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珈琲  作者: 快流緋水
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第5章  狭間に揺れて

 あのあと,新年会をどう過ごしたかあまり覚えていない。それほどこの事実にはショックを受けていた。

 不倫関係であった真田賢司と,親しくしてきた蓮が親子だと知り,白川蓮美の胸中は穏やかになれなかった。蓮と付き合っているわけではなく,ただの友達のような関係だが,親子関係と知ってからは近寄りがたかった。それは,いつか不倫関係であることが知られてしまうのではないか,という不安であった。知られてしまい,軽蔑されるのがとても怖かったのだ。

 ぐるぐると渦巻くこの不安にいち早く気付いたのは蓮であった。電話中,返事の変化があまりにもおかしかったのだ。だが,真相を打ち明けるわけにもいかず,忙しいという建前でやり過ごしていた。その嘘が見破られたのかどうかは分からないが,それから蓮から連絡は一切来ていない。忙しいから遠慮してくれたのかも,と思うようにしていても,話せない日が重なるにつれて苦しさが積もっていった。

 それだけ蓮に対しての気持ちがあった。


 街中はバレンタインデーに向けて盛り上がっている。しかしそんなことは目に入らず,蓮美はただ一心不乱に仕事に励んだ。気持ちに踊らせられないためにも。それでもあの衝撃は隠せない。

『白川君?』

ハッとして運転席にいる藤代社長を見る。不安そうな視線とかち合うと,ドキッとして思わずうつむく。だが,呼ばれていたことに気付き,顔を上げる。

『すみません,ボーッとしていて。』

そう言うと,藤代社長はおもむろに蓮美の額に手を当てた。

『熱はないようだが。』

社内でインフルエンザが流行しているから,その心配をしたのだ。見当違いに苦笑をもらしそうだが,慌てて引っ込めて頭を下げる。

『大丈夫ですよ。心配していただきありがとうございます。』

『いや,元気ならいいんだよ。』

そう言い,青信号と同時にアクセルを踏んだ。


 休日。どこへ行く気も起こらず,何をする気にもならず,ただソファーに横になりながら音楽を聴いていた。大好きなラフマニノフ作曲交響曲第2番もこの憂鬱な気持ちを払ってくれない。

(いっそ魔笛とかレクィエムを聴いて,落ちる所まで落ちようかしら。)

そんな気持ちを持ちながら聴いていると,ふと真田賢司と一緒にコンサートに行ったことを思い出してしまった。しかも,この曲を聴きに行ったのだ。

『ダメだわ。』

慌ててCDを取り出し,CDラックから何か良いものはないかとカタカタと音を立てて探し始めた。何の接点もない曲を探すのは難しく,結局ラヴェル作曲のボレロをかけた。

『まさか親子だなんて。』

何度呟いたかも覚えていないくらい,口に出した言葉だった。

(もし不倫していたことがバレたら,蓮さんと顔合わせらんないよ。)

蓮と連絡を取れないことが苦しかった。今後会えないと思うと,ひどく寂しかった。蓮美は柚華に言われた通りの気持ちなのだ。

(蓮さんが好き。)

気持ちはハッキリしたけれど,それを告げる勇気はない。むしろ,父親の次には息子か,という図が見えて嫌なのだ。もちろん,意図したわけではない。

 偶然なる運命であったのかもしれない。


 バレンタインの日。蓮美はそれに気付かないくらい仕事に没頭していた。会食のセッティングや納品のチェック,社長以下についている秘書と予定の打ち合わせなど,やることは尽きなかった。この間よりは落ち着いてきたとはいえ,こうして夢中になれることがあってホッとしていた。

 秘書室から蓮美以外が全員退勤してからもまだ仕事を続けていた。締切期限はまだまだ先でも,熱心に資料をめくって書類をまとめる。その間,バッグの中で携帯電話が気付いてとばかりに鳴らしていたのだが,蓮美は気付かなかった。

 9時過ぎ,秘書室のドアがノックされた。

『どうぞ。』

今の時間来るのは警備員かと思いきや,意外にも社長であった。今日は会食があるから夕方見送り,そのまま帰宅となっていたはずである。

『藤代社長?どうしたんですか?』

慌てて立ち上がり,藤代社長に近付く。

『何か緊急なことでも出来たんですか?』

引き締まる蓮美の表情を見て,藤代社長は軽く笑んで手を振った。

『いやいや,何もないよ。ただ,まだ明かりがついていたから不審に思ってね。まさかまだ仕事をしているとは思わなかったよ。』

『きりがいい所までと思っていたんです。』

『そうか。でも,もう遅い。明日にしなさい。詰め込みすぎるのは良くない。』

ここで中断するのは気持ちに揺らぎが出来てしまうが,上司に言われては反論しようもなかった。まして退勤時間はとっくに過ぎているのだから。

『はい,分かりました。』

『遅いから送って行こう。』

『ありがとうございます。』

蓮美はデスクに戻り,慌てて必要なものをバッグに入れ,デスクに鍵を掛けて藤代社長の所に戻ってきた。

『じゃあ行こう。』

電気を消し,先延ばしされた仕事を未練がましく思いながら退室した。

地下駐車場からレクサスに乗って蓮美の家に向かった。渋滞もなく,スイスイと車は進む。

『疲れただろう。何かご飯を食べていくか?』

『家に下準備したのがあるから,大丈夫です。』

本当は何の準備もしていないが,さらりと断った。この気持ちのままでは,相手に気を遣わせてばかりになると思ったからだ。それが伝わったのか,藤代社長の眉が顰められた。

『この間から思っているのだが,何か心配事があるのかな?』

『え?』

蓮美は藤代社長を見る。仕事以外は鈍い方である藤代社長からこう言われるのは珍しい。仕事中なら今までにも言われたことはあるが,こうして退社したあとは初めてだ。

『白川君は元々仕事をきちんとこなしてくれるから助かるが,最近は妙に詰めてしているように見えてね。まるで,何かから逃れるように。』

蓮美はすぐに視線を窓の外にやる。痛いところを突かれている。答えないでいると,藤代社長はため息をついた。

『もちろん,君のプライベートに踏み込むつもりはない。ただ,心配なんだよ。』

その心遣いはありがたかった。だが,この気持ちの原因までは解けるはずがない。もちろん,事の真相を言いたくない。

『心配してくださってありがとうございます。』

口にしたのは,感謝の言葉であった。だが,それにはこれ以上聞かないで欲しいという気持ちもこもっていた。

 蓮美のマンションの前で車を止めると,藤代社長はシートベルトをはずし,蓮美の方に身体を向けた。

『何か困っているのであれば,話して欲しい。』

真っ直ぐな視線で見られ,蓮美は不思議とドキドキしてしまった。

『今までにないほど,苦しい表情を浮かべている白川君を見ていると可哀想で仕方ないんだよ。』

上司と部下として今まで何度も相談事はしてきた。だが,ここまで言われたことはない。普段は見ない,熱い思いを見せられたようで,蓮美は泣きそうになった。それに藤代社長は気付いていたが,話を続けた。

『白川君,私は君が好きだ。』

突然の,思ってもみない告白。蓮美の中に色々な感情が渦巻き,どうしていいか分からなくて視線が彷徨う。ただ,こぼれそうな涙を堪えるのに必死であった。

『ずっと言わないでおこうかと思った。だが,今の白川君を見ていたらもう黙っていられなくてね。』

暖かな視線が蓮美に注がれるが,それを受けることは今の蓮美には出来なかった。うつむいて視線を避ける。

『私は……。』

泣き出さないよう,手をぎゅっと握ってそれを見つめる。

『返事は待つよ。いつだっていい。』

蓮美に無理がないよう,優しく藤代社長は言った。その気遣いは嬉しくもあり,また苦しみのひとつにもなる。もう蓮美の頭はパンクしそうであった。

『分かりました。送ってくださってありがとうございます。失礼します。』

形式的にそう言って車から降りた。いつもなら車を見送るのだが,まったく見ずにマンションに駆け込んだ。そうでもしないと,渦巻く気持ちに閉じ込められてしまいそうであった。

 鍵を取り出しながら自分の部屋の玄関を見ると,ドアノブに袋が掛かっているのが見えた。宅急便がこんなことをするはずがなく,不審に思いながら近寄ると,袋にメモが張られていることに気付いた。この字は蓮の字だ。

『どうして?』

こらえきれず,涙がこぼれる。

 思考回路が寸断されるような,それでいてこんがらがって上手く伝わらないような,そんな状態のまま袋を手に取り,中を見る。袋の中にはブーケほどの大きさの花束が入っていた。チューリップの花束は蓮美の瞳に鮮やかに写った。色とりどりのチューリップがこの寒空の下,可憐に蓮美を見上げている。ここだけに春が来たような,そんな花束だ。

 メモにはこう書かれていた。

Dear. Hasumi  花言葉を貴女に  From. Ren

あれからずっと連絡を取っていなかった愛しい人。その人の字に指を這わせ,何度も読み返す。そのたびに涙がこぼれた。

『蓮さん……。』

蓮美は大事に花束を抱え,冷えた部屋に入る。ふらふらになる思いをしながらテーブルに花束とバッグを置く。そのとき,チューリップのそばにメッセージカードがあることに気付いた。蓮の字ではない。可愛らしい字から見て,花屋さんのサービスのように思えた。それを取り出し,書いてあることに目を通す。

『これって……。』

そのメッセージカードには,花言葉が書かれていた。そこに書かれていた言葉は,<恋の告白,真面目な愛>であった。

『どうしてぇ……。』

そのまま崩れるように座り込み,顔を覆って泣き出した。とめどなく涙はこぼれ,バッグからタオルを出して顔を抑えるが,それでも涙は流れ続けた。

 親子の発覚。

 思いもよらない告白。

 蓮美はどうしても前を見られなかった。

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