3.11 東京に住む一人の男がやったこと、感じた事
3.11 地震のとき私は会社の27Fオフィスにいました。
揺れがすごかった。
最初の一番大きな揺れの時、オフィスの一同は「机の下にもぐって」という部長の掛け声の元、全員が机の下にもぐりました。
乗り物酔い (後に地震酔いという言葉も生まれましたね) に弱い私は、たった数揺れで気持ち悪くなりました。
あまりにも大きな地震でした。
2月から同じオフィスで働くようになった妻が、同じ階の研修室にいる事にすぐに思いが及びました。
研修室までは20m程ですが、まっすぐ歩くことができませんでした。
全員が机の下にもぐっている中で、たった一人崩れそうになる物品を必死で抑えていた最年長社員が思い出されます。
ドアから廊下に出ると、研修室から出て不安な顔をする妻がいました。
ひとまず安心。
安心したら途端に気持ち悪くなり、近くのトイレで吐きました。
この時まだビルは揺れていたので、実際の地震の揺れより、ビルは長い時間揺れていたのだと思います。
その後しばらくは会社は大混乱。
テレビ会議用の大型テレビに映し出される映像は、いままで見たことが無い津波の映像。
呆然とした表情の南相馬出身の同僚Bちゃん。
この時の私のケアは、正直ウザかったとの本人談。
都内の交通は完全に麻痺し、社員達は会社への宿泊を余儀なくされました。
そんな会社にBちゃんを残すわけにはいかず、また他にも複数人の東北出身者を連れて、歩いて帰れる我が家に泊まってもらうことにしました。
この段階では、まだのBちゃんの家族の安否は分かっていません。
膨大な回数の階段を降り、近くのスーパーで買出しをして、膨大な回数の階段を登って我が家へ到着。
若手の社員がカレーを作り、これも麻痺していた携帯電話を横目に、スカイプの有料外線発信を使いましたが、携帯電話より通話成功率が高かったです。
午後10時頃、やっとBちゃんの兄弟から、両親の無事を報告する連絡を受けて一同一安心。
その日寝る前までに、刻々と明らかになるのは被害の大きさばかりで、まだその大きさが計り知れませんでした。
総勢8名の同僚が、我が家のフローリングで毛布をかけて就寝。
◇◇◇◇◇
今思えば、日本が一気に動いた 3/11 の夜は、嫁と二人でいた方がよかったのかもしれません。
一夜明けても被害は拡大するばかりでした。
阪神淡路大震災を思い出しました。
あの時は、被災地にボランティアに行きたかったけど行けませんでした。
今なら成人してるし、お金はほんの少しだけ貯まってました。
何より大きかったのは、未来を予知していたかのような3/12~17の有給取得でした。
なんたる偶然でしょう。
運命が被災地へ行けと言っているようでした。
我が家から徒歩で会社へ行く同僚を送り出す前から、私は被災地へボランティアに向かう計画を立てはじめていました。
新幹線はもちろん駄目、飛行機も駄目、帰宅難民に貸し出されレンタカーも駄目。
首尾よくレンタカーを探しだしても、一般道も通行止めになったらアウトです。
そのときは一般道の交通事情がどうなるか、そんな情報すら出ていませんでした。
行く方法無いのか!?東北!?
いろいろ考えました。
バイクならなんとかなるかな?
でも普通自動車の免許しか無いから、原チャリだよな?
原チャリは大変そうだけど、これしか方法は無いよな?
特に燃費のいいカブなら被災地でも動き回れるし、なによりあのタイヤは悪路でも走りやすい。
よし。カブ買おう。
京都に紅葉を見に行く位の感覚でした。
東北へ行ける手段があればそれで良かったんです。
都内のバイクショップへ行くことにしました。
3/12の都内なんて、帰宅難民がゾロゾロと国道を歩いています。
私は大きなリュックサックを背負って、途切れ途切れの電車の駅を歩いたり電車に乗ったりで、バイクショップに着いたのが丁度お昼頃でした。
バイク屋さんで知ったこと。
バイクって買ったその場じゃ渡せないんですよ。
生まれてこの方、バイクなんて買った事は無くて、
世間知らずがとても恥ずかしい。
願いは東北へ届かないのか・・・とは諦めない。
「レンタルバイクって無いの?」って、バイク屋さんに聞いたら、「池袋に弁慶ってレンタルバイク屋さんがありますよ」って。
行きました弁慶。
それもカブが貸せるのは埼玉の新座だって事で、弁慶新座店まで。
http://www.venkei.jp/?af=2
事前に電話したときに、レンタルするには免許書の他に、現住所を証明する物が必要だって。
そんなの無いし・・・事情を説明して会社の連絡先と、家族の連絡先を書くことで特別に免許だけで許してくれた。
電車と、バスと、ちょっと迷って歩きとで。
新座店まで着きました。
レンタルバイクのゲットに成功。
この時、地震から丁度24時間の3/12の15:00頃でした。
地図を買って、ユニクロでジャージを買って、ユニクロジャージをズボンの下に着て、新座を出たのは15:30頃でした。
その後、17日までずっと同じ服装だとは思いもせず・・・
想像してた通りですが、バイクって寒いんですよね。
夕方くらいから一気に寒くなる。
コンビニで暖を取るのが、この先帰るまで何回あったか記憶にありません。
その間もちょくちょく嫁と連絡。
走りに走ったんですけどね。
栃木県の宇都宮に着いたのが、3/12 の 午後10時でした。
地震後から一週間の東京都と福島県を、国道4号を使って往復した訳ですが、都市機能が生きていたのは宇都宮まででした。
運よく安そうなビジネスホテルにチェックインできました。
寒くて寒くて、宿のお風呂に飛び込みました。
翌朝もまた早いからと思って、ソッコウで寝ました。
余談
流行ったみたいですね。
「石油プラントの汚染物質が雨に乗って降ってくる」
すぐに分かったデマのチェーンメールだけど、その後に実際に降ってきた放射能を考えると、このチェーンメールって怪しい気がする。
気のせいかな?
政府の言っていること以外信用に値しないってみんな早々に悟ったように思う。今もそんな風潮がある。
そうは思えないんだけどね。
そもそも、あのチェーンメールの広がり方って異常じゃね?
なんて、邪推したりする。
たぶん気のせいだと思うけど・・・
◇◇◇◇◇
3/13 震災から3日目の朝も晴天でした。
少し寒かったですが、すがすがしい陽気がむしろ不自然な気がするほどでした。
宇都宮を出発する時点では、まだ目標は仙台市でした。
国道沿いの丼物屋でカツ丼を食べました。
国道4号線をひたすら北上しながら、携帯ラジオをゲットしました。
この先大活躍するラジオになります。
白河を過ぎた辺りからガソリンスタンドの閉店や、緊急車両のみ給油可能の制限が目立ち始めました。
須賀川市に到着した時点でガソリンタンクは半分程度になりました。
給油をするために2時間待った時に、目的地変更を真剣に検討していました。
ラジオは1時間ニュースを報道し、1時間行方不明者の個人名を読み上げるサイクルで放送していました。
長時間を割いても、被害が軽い地域の不明者は読み上げられず、圧倒的な被害者の数を想像させました。
地震、津波、原発の被害状況と、避難所の情報が入り始めました。
山間部で電波状況が悪くなるラジオから「川俣町」の、キーワードを聞き取りました。
地図を見れば同僚のBちゃんの出身地の南相馬と、さほど距離が離れていない場所だと分かりました。
ここで目的地を川俣町に変更しました。
この時まで被災地でどんな貢献ができるかを模索していましたが、避難所へ行くことに決めたことで、この先の行動をリアルに想像できるようになりました。
補給が無い中、元気に営業するコンビにで、飲み物をダンボールに1箱買いました。
海外メディアの人にインタビューされました。クルーの皆さんとても焦っていました。
須賀川の郊外のスーパーで、カロリーメイトを10箱程度買いました。
宇都宮辺りまでは車道のスミが縦に少し裂ける程度でしたが、須賀川まで来ると横に裂けるようになりました。
次第に裂けた道路が数十センチの段差になり、交通の妨げになっていました。
早く現場に着きたい気持ちから、スピードメータは常に振り切れていました。
二本松から東に折れ、長かった国道4号から離れました。
峠を下っている感覚が長く、標高が低くなっていることを実感しました。
国道459号沿いのコンビニに立ち寄ると、販売している商品はほとんどありません。
ここから先は物資が不足していると判断し、以降自分の為の買い物は一切しない事に決めました。
日差しが暖かく、穏やかだった国道4号に比べ、峠道の気温はぐっと低くなりました。
残雪が目立ち初め、辺りが暗くなり始めるとバイクでの走行が厳しくなってきました。
停電と曲がった路の真っ暗なトンネルを抜け、少し走った交差点に学校らしき建物が見えました。
入り口では交通整理をしている方がいます。
私が「ここは避難所ですか?」と聞きました。
「そうだ」と交通整理のおじさん。
「ボランティアをしたいのですが」と伝えると、「どこから来た?」と、おじさんに問い返されました。
「東京です」と伝ました。
・・・おじさん しばし絶句。
「とにかく中の受付へ行け。
俺もこの町の者で、ボランティアで交通整理をしているんだ」との事。
これ以降目にする光景は、地元の人が地元の人を支える姿ばかりでした。
また、私以外の他県からのボランティアには一人も出会いませんでした。
受付は続々と移動してくる被災者の受付です。
すごい活気でした。
受付で事情を話すと「体育館へ行き、コンノさんに来意を告げよ」との事でした。
早速体育館のコンノさんの元へ。
長閑な町の雰囲気と、小さな小学校から気が緩んでいたのでしょうか。
受付の活気、校庭を埋める被災者の車の数から、もっと正確に想像できたかもしれませんが体育館の中の人口密度にまずは言葉を失いました。
続いて鼻をつく糞尿の臭いに衝撃を受けました。
何度か嗅いだことのある老人ホームの汚物処理室と同じでした。
コンノさんは「紺野さん」という方で、避難所の取り纏めをしていらっしゃいました。
中年の男性で、がっしりとした体格です。
来意を告げると大きな手で固い握手を求められました。
まずは避難所の現状をレクチャーされました。
学校の教室に避難している人を合わせると、総勢500名程度。
(この数は避難所を出るまで増え続けていました。また、避難者の実数は、東京に帰ってWEBで見た人数の3倍でした)
この川俣南小学校に身を寄せる人達は、浪江町からの被災者が多数を占めていること。
約1/3 が津波で家を失った人、
残りが原発の避難勧告に従って移動してきた人であること。
高齢者の占める割合が高く、人手は足りていないこと。
矢継ぎ早に突きつけられる現実に、今度は私が絶句しました。
後から知ったことですが、原発で働く下請け会社の作業員さんが数十名いらっしゃいました。
東電の社員さんもいましたが、14日には姿が見えなくなっていました。
その方を浪江町の人達は決して悪く言いません。
それには様々な理由があるのだと思います。
ダッシュ村が浪江町にある事もこの時知りました。
皆さんダッシュ村の話しになると顔がほころぶようです。
町の誇りなのだと思いました。
私もダッシュ村好きです。
紺野さんの勧めで体育館の壇上に上がり自己紹介。
この時の模様が浪江焼麺太国 さんの手で撮影されていました。
かなり緊張するタイプなので、正直なところ気はすすみませんでした。
http://ameblo.jp/namie-yakisoba/entry-10832368734.html
この時の浪江焼麺太国 のブログにあるとおり、被災地の方達は「生きるか死ぬかの限界ぎりぎり」の状態でした。
この晩は2人の方が南小学校から救急車で運ばれました。
津波で着の身着のまま逃げてきた方に、持病の薬の持ち合わせはありません。
平時とは全く異なる被災地での医療とは、避難所を出るまで直面し続ける事となります。
避難所で私が気をつけたのは、衛生管理と皆さんのストレス軽減でした。
ゴミ箱がお年寄りのオムツですぐに一杯になります。
滞在中にゴミを何回出したか記憶にありません。求められるままに何でもやった気がします。
炊き出しの配給、支援物資の運搬、必要物資の調達、お年寄りの介助、子供の遊び相手、清掃、不寝番、避難者の出入り管理といった所でしょうか。
合間をぬってツイッターで現地の様子を伝えましたが、思うように通信できませんでした。
基地局が機能していないのか、メールは10回に1回も送信できませんでした。
刻々と時間は過ぎ、消灯時間の22時。
深夜になっても次々と新しい被災者が避難してきます。
移動の疲れからか、その日は12時頃に就寝。
いけないことだと知りつつも、非常用の毛布を1枚お借りしてしまいました。
毛布の入っている袋がとても役に立ちました。
冷え込みの厳しい足を袋に入れるととても暖かいからです。
体力のある私でさえ、寒さであまり眠れませんでした。
お年寄りには命を縮めるほどの寒さだっただろうと思われます。
余談
未だにあるボランティア迷惑説は是非止めて欲しい。
「ボランティアは迷惑をかけず役に立て」が正しいのであって、「ボランティアは迷惑だから行くな」は絶対に間違い。
そんな単純な話ではない。
「被災地へ行くべき緊急車両が、渋滞に巻き込まれて動かない」なんてことも皆無でした。
道路はスカスカで、緊急車両もスイスイ通ります。
混雑していたのはむしろ被災地から東京方面へ向かう車でした。
そんな事をいう人がいたら、それは口先ばかりの世間知らずだと思ったほうがいい。
◇◇◇◇◇
避難所2目の朝は、寒さと周囲の方達の起き出す気配で、5時に目が覚めました。
起きてすぐに校庭の清掃からはじめます。
避難所の小学校で寝泊りしているほとんどが、浪江町の方なんですが避難所は川俣町の小学校です。
お借りしている施設なのだから、極力綺麗に使うという心遣いに心が打たれました。
あるいは、クレームになって避難所を追われる恐怖があったのかもしれません。
食事もせずに動き回っていた気がします。
気づいたことを、私のできることをやり続けたと思います。
前日から気になっていたのは、感染症の蔓延の防止と、子供や老人の心のケアです。
食事の配給や、ゴミ捨てや、子供をあやしたりしていました。
近くの「リオンドール」というスーパーへ、買出しに行ったりしました。
浪江方面を目指す自衛隊や警察や消防の車と何度もすれ違いました。
川俣町の皆さんもスーパーに並んでいらっしゃいました。朝から長蛇の列でした。
風邪のせめてもの予防と思い、避難所用にのど飴を山ほど買い込みました。
大きな袋にまとめて、避難所の皆さんにお配りしました。
歯磨き粉が無かったので、3本まとめて買いました。
高さのとても低い、小学校のトイレ手洗い所に共同の歯磨き粉として置いてきました。
盗まれるのを恐れる人がいましたが、どなたも盗む方はいませんでした。
子供のおやつも沢山買いました。
高校生までの子達は一列で行儀よく並び、笑顔で受け取っていました。
昼は避難所の人員の出入りが多い時間帯です。
一日に1/3程度の人が入れ替わっていたのではないかと思います。
より原発から近い場所から逃げてきた人が川俣南小学校へ集まり、
あまりの過酷さから、さらに遠い避難所を目指して出ていく人も多くいました。
川俣南小学校では、被災者を10の班に分け、人の出入りを管理していたのですが、
この班長さんに任命された事がありました。
前任の班長さんが別の避難所に移ったためです。
これは苦手でした。
ご家族やご近所を含めた班構成になっており、顔見知りならではの人の出入りや細かなニーズの把握ができるのですが、来たばかりの私には顔と名前が一致しません。
私の班の皆さんを把握しながら他の仕事をこなしている間に、
私は班長さんの座から降りることとなりました。
理由は前任の班長さんがご家族と他の避難所へ行った所、受け入れ人数の関係で受け入れを断られ、川俣南小学校へ戻ってきたためでした。
他の避難所を含め、広範囲で混乱が続いていることが分かりました。
この日の夕方位から、東京に帰る際の段取りも考えなくてはなりませんでした。
避難所に、川俣町の電機屋さんからテレビが1台設置されました。
原発の状況は日に日に悪化の一途をたどるばかりでした。
避難所にいらっしゃる原発作業員の方達の話を伺う限り、予断を許さない状況であることが分かりました。
既に大気中には多量の放射性物質が拡散していることも、この時点で分かりました。
翌3/15日は午後から雨の予報でした。
原発の作業員さん達からは、かなり踏み込んだ情報をいただきました。
地震発生時に一号機の建屋内で作業されていた方もいらっしゃいました。
作業員さんから聞く話は、その後1週間後にメディアで放送される類の話ばかりでした。
原発が起こしている挙動から、既にメルトダウンが発生し、燃料が原子炉から漏れていることを理論立てて正確に話している職人さんもいらっしゃいました。
夜になると避難所から出て行く人が少なくなり、来る人ばかりが増える時間帯になります。
前日より多くの避難者が体育館を埋めるようになっていました。
班長ではなくなった私は、避難者の中でも他の避難者のケアができる、10名ほどの若い方達で構成する介護グループに戻りました。
このグループの中では戸川さんと高橋さんは、特に尊敬に値する方達でした。
この晩は前日の戸川さんに代わり、不寝番を志願しました。
なんと高橋さんは2晩続けての不寝番でした。
前日寝てしまった自分を、恥ずかしく思いました。
長い夜でした。
大きい余震が2度、テレビは夜通し原発の危機を報じていました。
夜中に、浪江町役場の職員が、顔色を変えて飛び込んできた
ことがありました。
川俣町のこの小学校でも、被爆を避けるために外出禁止にする旨の指示が出たとのことでした。
大きな余震と重なったこともあり、午前2時に体育館の全員が起床しました。
とにかく避難所全体のパニックを抑える事にのみ集中しました。
外出禁止の情報源をたどると、浪江の隣の双葉町からの避難者が集まる
別の避難所にて、単独で出された指示であることが分かりました。
町役場や避難所レベルで、指示系統が乱れ、放射能の恐怖のために独自での行動が始まったことを示していました。
国や県の指示を待つ事や、外出禁止の指示は誤報である事を避難者に伝え、その場は何とか切り抜けました。
いま思えば、私も放射能の恐怖に巻き込まれていくようでした。
体育館を埋める数百人の避難者の半分は、ほとんど眠れない様子でした。
叫びたい、泣きたい衝動を抑え、他の人の眠りを妨げないように息を潜めている事がよく分かります。
何人の老人のトイレの付き添いをしたことでしょう。
寒さに眠れずに震える人に、何度声をかけたことでしょう。
差し出す毛布を拒み、他の避難者へ渡して欲しいと言う方が沢山いらっしゃいました。
浪江町は見たこともありませんでしたが、こんな素晴らしい人達が平和で暮らしていた、まだ見たことが無い浪江町を想像していました。
明け方近くに、不安を抑える薬は無いかと、泣きそうな顔で近づいてきた女性がいました。
校庭に停めた車には、家族である愛犬がいること。
放射能を逃れるために、少しでも遠くへ逃げたいがガソリンが無いこと。
ガス欠になるのを覚悟で避難所を出たほうがいいか、それとも下手に動かずに避難所に留まったほうがいいか、強く悩んでいることを話していました。
どちらが最善の選択がいいか、正直なところ分からないと伝えました。
避難所を出る場合のリスク、出ない場合のリスクを考え、どちらを選択しても最善の方法を取るよう、考えられる限りの事をお話したと記憶しています。
そんな話をしている間にも、夜中にも関わらず家族で避難所を出て行く方もいらっしゃいました。
恐怖と寒さに震える、情報の乏しい避難所の体育館で、不寝番の夜は明けていきました。
パニックが発生す時はこんな夜なんだと思います。
それを防いだのは避難者の皆さんの賢明さと、
避難所の統括である紺野先生、和田社長の
リーダーシップに他なりません。
◇◇◇◇◇
停止していたブログを更新します。
2011年4月に南相馬へ行った後、あまりに膨大な被災地の支援に、無力さばかりを感じて目を背けていたのが正直なところです。
そんな私がブログを再開するきっかけは1通のメッセージでした。
とある小学校の道徳の授業で、川俣南小学校での私の経験を取り上げたいとのお申し入れでした。
ブログを通じて、あの時の経験が誰かの心に届けばと思います。
3/15の朝は、前日までの晴天とは一変しての曇天でした。
曇天どころか、ポツポツと雨が降り出しています。
原発の関係者からは、放射能が漏れて最初の雨が一番危険と聞いていました。
広島への原爆投下の経験も影響されてのお話かと思われました。
浪江町役場からは特段の指示はありませんでしたが、小雨の降る中での外出は極力避けるよう、避難所内では意識が統一されました。
それでも、外出しなければいけない事情もあります。
津波で家を失い着の身着のまま避難された方や、原発事故からの避難命令によって川俣南小学校へ来ている方の内、薬の処方が必要な方が4名いらっしゃいました。
診療や処方を受けるため、1キロ程の距離にある済生会川俣病院へ同行することが、朝一番の私の仕事になりました。
持病を持つ方の移動であり、恐怖の対象である雨が降り始めていたため、移動には車が必要でした。
全てが被災者の相互扶助で成り立っていました。
当時、想像を超えた重要物資となったガソリンを使うことも構わず、ワゴン車の提供と運転を快諾してくださったのは、福島第一原発で下請けの作業員をされている男性でした。
朝の開院と共に、4名の患者を病院へ送り届けました。
この内の2名は若い男女で、その後4月に南相馬へ行った際にも、生活用品を届ける交流がありましたが、それは後のお話です。
診察が終わり薬の処方を待つ間、薬局のテレビを見ていました。
その時に映し出されていたのは、福島第一原発で1・2号機に続いて、3号機でも水素爆発の可能性があるとのニュースでした。
連鎖的に水素爆発を起こす原発や、降り出した雨、日に日に悪くなるガソリンの供給事情、断続的に続く余震が、急激に私を不安にし始めました。
薬の処方が終わり、患者さんたちを川俣南小学校へ連れて帰りました。
帰った時には、丁度みなさんの朝食が終わったところでした。
この日は、おにぎりが各自に2つ、その他なんと菓子パンも提供されていました。
厳しい状況には変わりませんでしたが、何とか食料が増えてきたようです。
雨が降り止むのを待って岐路に着くか、雨が本格的に降り始める前にするかの選択に迫られていました。
考えれば考えるほど、不安が大きくなりました。
それが正しい判断かは、今となっては分かりませんが、雨が本格化する前に岐路に着く事を選択しました。
それは私にとっては敵前逃亡でした。
意気地が無く、卑怯な選択でした。
私が帰る選択をしている間にも、野戦病院さながらの体育館で立ち働く先生には、逃げる理由を飾り立てて説明することは許されないと思いました。
せめて正直に、「逃げる」そして「ごめんなさい」とお伝えしました。
別れの挨拶は、紺野先生、和田社長、紺野先生の奥様、戸川さんにだけ告げました。
あきれて追い返されることを覚悟していましたが、
みなさん温かく送り出していただきました。
泣いてしまいました。
固辞したのですが、貴重なおにぎりを2ついただきました。
この時のおにぎりは、有り難さと申し訳無さで食べる気になれず、帰宅できてから東京で食べました。
冷めて、時間が経ってもとてもおいしく、福島のお米のすばらしさと作ってくれた方のお気持ちが強く心に響きました。
川俣南小学校に来たときは、壇上で挨拶をしましたが、帰りはまさに逃げるように出て行きました。
余談
戸川さんとお別れの挨拶をした時の言葉が今でも心に残っています。
「俺だって被災者だ。皆の為に作業をするのは、復興後、浪江で胸を張って歩くためだ。ここで何もせず、復興後に軽蔑されるのは嫌だ。」
この時、復興後には浪江で一緒にお酒を飲む約束をしましたが、その約束は間もなく震災から1年経とうとする現在でも果たすことはできません。
◇◇◇◇◇
3月15日 午前10時頃
川俣南小学校から出た私には、真剣に考えなければいけない課題が2つありました。
まず、ガソリンの事。
3月13日に須賀川で給油したカブのガソリンタンクは、半分を少し切る程度まで減っていました。
撤退における一番の目的は、福島第一原発から少しでも離れることでしたが、ガソリンが尽きては話になりません。
往路は国道4号線を行ける所まで北上し、そこから浜通り方面に折れましたが、東京までをできる限り最短ルートで帰りたかった私は、国道349号線をひたすら南下するルートを選びました。
結果的にはこのコース選びは私の運命を左右することになります。
次に放射能の事。
とにかく恐れているのは雨でした。
放射能が漏れて最初に降る雨が最も危険な雨です。
この雨を何とか避けたい思いでした。
風向きも気になりました。
川俣町は、福島第一原発から西に位置しています。
暖かい風は浜通りからつまり原発がある東から吹く風。
寒い風は会津からつまり原発の無い西から吹く風。
この地方で一般的に言われていると聞きました。
この日の最高気温は前日からマイナス 9℃ でした。
寒いですが私にとってはプラス材料でした。
寒く、小雨が降る中、私はバイクにまたがりました。
原発は予断を許さない状況です。
少しでも原発から離れたい気持ちで一杯でしたが、ガソリンを節約するために時速30km程度を厳守して走りました。
私はすぐにコース選びを失敗した事に気づきました。
地図では分からない事。
国道349号線は峠道でした。
激しいアップダウンにより、予想していたよりも燃料の減りが激しい事が分かりました。
ガソリンスタンドは数自体が少なく、開いているところも一切ありません。
雨が少しずつ強くなっていきます。
人通りは一切無くなり、すれ違う車もやがてなくなりました。
通りの左に曲がる道には「避難区域のためこの先通行止め」の表示です。
ついにガソリンのメーターがEを指し、雨は雪に変わり始めた時、人の気配が無い国道に響いたのは防災無線のアナウンスでした。
要約すると以下のような内容です。
「避難区域が原発から半径20kmから30kmに拡大された。なるべく外出を避けて屋内にいるように」
原発事故の影響は広がり続け、触れるべきではない雨をかぶり、人気の無い国道でガス欠寸前なのです。
人生でこの時ほど怖かった事はありません。
せめて雪を避けられる所で、できれば人がいる所を必死で探しました。
一軒の家が見えました。
全く知らない方のお宅のドアを叩きました。
雨宿りをさせて欲しい旨をお伝えしました。
そのお宅のご家族は、いぶかしげな顔で、
それでも私を向かいいれていただきました。
そこで私が見たものは、コタツに入って、お茶を飲みながらテレビを見るご家族でした。
私の精神状態とはかけ離れた、日常の光景がそこにありました。
恐怖の後の安堵感からか、膝から崩れるようにしてそのお宅の玄関で5分は泣いていたでしょうか。
寒さと恐怖で震え続ける怪しい私を、それでも親切にコタツに入れてくれました。
熱いお茶を3杯もいただいたと記憶しています。
やっと普通に話ができるようになりました。
ご長男は、いわき市で
勤めていた車の整備工場が津波に飲み込まれ、実家に帰省していらっしゃるとの事でした。
◇◇◇◇◇
お互いの身の上話も多少しましたが、やっぱり話されるのは原発の話題です。
私がそれまでいた川俣南小学校は、福島第一原発から約45kmですが、そのお宅は田村郡小野町で、原発からは40km未満です。
避難区域が30kmに拡大されていましたが、次に拡大されるならば40kmと予想するのが普通です。
テレビから流される情報よりも、もっとネガティブな予想が原発作業員からは語られている事を伝え、そのご家族にも避難を呼びかけました。
しかし、お母様がご病気で近くの病院に入院されているため、避難は難しいと考えているとの事でした。
帰る手段を聞かれ、このままだとバイクを押して東京まで帰らなければいけない事情を話しました。
長男の方から、ガソリンを提供してくださるとのお言葉をいただきました。
私にとって、またとない話でした。
ただし、ボランティアで勝手に来た身です。
そのお宅では、いざという時のための虎の子のガソリンです。
お申し出を受けていいはずがありません。
長男の方としても、どこの馬の骨とも分からない男にガソリンを譲るのは、身を切る思いだったことでしょう。
何度か「持って行け」「いや受け取れない」というやり取りがありましたが、私はガソリンを受け取りました。
私の本音はガソリンを受け取りたかったのですから、当然の結果に落ち着いたとも言えます。
こうして、雪が降る中、ゴムホースを使ってガソリンを吸いだして、車のタンクからバイクのタンクに移す作業が始まりました。
口の中にガソリンが入り、ガソリンの混じった唾を何度も吐きながら、それでもバイクのタンクを満タンにしていただきました。
せめてものお礼をお渡ししようと伝えましたが、それも断られました。
比較的近くにある福島空港が、この日から稼動し始めた事も教えていただきました。
雪が小降りになるのを待って、出発する事にしました。
◇◇◇◇◇
田村郡小野町で、奇跡的にガソリンを譲っていただき、バイクのタンクは満タンになりました。
外は放射能をたっぷり含んだ雪が、いっそう降る勢いを増してきます。
営業が開始された福島空港へ向かう事を決めました。
最悪の場合はバイクは置いて、飛行機で東京へ帰る事を念頭に入れていました。
うっすらと日が暮れ始め、気温がどんどん下がってきます。
小野町から福島空港へ向かう道は阿武隈高原です。
寒さが半端じゃありません。
常に震えが止まりません。
かなり久しぶりに営業する商店に出会いました。
セブン-イレブン福島平田店です。
ブラインドを下ろし、入り口に閉店の案内板がありましたが、中に人がいそうです。
凍えきっていた私は、閉店の案内も構わず、店に入りました。
「すみませんが閉店です」と、やんわりと言われましたが、全身びっしょりの私を見て声を失っています。
とにかく温まらせて欲しいと申し出たところ、快く迎え入れてくださいました。
物流が止まり、入荷がなくなったためコンビには私が来る直前に閉店したとの事でした。
温かい飲み物を立て続けに2杯ほど飲み、福島空港までの道を尋ねました。
最も近い道は、通行止めになっているとの事で、2番目に近い道を親切に教えてくださいました。
福島空港に再び向かいます。
道は完全に真っ暗です。
とにかく安全で落ち着ける場所が欲しくて、バイクをフルスピードで走らせました。
午後5時、福島空港に到着する事ができました。
ようやく安心する事ができた瞬間でした。
安心すると、今度は全身が雨と雪で濡れている事が心配になり始めました。
放射能に汚染されている実感があります。
福島空港にある交番の婦警さんに、近くでスクリーニングができる場所を尋ねました。
そうとう珍しい質問だったのでしょう。
それでも親切にスクリーニングの会場を調べながら、今こうしている経緯を問われました。
川俣南小学校へ行った事をお話しました。
スクリーニングは郡山の体育館で実施しているとの事でした。
空港から郡山までのバスの乗り方も、親切に教えてくださいました。
バスで郡山へ行く間、バイクを空港に置いていきたい旨を申し出たところ、これも快く承諾してくださいました。
郡山へバスで向かい、スクリーニングの会場に行きました。
防護服を来た人を見たのは、これが初めてでした。
午後6時過ぎだというのに、スクリーニングを受ける人達が長蛇の列でした。
◇◇◇◇◇
ここから先は、淡々と綴る事にします。
郡山でスクリーニングを受けた私は、その日は福島空港へは戻らず、郡山で一晩を過ごすことにしました。
朝の5時まで営業している居酒屋に行きました。
久しぶりの食事に感動を覚えました。
余震が何度かありました。
静岡県東部で震度6の地震があったのもこのときでした。
色々な避難所を転々とし、やっとの思いでこの居酒屋に来ている方が、他にも何組かいらっしゃいました。
居酒屋を出てから、福島空港行きのバスが出るまで、郡山駅前の交番で雨やどりをしました。
おまわりさんと語り合いました。
福島空港から、国道4号線を南下しました。
白河のあたりで、車の解体工場の方にお願いして、
再びガソリンが満タンになりました。
那須高原でこの日も大雪に見舞われました。
全身に雪が積もりました。
3月16日の夕方に宇都宮のビジネスホテルに入りました。
久しぶりに温かいお湯に入る事ができました。
このホテルも、被災地から避難してくる人達で満室になる寸前でした。
被災者と周りの人達の、緊張感のレベルが明らかに違いました。
「計画停電」なる言葉を初めて聴いたのも宇都宮でした。
放射性物質にまみれているであろう全身の衣類を、
残らずコインランドリーで洗濯しました。
テレビに映し出された、天皇陛下のお言葉が強く印象に残っています。
小山市の辺りで、東京方面へヒッチハイクする男性に出会いました。
神奈川県の方でした。
郡山でボランティア活動をしていたが、静岡の地震で実家が心配になり、帰ろうとしているとの事でした。
川俣町へ行った5日間の間で、唯一出会ったボランティアでした。
所沢の友人宅で、温かいお風呂と食事をいただきました。
ガソリンは尽きることなく、新座でバイクを返す事ができました。
満タンでバイクは返せませんでしたが、その時の事情から不問にしていただく事ができました。
3月17日夜、こうして私は無事に帰宅する事ができました。
ほとんど食事をせず、5日間の内では2日連続の徹夜をし、移動中は常に寒さで震え続けていました。
体重はあっという間に4キロ減っていました。
震災直後の現地の状態や、そこであった人々、自分の気持ち、被災者ではない一般の方達の振る舞い・・・見た事や体験した事が、未だに自分の中で完全に消化できてはいません。
これから長い時間をかけて、被災地の復興と共に消化していくのだろうと思います。
正直なところ、もう二度とあんな体験はしたくないと思います。
特に、目に見えない放射能の恐怖は、絶対に味わいたくありません。
ただし、あのような未曾有の災害が、私の隣人に再び降りかかる事があれば、また同じように行動すると思います。
妻よ、
決してよき夫とは言えないかもしれないけど、
その時はまた何も言わずに送り出しておくれ。
2011年4月、一人での活動に限界を感じたものの、納得のいかなかった私はWEBで同士を募り、キャンピングカーをレンタルして南相馬市でボランティア活動をする。
2012年3月11日、キャンピングカーで活動した仲間の一部と再会し、南相馬市某海岸にて献花。同日、小野町でお世話になったご家庭にご挨拶へ伺う。
2012年某日、川俣南小学校の教諭より、同校の道徳の授業にてブログを教材に使用したい旨の打診を受け、これを了承する。
キャンピングカーでのボランティアに参加した一組の男女が結婚。2018年現在、南相馬市で幸せに暮らし続けている。
川俣南小学校でお世話になった紺野先生は東京へ移住。現在も整体師としてご活躍中。