第6章 またここで
バレンタインデーに携帯電話に着信があったのは,真田蓮からであった。プレゼントを置いておくから受け取って欲しい,というだけのメッセージが残されていた。着信時間から見て,そのときに電話で話していれば藤代社長とは何事もなかったと思った。だが,どちらにせよ蓮からの告白だって十分に自分を戸惑わせている。
(好きだけど,ダメだよね。)
このまま連絡を取らなければ,蓮は忘れてくれるのだろうか。
決算前で仕事が忙しくなった。他社との兼ね合いもあり,藤代社長に付き添うことが多くなり,白川蓮美はいつも以上の気を遣っていた。それをどう捉えたのか,藤代社長は秘書を変えようと言い出した。
『私じゃだめですか?』
いつになく厳しい顔をした藤代社長は蓮美の視線から逃れるように,窓の外を眺めた。
『そうではない。ただ,苦しめているような気がして嫌なんだ。』
一切プライベートを仕事に持ち込まなかった人がここまで苦悩する姿に,蓮美の方がうろたえてしまう。
『あの,苦しいわけじゃないです。』
沈黙が訪れる。8年目になる社長と秘書の関係が,初めて崩れるような沈黙だ。
心が痛くなるような沈黙から打ち勝つように,蓮美は口を開いた。
『私はこの仕事に今まで掛けてきました。だから,続けさせて下さい。』
頭を下げて言うと,藤代社長が振り返る気配がした。
『私はいつまでも待つつもりだ。だから,焦らずに考えて欲しい。困らせたくて言ったわけじゃないんだよ。それから,君が私を断っても秘書は続けて欲しい。その点は分かってくれ。それから秘書は…白川君に任そう。』
苦悩を絞り出したような声で言われ,蓮美はいたたまれない思いをしながらもう1度頭を下げた。
藤代社長に告白されたのは驚きのひと言に尽きるが,蓮美の気持ちは決まっている。ただ,蓮とこのまま何もなれないと思うと,藤代社長に付いた方が安心するのでは,とも思っていた。
悶々とした日が続き,それから抜け出したくて柚華とご飯を食べることにした。今回も柚華は明け透けに聞いてきた。
『あの人に告白したわけ?』
『そうじゃないの。』
『じゃあ何?もしかして,実は脈ありだったってわけ!?』
意外そのものを声に出したように言われ,慌てて首を振る。
『気持ちの上では大変なの!』
柚華の妄想の暴走を止めるため声を大きくして言うと,呆気にとられ,それから肩をすくめた。
『なんか訳ありね。』
静かな問いかけに柚華が聴く姿勢になったと見え,2人から告白されたことを話した。
『それって,社長夫人になれるじゃん!』
たちまちミーハーな部分を出してきたが,蓮美の様子を見て柚華は舌をぺろっと出して失言を認めた。
『社長についていけば,この先安泰だよね。でも,気持ちはない。』
蓮美はうなずく。藤代社長の敏腕ぶりに尊敬の念を持っていたが,恋愛の感情はまったく考えていなかった。
『蓮って人についていけば,気持ちはあるけど,写真家だからこの先不安かもねぇ。』
28歳にもなると,やはり結婚の文字が浮かんでしまう。だからこそ,こういう先行きを柚華は気に掛けていた。しかし,自分でこういう比べ方をしたのだが,気に入らないように首を振った。
『やっぱり気持ちでしょ。』
『そう思う?』
柚華は梅酒をゴクリとのみ,揚げ出し豆腐を頬張った。
『よく言うあれよ。お金のないイケメンと,お金持ちのブ男。どっちがいいかってやつじゃない?』
『気持ちが入ってないじゃない。』
『お金を気持ちに入れ替えてみれば一緒でしょ。』
『どっちも容姿はいいと思うけど。』
柚華は眉を顰めて睨んでくる。
『悩んでいる割には冷静なツッコミね。』
『だって。』
『だってじゃないわよー。蓮美,気持ちはどっちにあるのよ?』
その答えは決まっている。
『蓮さん。』
『じゃあ,やっぱり社長夫人は魅力でもそっちは断るべきよ。気持ちがないのは続かないわ。』
『そーだけど。』
『それに,蓮って人から告白されて,蓮美も好きなんでしょ。こっちは丸く収まるんだから,悩む必要なんてないわよ。』
蓮美は視線を落とす。確かになんの事情もなければ,悩まずに蓮の胸に飛び込んでいただろう。だが,蓮の父・賢司との関係があったから,そんな素直な気持ちにはなれないのだ。悩んでいる蓮美を見て,柚華は首をひねる。
『気持ちが通じているのに,何が文句あるのよ?』
『文句って言うか……。』
頭の中で,賢司との不倫関係を言うかどうか悩んだが,言うべきではないと思って首振った。
『彼の父親がね,うちと取引している会社の社長さんなの。』
それだけ言うと,柚華の目と口が丸くなった。
『どっちにしろ社長夫人ってわけ!?』
『あのねぇ,蓮さんは継いでないの。だからそれはなし。もぅ。そこから離れてよ。元々私は社長夫人なんて興味ないんだから。』
『あーはいはい,そうだったわね。えーっと,取引先の社長の息子だってことでしょ。そんなん気にする必要ないじゃん。会社と結婚するわけじゃないんだし。』
『そうなんだけどね。』
そこで店員に時間だと言われ,しっくりしない気持ちのまま会計をして店を出た。
駅までの道,複雑な気持ちのまま柚華の横を歩き,この先をどうするか考えていた。すると,柚華は蓮美の頭を撫でてきた。
『気持ちが通じているってすっごく素敵じゃん。羨ましいよ。』
『柚華?』
『私はね,まだあの人のことが好きなの。かれこれ6年も経つっていうのにね。だから,こうしてちゃんと気持ちが通じた蓮美たちが羨ましいのよ。』
寂しげな声に,蓮美は胸をきゅっと掴まれたように切なくなった。
『不安な点はあっても,気持ちを殺しちゃダメだよ。』
柚華はそう言い,また蓮美の頭を撫でた。
翌日。蓮美は朝からずっと緊張していた。退勤後,藤代社長に話をするからだ。柚華と話すことで,藤代社長に対して心が決まったのだ。
あっという間に1日が過ぎ,退勤となった。あらかじめ話をしたいと告げていたので,社長室で待っていてくれた。
『私,色々と考えたんです。』
そう切り出すと,藤代社長は蓮美の緊張が伝わったように座り直して背筋を伸ばした。
『藤代社長のことは尊敬しています。一緒に仕事が出来て,サポートが出来て,幸せだと思っています。ただ,恋愛としてはどうしても見えなくて。』
蓮美は藤代社長の失望した顔を見たくなくて,うつむいた。だが,ハッキリと言うべきだと思い,思い切って顔を上げる。すると,意外にも藤代社長は穏やかな表情を浮かべていた。
『ありがとう,たくさん考えてくれて。』
『いえ,そんな。気持ちにお応え出来なくて申し訳ないと思って。』
『じゃあ,申し訳ないからって付き合う?』
呆気にとられ,それから首を横に振った。
『人の気持ちってそういうものなんだよね。返事をありがとう。これからも,秘書として支えて欲しい。もちろん,白川君が誰かと結婚したら盛大に祝おう。』
ちょっと老けたように見え,それでいて少年っぽさが垣間見えた。そんな雰囲気を持つ社長にお礼を言って頭を下げた。
次の休日,蓮美はあの喫茶店に行った。いつものようにカウンターに座り,マスターが丁寧に入れてくれる珈琲を待つ。
『どうぞ。』
差し出された珈琲をひと口のみ,ほっとひと息を付く。家で飲む珈琲より落ち着いた。それが伝わったのかマスターは微笑みながら下がった。
本を読むこともなく,ただぼんやりと珈琲を飲みながら時を過ごす。何も考えない時間が心地良かった。
静かな時を壊すように,喫茶店のドアが荒々しく開けられた。あまりの音に驚いて見ると,さらに驚いた。
『蓮さん。』
慌てて入ってきたのは蓮で,すぐに蓮美の横に座った。蓮美はどうしようと悩み,出て行くべきと思ってバッグに手を伸ばすが,それを阻まれてしまった。
『話がしたい。』
あまりに真剣な声で,抗えることはなかった。
蓮にも珈琲とドーナツが差し出された。
『マスター,色々とありがとう。』
『どういたしまして。良かったですね,逢えて。』
それだけ言って穏やかな笑みを浮かべて下がったマスターを,蓮美は不思議そうに見た。
『どうしても連絡したくて。だけど家に行くのは悪いと思ったから,ここに来たら連絡して貰うように頼んだんだ。』
その必死な想いが伝わり,蓮美は泣き出しそうになった。
『花束は受け取ってくれた?』
蓮の顔を見ずにうなずく。すると横からホッとするため息が聞こえた。
『良かった。』
『でも,良い返事なんて出来ないの。』
苦しみながら搾り出すように言うと,蓮の表情が強張るのが分かった。
『そりゃこれだけ連絡くれなかったしね。貰ってくれただけでも嬉しいけど。』
『違うの。』
あまりにきっぱりした声だったので,今度は蓮が不思議そうに見た。
『私はダメなの。』
『どうして?』
『ダメなものはダメなの。』
賢司との不倫は口に出来ない。それを知られて嫌われたくないのだ。
しかし,この答えでは蓮が納得するわけがない。蓮美が誰かと結婚,あるいは婚約しているなら分かるが,その事実はない。それなのにここまで拒絶するのなら,きちんとした答え欲しい。
仕方なしに蓮は写真を2枚出した。それを見て蓮美はドキッとする。あの新年会の写真だ。1枚は賢司と藤代社長の3人で写っているもの。もう1枚はほかの社長と話しているところだ。
『親父と知り合いだからダメって事?』
首を横に振ると,蓮は眉を顰めた。
『じゃあ,聞きたくないけど。親父と何かあった?』
蓮美の表情が強張る。1番触れて欲しくないことだ。
『蓮美さんの表情が全然違うんだよね。親父と写っているのだけは作ったような,強張った笑顔で。ほかの写真は全部自然と笑っているのに。』
あのときの不安がにじみ出てしまった。出したくないと思っていたのに,隠せなかったのだ。
帳消し出来るわけもない。だからといって,事実を言いたくもない。
黙って写真を見つめる蓮美に,蓮は話しかけた。
『親父と何もなくても,何かあったとしても,僕は気にしない。心配になるかもしれないけど,気にしない。僕は蓮美が好きだから。』
写真を仕分けていたとき,蓮美の笑顔の差に気付き,様子がおかしい原因ではないかと思ったのだ。だが,おそらく過去のことであり,戻ることがないならば,これからを見ようと思った。だから,あの花言葉を贈ったのである。
なにがあろうと真面目な愛を贈る。
蓮美はその想いに気付き,思わず泣き出した。涙が頬を伝い,それを見て蓮はミニタオルを渡した。蓮美はそれを受け取り,目頭を押さえる。
真相は分からなくても,何かに気付かれてしまったことには壊れるような思いをした。しかしそれ以上に,穏やかで温かい気持ちを伝えてくれ,包み込んでくれるような蓮に感謝がいっぱい募った。
『本当に気にしない?』
『過去を変えることは出来ないから。これからを見ればいい。』
きっぱり言う蓮。蓮美は顔を上げ,泣いた赤い目で蓮を見る。
『私で良かったの?』
『じゃなきゃ告白なんてしないよ。』
『でも……。』
蓮はもどかしい気持ちのまま,蓮美の顔に手を添えた。
『僕は蓮美が好きなんだけど,蓮美は?』
こんな間近で目を合わせて言うのはあからさまな気もするが,蓮に限ってそれはないと思った。これが彼の自然な姿なのだろう。
(ずるい。)
『好き。』
ずっと胸に秘めていて,ようやく言えた大切な言葉。
蓮は穏やかに微笑み,それから蓮美とキスをした。珈琲を飲んでいたのに,ほろ苦さはなく,なぜか甘い。
またここから始まった恋愛。まさか彼らが親子とも思わなかったが,その不安はこれからもっと薄く,次第に消えていくだろう。そう思えるものが蓮にはあった。
先月からの苦しみは消し去り,蓮美は安心して前を見られた。
蓮美と蓮はマスターに会計を済ませながらお礼を言い,それから春先の薄い青の空の下を歩き始めた。
ここからスタート。