学校、高校へと順番に上がってくるだろう。子供の数が減っても、先生の数は減らない。そのせいか、心臓に悪い、少年犯罪のニュースを聞かなくなった。子供と先生の数の比率の逆転現象が教育に大きな影響を与えたのか。それとも、単純に凶悪な子供が減っただけのことなのか。それは分からない。

 子供達に未来を託すと世界はずっと掲げてきた。だから、限りある資源について深く議論し、環境を守るべく未来を目指していたはず。でも、託すべき子供達も、進むべき未来もなくなってしまった。だから、今では資源も好きなだけ掘り起こすし、汚染物質も好きなだけ撒き散らす。太陽も霞んで見えるくらい空が汚れている。濁った海を見るたび、海水浴に行く気分じゃなくなる。

 もう未来のことなど考えなくてもいい。こんな風潮が世界のルールとなってしまった。本当に後何十年したら、世界には何も残ってないかもしれない。

 だから、お兄ちゃんの未来にはワールドカップもないかもしれない。グランドもサッカーボールもなくて、サッカー選手もサポーターもいないかもしれない。

 いや、セミ化病の蔓延した未来よりもお兄ちゃんのワールドカップの夢の方が大事だ。あたしは信じたい。のぞみがいつか生まれると信じているのだから、お兄ちゃんのワールドカップの夢も信じよう。パパが出世することも信じよう。




 そこは水の中だった。

 少し濁ってるけれど。

 ヌルヌルしてるけれど。

 温かくて、心地いい。


 ママ。

 パパ。

 お兄ちゃん。

 聞こえているよ。

 ママの声が温かくて。

 パパの声が優しくて。

 お兄ちゃんの声が嬉しくて。

 あたしはここにいるよ。

 ワールドカップにだって。

 ママとパパと一緒に見に行くから。

 もしお兄ちゃんがワールドカップに行けなくても。

 もしパパが出世できなくても。

 ママと一緒にぎゅっと抱きしめてあげるから。


 あたしはここにいるから。

 

 ママ。

 

 パパ。


 お兄ちゃん。


 ありがとう。









 夢の中、声を聞いた。きっとのぞみの声。体にまとわりつく羊水の感触がリアルで、手ですくうと指と指の間から糸を引いて、零れて、一つに戻る。あたしは布団の中に潜り込んだ。胎児のように体を丸くして、のぞみを感じる。



 これは夢?

 これがのぞみの世界?


 ここに生きているのぞみの世界を感じて、嬉しくて、一筋の涙が流れる。

「一緒にワールドカップ行こうね。」

 あたしは小さく、小さく呟いて、お腹を優しく撫でた。






 ハッピー バースデー トゥ ユー♪

 ハッピー バースデー トゥ ユー♪

 ハッピー バースデー ディア ~のぞみ♪

 ハッピー バースデー トゥ ユー♪

 一〇本のろうそくの火をみんなで消した。パン! パンパン! とクラッカーを鳴らす。

「誕生日おめでとう、のぞみ。」

 お兄ちゃんとパパとあたしでのぞみを撫でる。ケーキを四等分に切って、のぞみが一〇歳になった。


 ねえ。

 のぞみ。

 来年も。

 再来年も。

 誕生日、お祝いしようね。

 ねえ。


 あたしはもう一度お腹を優しく撫でた。



【終】

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