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珈琲  作者: 快流緋水
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第2章  あの席で

 白川蓮美が真田賢司と別れて3ヶ月経った。その間,蓮美が取り乱したことは1度もない。いつもきっちりと長い黒髪をひとつに結び,社長について滞りなく仕事をこなしていた。賢司は取引先の社長でもあるから会わずにはいられなかったが,表情を表に出さないのは2人とも慣れていた。何事もなく,日が過ぎる。

 ただ,心の中では一抹の寂しさが燻っていた。納得して別れたとしても,愛する人との別れは辛いものだ。それを誰かに話して気持ちの整理が出来ればいいのだが,それは叶わないことであり,そうして偏見を持たれたくもなかった。


 土日に出勤の多い蓮美は,平日に休みをもらって過ごしていた。今日は2週間ぶりの休み。梅雨に入ったので雨の休日だと思っていたが,朝から太陽が顔をのぞかせていた。久々に見る青空で天気よく,たまった洗濯物をスッキリ乾かせそうだ。窓を全開にし,梅雨の晴れ間なのに乾いている空気を通し,午前中いっぱい掃除をした。隅々まで掃除をすると,気持ちまでスッキリしてきた。良い1日になりそうである。

 午後,気になっていたイタリアンレストランでプチ豪勢なランチをとってスタートする。それからショッピングを楽しみ,蓮美は洋服をまとめ買いして自宅配送を願い,その後本屋へ向かった。

 本は以前から好きで,ジャンルを問わず好みのものを探し出しては読んでいた。今は写真集にはまっていた。主に自然を写した写真集が好きで,家の本棚のひとつは海や空などの写真集で埋まっていた。

 写真集のコーナーに立ち入って早速ページをめくる。今まで買っていなかった物から新刊まで,気になった写真集を端から端まで手に取る。本を痛めつけないよう丁寧にめくり,好みのものをチョイスしていく。

 2時間ほど掛けて選んだ写真集6冊をレジに持って行き,1冊だけ持ち帰りにしてあとは無料配送にしてもらった。支払いが済むと,写真集を持って行きつけの喫茶店に入る。

 この喫茶店は珈琲が美味しいことで有名で,お茶菓子のようにドーナツが付いてくる喫茶店であった。珈琲好きの賢司と,仕事以外で初めて会った喫茶店でもある。偶然この喫茶店で会い,そこからスタートしたのであった。

 蓮美がカウンターに座ると,何も言わずにマスターが珈琲を用意し始めた。常連のお好みを全てインプットしているマスターなのだ。そういうところも,ここに来たくなる理由であった。

 数分して珈琲の香りが鼻をかすめ,マイセンのカップに入れられた珈琲とドーナツが差し出された。ミルクと砂糖は付いていない。賢司の珈琲を飲むようになって,すっかりブラック派になってしまったのだ。それを思い出して苦笑し,珈琲に口をつける。ほろ苦い風味が口に広がる。

『美味しい。』

ただそれだけの呟きに,マスターはにっこりして下がった。

 マスターが下がったのを見て,蓮美はバッグからさっき買った写真集を出した。屋久島の写真集である。文庫本ほどの大きさなので,これからどこかへ行くときに,お供になれそうだ。

 しばし見入っていると,隣に男性が座ってきた。蓮美より先に来ていた客で,座っていたテーブルから自分でカップを持ってきたようである。この不自然な行動に蓮美は顔を上げた。

『あ,邪魔しちゃいました?』

栗色の髪の,少し日焼けをした細身の男性があっさり言ってきた。あまりに飄々としているので,蓮美の方が面食らってしまった。

『あ,いいえ。あの……。』

続けることが出来ず,しどろもどろになる蓮美を見て,彼は微笑んだ。笑う顔を見て,少しだけ暖かな気持ちがした。

『その写真集,僕が撮ったんですよ。』

イキナリのこと過ぎて,蓮美はぽかんと口を開けてしまう。それから手にしている写真集を閉じて表紙を見る。原始的な大木の表紙は,この男性とはかけ離れている気がした。

『これを?』

少し疑うような口調で聞くと,男性は気にした様子もなくうなずいた。

『そうです。』

そう言うと,彼は名刺を差し出してきた。青地の柔らかそうな紙に,<REN>という名前が真ん中に書かれていた。下の方に住所と電話番号,そして注意事項として,携帯電話がなっても気付かない場合があるのでご了承ください,と書かれている。印刷された文字だが,なんとなく個性がにじみ出ているような名刺だ。それを見てからもう1度写真集の表紙を見る。そこにはちゃんと写真家・RENと書かれていた。

『RENさんですかぁ。』

ようやく信じた蓮美にRENはにっこり笑った。

『はい。』

『じゃあ私も。』

名刺交換をする癖がついた蓮美は,いつものように名刺入れに名刺を載せて手渡した。会社の名刺だが,薄い緑の名刺は白い名刺より爽やかで個人的に気に入っているからいつも持ち歩いていたのだ。

『へぇ。』

RENが不思議そうに見た。

『奇遇ですね。』

『え?』

今度は蓮美が不思議そうに蓮を見る。

『RENっていうのは本名なんですけど,字は蓮美さんの蓮の字なんですよ。僕の場合は,れん,って読むんですけどね。』

『そうなんですかぁ。かっこいい名前ですね。』

素直に出た言葉に,蓮は少し照れた。

『名前負けしないように頑張ってますけどね。』

『名前負けなんかしていませんよ〜。』

蓮美ははしゃいで写真集をぺらぺらとめくる。

『この屋久島の,すっごくいいですよ〜。ぱっと見て,これは買わなきゃって思ったんです。どのページも,そこで見ているような感じがして素敵ですよ。』

『どうも。サインでも書きましょうか?』

照れ隠しに言ったつもりが,蓮美はちゃっかり写真集とボールペンを差し出した。蓮はびっくりしてしまったが,それでもボールペンを受け取って表紙の裏にRenと筆記体でサインした。

『サインって言っても,こんなんですいません。』

自分が言ったこととやったことに恥ずかしそうに笑みを浮かべていたが,蓮美は満足したように大事に写真集を撫でた。

『いいえ,嬉しいです。大事にしますね。』

『ありがとうございます。なんかすいません,自分が撮ったのを持っているから,つい声を掛けちゃって。』

すまなそうに頭をかく蓮に,蓮美は笑顔で首を振る。

『お目にかかれるとは思わなかったから,凄く嬉しくて。こちらこそ,ありがとうございます。』

蓮美は丁寧に頭を下げた。


 次の日の夜,蓮美はさっそく蓮に感想の手紙を送った。自宅配送にしておいた写真集の中にもう1冊RENの写真集があり,それについてもびっしりと感想を書いていた。それから,蓮は駅2つほどしか離れていない所に住んでいることに気付き,蓮美の自宅住所と携帯電話の番号も書き込んでおいた。


 意外にも,5日後,蓮から電話が掛かってきた。あり得ない,と思いつつ携帯電話に登録していた蓮美にとっては嬉しいサプライズだ。今度撮影に色々なお城を巡ることや,次に出る写真集などをたっぷりと話し込んだ。

『人物は撮ったりしないんですか?』

『まれにあるけれど,苦手なんですよね。まだまだ未熟なんで。』

『あんなに綺麗に取れるのに。』

軽く笑う声が蓮美の耳に入った。

『そんなことないですって。だって駆け出しの22歳の写真家ですよ。』

『え!?』

蓮美は驚いて声を上げる。それを聞いて,蓮は笑い出した。

『そんなに年寄りに見えたんですか〜?』

『いや,そういうことはないけど。』

慌てて言い,蓮の顔を思い出す。少年っぽいような目をしていたが,顔は年齢よりも大人びている。

『じゃあ何歳に見えていたんですか?』

蓮は空中を眺めて考える。

『25歳くらいですね。』

『じゃあ蓮美さんと同じくらいってことですか?』

この返しには思わず笑みが浮かんだ。

『あ,若く見えるって言ってくれてありがとう。』

『え?』

そう笑って返すと,今度は蓮が驚いて声を上げた。

『今一応27歳なのよ。』

『え〜,見えなかったですよ。まぁ若く見えた方がいいですよね。』

『そうですね。それにしても凄いですね,22歳で写真家なんて。ほかの写真家さんはもっと年齢が上でしょう?』

『ん〜そうですね。まぁ賞を取れたりして,運が良かったんですよ。』

おごることなく,ありのままの蓮の言い方が,蓮美は気に入った。

『ねぇ,丁寧語じゃなくていいですよ?』

急な話題転換に,電話の向こうでは戸惑っていた。

『上下関係があるって言うわけじゃないし,気楽に話しましょうよ。』

それを聞いて蓮は笑い出した。

『じゃあ蓮美さんも丁寧語禁止ね。』

早速口語に変わった蓮に言われてしまった。

『丁寧語でした?』

『ほら。』

『あ。』

『蓮美さんから言い出したんだから,しっかりね〜。』

口語になったとたんに,蓮の人柄が変わったように思えるが,これが普段の姿なのであろう。蓮美はその変わりように微笑んだ。その素の姿が嬉しかった。

『そうね。分かったわ。』

あの時声を掛けられ,まさか写真家だとは思わず,こうして関係が続くとも思えなかった。それだけに,蓮美はこうして親しく話せるだけで嬉しかった。蓮としても,今まで見えなかった読者と真正面に見ることが出来,新たな刺激にもなっていた。

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